コユキと眼鏡 (2)

 夜、茶色いアパートの一室では男女二人がテーブルを囲んでいた。

 タケルがくるのは週に一、二回。仕事も忙しいし、奥さんのこともあるのだろう。くれば勉強自体は楽しくやってくれているようだった。

 タケルは、ここから十分ほどの同じ町内に、平屋の一軒家を借りて二人で住み始めていた。

「今度彩もつれてきていいすか」などとくすぐったいこと言ってくれたりもする。

 考えてみると、あのプチ披露宴はまだ三日前なのだ。

 マサキの中で、はっきりと懐かしい過去のことになっていた。

 ホークスは劣勢。オールスター前の九連戦初日。

 まだゲームセットではないが、どうも流れがつかめない。いい形で前半戦を締めてもらいものだ。

 中継は見ず、ネットの一球速報でチェックしている。宮城も小雨が降っているようだった。

 どこまでもおあつらえ向きの一日だ。

 成美は部活が忙しい。中学最後の中体連がちょうど一週間後で、土日も練習にいっているらしく、夜、マサキの部屋にくるとさすがの成美も疲れて見えた。

 うとうとしてることもあるが、マサキは何も言わず(パソコンを)見ていた。

 マサキのときは、剣道部は男子よりも女子のが一生懸命で結果もよかった。

 うとうとしている横顔を見ながら、最後の大会を見にいってみるか、などと思ったりもする。

 言えばどんな顔をされるか。「ざけんな、バカ、ヘンタイ」。そんな場面が浮かんだ。

 二十一時を回った。

 成美が、片付けながら「した」と小さく頭を下げ、さっさと立ち上がってテーブルを離れていった。「応援にいこうか」などと言える空気ではない。

 靴をはいてドアの前に立つ背中に「おやすみ」とかけようとした。

「ねぇ」

「ん?」

「死んだの?」

 固まった。硬直した、視線も、思考も。

「なんでよ!」

 咄嗟に立ち上がり歩み寄ったマサキの前に、少女は向き直って膝から崩れた。

「なんで、なんでよ……」

 ――なんで……。

 答えようがなかった。俯き、顔に手を当てて、少女は嗚咽をもらさんばかり泣いていた。

 彼女の横にしゃがみ、震える背中に、そっと左手を添える。少女の右手が、男の胸を突き飛ばした、尻もちをついた、あっけなく。

 仕方がない、突き飛ばされても仕方ない、それ以上近寄ることもできずに、涙にくれる少女を眺めていた……。

 ――わたしは……。

 再び、マサキは近寄った。伸びてきた右手の手首を右手でつかんでそのまま押し戻すと、少女を両腕でそっと包み込んだ。

 少女の体から力が抜け、崩れるように、彼女は泣き顔をマサキの右肩に乗せてきた。彼女の涙が、鼓動が、温かかった。

 右肩から流れ込む悲しみが、マサキの胸に溜まっていく。溺れそうになる。

「ごめん、ごめん、ほんとに、ごめん」

 息を吸い込むように口を開いた。涙で心が洗われるようだ。

 マサキの分まで、少女が泣いているようだった。

 

