コユキと眼鏡 (1)

 マサキが名乗った後の長い沈黙が、楽しく浮ついたこの数時間の全てを吹き飛ばした。

 アルコールも疲れも、思い出も、記憶さえも、一時に奪い去った。電話を切ってしまおうかと思った。

 ――切ってしまったら、彼女とのつながりもなくなるんじゃないか。

 そんな思いから重苦しい沈黙に耐えたのだが、後から考えればその判断は正しかったと言えるだろう。電話が、声を搾り出すように言う。

「美穂とはどういう関係ですか」

「大学時代の知り合いで」

「正直に言ってくれ! もう、全部話してくれよ。美穂とはいったい……」

 ――なんなんだ、こいつは。

 これだからサラリーマンは。

 自分の方が正しいと思っている。「正直に言ってくれ」とは、いったい何様のつもりで上からものを言っている。

 ふっと彼女の面影が過ぎった。

 学生の頃の、掛け値なしに屈託のなかった彼女に「社会」という影を指した張本人、島方美穂が「あの頃の美穂ちゃん」に戻りきることを許さない恨むべき男、それでいて彼氏が「こんな男」じゃなかったら、彼女との距離が再び近づくことはなかったんじゃないかという、存在の矛盾。

 マサキの脳みそはこの一瞬にここまで表現しえたわけではない。電話の男に関して、

 ――めんどくさい男だな。

 さっきから鼻をずるずるとすすりやがって。

 泣いてるのか?

 酔ってるのか?

 ヤクでも決めてんじゃねぇか。「NA(ナルコティクス・アノニマス)」という言葉が浮かんだ。彼女に「こんな男とは別れたほうがいい」と言ってやれる口実ができた。

「正直に言っている。大学時代の知り合い、そして最近、彼女の相談に乗っている者だ」

 それ以上でもそれ以下でもない、という言葉は続かない。「それ以上」になることを望んでいるから。

「美穂は死んだ」

「は? なに言ってる?」

「死んだんだよ、彼女は、美穂は」

「おい、お前こそいい加減にしろ」

 死んだんじゃなくてお前が殺したんじゃないのか。度し難い男だ。

 そんなことを考えるやつは「わたし」がぶっ殺してやる!

 マサキは吠えそうになった。

「美穂は、自殺した」

「なに言ってんだ! おい、おい!」

 切れていた。

 バカ野郎が胸糞悪い冗談言いやがって、と罵倒したい気持ちは一瞬で引っ込んだ。

「自殺」

 この二文字がマサキに与えた衝撃は強烈だった。

「なにか、犯罪に巻き込まれたのか」

 彼女の容姿を思えば、ストーカーに狙われていたとしても不思議ではない。そのくせ、彼女の顔をちゃんと思い描くことなどできないのだが……。


「自殺」など受け入れることはできない。

 何かトラブルに巻き込まれたのか?

 警察に通報すべきか。

 そもそも、なんでストーカー野郎はマサキの方に電話をかけてくるのか。

 その前に、彼氏の方にも電話していると考えたほうが妥当だろう……。着信履歴からリダイヤル。電話はしかし、通じなかった。

 アパートは、ついさっきまでとまるで違っていた。ごちゃごちゃした部屋、そこに充満する「臭い」が不愉快だった。

 玄関を入ったマサキに「女か」と言ったきりトシは眠ってしまったようだ。部屋の灯りはつけず、マサキはトイレにいって布団に横になった。

「一人」になりきれないことも不満だった。

「自殺」、それはマサキが最も恐れていたこと。

 ――夢、だったかもしれない……。

 電話が、かかってきた、わけのわからん男と会話した、「夢」を見た。ここんとこ少し「本業」に集中できていないマサキを戒めるために無意識が〝でっちあげた〟幻想、幻聴。

 不都合で理不尽な現実など健気に認めてやることはない。「夢幻のごとく」処理してしまえ。

 そもそも、扇風機が独り占めできないことが不満だ。

 不快な蒸し暑さに心も体も蝕まれる夜。不愉快な感情が消える間もなく、マサキも眠りに落ちていた。

 

 ――つまらない夢だ。

 一日は否定から始まる。バカ男のせいで、楽しかったはずの夜を根こそぎ台無しにされた。

 だいたい、名前も名乗らなかった……。

「いってらっしゃい」

 二日酔いで視点の定まらない男に見送られ、マサキは仕事に出た。頗る不愉快な一日のスタートだった。


 考えないように、というのは無理だ。ラインをすることはできないが、

 ――逆に、電話なら。

 執着しない方がいいのかもしれない。執着すればするほど、「そのこと」が現実に近づいてしまっているような気がしてくる。

 仕事中に彼女の名前で着信があった。出ることはできなかったが、それを見てバカみたいにほっとした。

「わりぃ」と彼女の声が聞けることを期待した。願い、あるいは、祈り。

「昨日は、すいませんでした」

 かけなおした電話は昨日のヤツだった。

「こまつざきゆきお」と名乗った男は、昨日と打って変わって落ち着いた口調で話をした。落ち着きすぎるほどに。

 男の言葉は、落ちて落ちて地獄の底まで落ちていく。

「なんかあったら、俺の携帯に」

 男の携帯番号を教えられて、電話を切った。

 ハンドルに頭を押し当てて、暫く動くことも動かすこともできなかった。職場の駐車場で、車を棺桶にしてこのまま土の中に埋まってしまいたかった。

 一緒に地獄へ、マサキの車で……。


 月曜日、出てくるんじゃなかったと、幸雄は後悔した。

 仕事にならない。会社にいることが恐かった。

 ただ、休む