 ひとしきり泣き止むと、少女は弱々しく立ち上がり、泣き顔を隠しながらドアを出た。マサキも後に続いて外に出る。

 階段を前に、少女の背中は余りにも不安定に見えた。そのまま、真っ逆さまに落ちてでもいきそうな。

「え?」

 階段を見下ろして、少女が何か呟いた。背後から耳を少女の顔に近づける。

「え? おんぶ?」

 こくんと前髪が縦に揺れたようだった。真っ逆さまに階段を落ちていく、少女ではなく男女を、マサキは予感した。

 隣の部屋が暗いのが幸いだった。マサキに断れるはずがない。

 おんぶしたらしたで「エッチ、ヘンタイ」などと言われつつ、覚悟を決めた。

 ――やっぱり言われるんだな。

「いいか、ちゃんとつかまってろよ、動くなよ、二人して」

「死」という言葉は、さすがに生々しくて出てこなかった。慎重に慎重に、階段を一歩ずつ踏み降りた。

 若干体の向きを斜めにして、正面からではなく横から降りるように、一段一段両足を揃えた。四段目くらいで、

 ――美穂ちゃん……。

 彼女の顔が浮かんだ。相変わらず、マサキをからかうような彼女の笑顔だった。


 なんとか無事に階段下のコンクリートを踏んだ。そこで降ろそうとすると「部屋の前までに決まってるでしょ」とあごの下に腕が入った。がっつり喉仏に決まった。

 言いつけ通り部屋の前で降ろすと、彼女は何も言わずにとっとと中に入っていった。

「おやすみ」

 マサキが言い終わる前に、ドアの鍵はカチャとしまったようだ。

 お礼の一言も何もないのは気にならないが、まずい前例を作ってしまった、という後悔に似た思いはあった。

 雨は降っていなかった。空には星一つ見えない。

 地上の僅かな明かりが、いかにも重たそうな黒い雲を仄かに照らしていた。

 地面は濡れている。マサキは、階段に背を向けて、灯の浮かぶ道路に出た。

 ――階段を上がる音が聞こえないと。

 不安にさせたくなかった。

 思い直して階段に戻り、カン、カン、空を見上げながらゆっくり上がった。

 次は「二階までおんぶして上がれ」などと言われてはかなわない。足には既にかなりの乳酸が溜まっている。女の涙は、高くつく。


 部屋が煙くなった。成美が蚊取り線香を嫌う。

 成美がいなくなると、マサキは蚊取り線香に火をつける。蚊はいる。という必然性だけでなく、蚊取り線香のノスタルジックをマサキは好む。香りも。

 マサキが唯一意図して焚くお香が、蚊取り線香。

 冷蔵庫が静かになっても耳鳴りはやまなかった。

 扇風機に吹かれ、バランスボールに寄りかかって、ボーっと部屋を眺めた。

 マサキの表情や態度が、喪服はしまってあったが葬儀の「匂い」があるいは、彼女に「それ」を感得させたのかもしれない。あの子の感受性はハンパない。

 ――もし、そうではなくて……。

 玄関のドアを見る。顔の高さにあるすりガラスに人影はない。マサキには見えない。

 もし、成美があの時点で何かを感じたのだとしたら……。

「……」

 言葉にならない寂しさが襲う。

「なんで」と成美の口から出た言葉。美穂の思いを、初めて声で聞いたような気がした。

 結局、なにもしてあげられなかった。助けてあげられなかった。

 それどころか。

 神正樹、とんだペテン師だ、稀代のソフィストだ。

 彼女が彼氏と別れることを願っていた。

 マサキのほうから手を握ったり、意味ありげに見つめ合ったり、襲いかかったりすることなく、彼女の責任で、彼女の方から「ほんとは大学のときから」と彼氏を捨てて、ちょっと普通と違う「夢を追いかける男」の元に走ってくることを願っていた、期待していた。

 いや、しむけていた。

 一つ、息を吐いた。ひとくちチョコを口に入れる。網戸の外、夜の底から湧き上がる虫たちの声。

 草葉の陰で、泣いている、か。

「なんで」という言葉を改めて考える(正確に言うとそれは成美の言葉だが)。

 聡明な美穂はマサキの下衆な下心など全て見抜いていた。

 その上でアパートを訪れ、笑顔を見せ、愚痴をばら撒き、涙を見せた、

 なのに、なんで……。

 抱きしめておくべきだった、唇の一つも奪っておくべきだった、

 のか。

 ――彼女を助けるためか、それとも、自分の欲求を満たすためか。

 佐藤雅人のことを思い出した。

 彼女を救うために〝城〟まで押しかけ、伯爵を投げ飛ばした。

 その上で「なんかあったらお前を何度でもぶん投げてでも彼女をもらっていく」と啖呵をきって引き上げてきた。

 なんと男らしい。

 自分らしくあるということ。

 マサキはいつもそれを考えている。

 家賃二万五千円のアパート、ちらかった部屋、週数回のアルバイトによる収入とかつかつの生活レベル。

「目標を達成するため」以上に、そういう生活が自分の性に合っている、と思っていた。

 自分らしく生きる、ということ。

 ――できないのが、わたしじゃないか。

 唇を奪うだとか、抱きしめて「美穂は俺のものだ」と宣言するとか、できないのが「わたし」だ。

 それが「神正樹」らしさだ。

 マサキがそれができる人間なら、彼女だって部屋にきていないかもしれないし、やれるなら八年前にやっていた。

 自分らしく、何ができた。彼女に何がしてあげれたのか。

 いったい何が「正解」だったんだろうか……。

 スマホを見る。三日前の着信履歴にある彼女の名前をじっと見つめた。

 最後のチャンスを、自らふいにした。

 真っ暗な湖のほとり、虫の声と波音の間で、女は何をか思う。

 一方で、マサキは能天気に友だちと鍋をつついていた。眼鏡を曇らしたくらいにして。

 彼女と話をしていたら、彼女は思いとどまっただろうか。彼女を止めることができただろうか……。

 バランスボールに背中を預けて、マサキは目を瞑った。


 彼女の死の原因を自分で引き受ければ、それはマサキは満足だろう。自分を責めていればいい。

「彼女を助けることができたのに」と時折悔やめば、彼女はマサキの中で「生き続ける」ことになる。

 小松崎はマサキの存在を知らなかった。

 誰かに相談していることも知らなかったのか。彼氏の知らない「島方美穂」を、マサキは知っている。「それ」はマサキのものだ。

 木曜日の朝、布団から上半身を起こして固まった。

 なぜ、彼女は死ななければならなかったのか。

 マサキにできたことは、せいぜいそれを〝引き伸ばす〟くらい。

 彼女がそこまで追いつめられた原因は、いったいなんなのか。

「自殺」なんて彼女には似合わない。

 彼女をそこまで追い込んだモノがほんとはなんなのか、マサキは知らない。

 ――知らなければならない。

「なんで」という言葉を思い返す、今度は成美の言葉として。

 なんで美穂は自ら命を絶たなければならなかったのか。

 彼女の悲しげな表情をこそ、成美は見たのかもしれない。

 やはり、原因を知らなければなるまい。


 何度あの男に電話をしようと思ったか知れない。

 幸雄の水曜日は、そのための葛藤で埋め尽くされていたと言っていい。

 葬儀の翌日、出勤した幸雄を多くの人が慰めてくれた。具体的に何かをしてくれたわけではない。

 何もしてくれなかった。ひたすら「触れずに」いてくれた。

 幸雄に対する、周りの悲しげな表情だけは避けられない。まるで自分が哀れまれているかのようだった。

 なぜなら、幸雄は何もできなかったから。

 できたことと言えば、彼女を引き上げたことくらい。

 できなかったこと以上に、何も「知らなかった」ことがショックだった。

 情けなかった。悔しかった。

 彼女が苦しんでいたのは知っている。「自殺」の文字だって全くなかったわけじゃない。

 触れないことが優しさだと思っていた。待つことが強さだと思っていた。

 あるいは、もう手遅れだと思っていた……。

 神正樹とかいう男の存在を知ったのは、見事に彼女が死んでからだった。

 いったい、ヤツは何者だ?

 美穂の大学時代の知り合い、バイトの先輩だということだが、なぜ美穂はあいつを選んだ?

 あの黒縁眼鏡は、それほど信用に足る人物なのか?

 医者か?

 カウンセラーか?

 帰ったかと思ったら会場の外で最後まで見送っていた。

 ――あいつの目に、俺はいったいどう映っていただろうか。

 お笑いぐさだろう。さぞ滑稽に見えていたに違いない。

 土曜日にいきなりわけのわからん電話をかけて、日曜日にも電話して、昨日も昨日で、ずっと彼氏面でことに当たっていた。

 ――とっくに棄てられていたっていうのに……。

 倉橋が言ってた「おっさん」てのがあいつだったとしたら、目も当てられない。

 土曜日も泣いた。日曜日も月曜日も、昨日もマンションで一人涙を流した。……なんの涙だ。

 ――俺は、美穂のなんなんだ。

 ――あいつは美穂のなんなんだ?

 あいつは美穂の何を知っている。

 知りたかった。いや、知らねばならない。幸雄の知らない美穂を知っている……。

「もうどうでもいい」という気にはならなかった。知りたかった。直接話しをしたかった。

 あの人間なら、きっと聞けば話してくれるだろうと思った。

 ――週が明けてからでいいだろう。

 せめて初七日が過ぎてからでいい。

 最悪、彼女のことで揉めるようなこともあるかもしれない。彼女の死に顔に泥を塗るようなことは、なるべく避けたい。


 木曜日。実験室の机で幸雄が作業している前を山木が通る。立ち止まり、声をかけるでもなく、幸雄が気づいて顔を上げると目と目が合う。

 小さく頭を下げて、去っていった。

 不愉快になりかけたのを、美穂が抑えたようだった。

 昼休み。幸雄は屋上にいた。

 時刻は十二時四十三分。そろそろ涼しい室内に戻っても文句は言われまい。

 と、電話が震えた。着信。相手は神正樹だった。


 これから美穂の家にいくと言う。

「なにしにいくつもりです?」

 ちょっと調べたいことがある、と言う。だから場所を教えてくれ、と。

「ちょっと、もうちょっと待ったほうがいいんじゃないすか」

 非常識だとは思わないのだろうか。

「調べたい」とは、彼女の部屋なりを調べるということか。家族に何か聞くことまでするつもりか。なるべく早いほうがいい、と言う。

「教えるのは構わないけど、そういうのはせめて週が明けてからのほうがいいと思います」

 腹も立つ。幸雄だって遠慮しているというのに。

 美穂の家族からはいまだに「彼氏」として扱われている幸雄でさえ。

「では妹の携帯番号を教えてくれ」と言う。もちろん、幸雄から相手の了解を得た上で。

 すぐに返事はできない。どこか陰のある存在感に黒縁眼鏡を思い描くと、感情だってざわめく。

 なぜあんたはそんなに遠慮がないのか、あんたはいったい彼女から「なに」をもらった?

 ――俺から美穂を奪ったあんたが、俺になにを頼むって?

 なぜ、あんたなんだ?

「知りたいとは思いませんか、どうして、彼女が……、わたしたちが彼女の葬儀に出なきゃならなくなったか」

 回りくどい言い方をする男だ、自分のことを「わたし」と言い……。

 知りたいに決まっている。「俺」の知らない、「わたし」が知っている美穂のことを、是非とも聞かせて欲しい。

 聞く権利はあるだろう。

「じゃあ明日にしよう、明日、一緒にいきましょうか」

 向こうは少し考えて、「わかりました」となった。金曜日は、いちおう定時で退社しなさい、ということになっている。

 待ち合わせ時間場所などはまた後で決めよう、ということで電話を切った。

 結果的に、押し切られた、という残念な思いはない。きっかけを欲していた自分に気がついた。

 立ち上がり、屋上に背中を向ける。電話の言葉、何かが引っかかっていたようだが、深くは考えず、非常階段のドアを入った。

 すぐに涼しかった。中に入ってほっとした自分が、なんとなく寂しかった。


 小松崎の言いたいことはわかった。

 せめて一週間くらいは空けるべきではないか、常識的にも、家族の心情的にも、彼氏的にも。

 デカルトがその比喩を用いた詳しい文脈もわからないが、マサキはときに「考えることは動くことである」という彼の言葉を実践する。

「知る」ことを考えたときには行動することも決定しなければならない。

 行動(の決定)が考えを固定する。

 決定に二の足を踏むと思考も迷走する。動けなくなる。

 あれこれ考えこんでしまう前に、小松崎に電話をかけろ。

 小松崎に「調べにいく」ことを了解させつつ、その口から場所を聞こうと思った。

 場所は自分でも調べられるだろう。

 了解をとった方がいいというのは、一種の礼儀。連絡がつかなければつかないで、マサキとしては構わない。

 美穂の家族に非常識と思われてもいい(もちろんいく前に家族の了解こそはとるが)、彼氏の感情だって、最悪無視してやる。

 彼らにどう思われたって構わない。誰よりも、

 ――彼女はわかってくれる。

 遠慮なんかしたら、かえってがっかりされる。

 ――なんなら、彼女自身だってどうだっていい。

 自分がそれを望む。ベクトルに従って、まず動け。

 木曜日、小松崎に電話をかけてから不思議な集中力だった。

 マサキが今書いている、関東大震災で被災した人間たちの揺れ動く内面をテーマにした「花の命は短くて(仮)」に、これまでにないくらい没頭することができた。

 九月末締め切りの賞に応募するもので、まだ一ヶ月以上あるが、ここまでが順調とは言い難い。

 この調子でのめりこんでいければなんとか形にはなりそうだ。

 夜、成美は上がってこず、タケルが珍しく二日連続できていた。

 真っ黒に日焼けしたタケルの、まるでもうすぐ父親になるとは思えないような、居眠り顔。

 怒りや不快感など起こるはずがない。

 これほど疲れているのにきてくれる、その喜びが、無精ひげの生えた横顔をあどけないものに見せていた。

 電話が震える。「彼氏」から着信だった。

「はい」と電話に出たマサキの声でタケルが目を覚ます。

 申し訳なさそうにマサキの顔をうかがう若者に笑顔を返しつつ、プリントの余白に「帰るか?」と書いて見せる。

「今大丈夫ですか?」という電話の声に「大丈夫です」と答えながらタケルに二つ三つ頷いて見せた。

 タケルが一つ大きく首を縦に動かし、静かに(電話の邪魔にならないように)立ち上がり、部屋を出るところで大きく頭を下げた。

 右手を軽く上げてそれに答えると、タケルはまたゆっくりドアを閉める。階段を下る足音は、いつものように速かった。

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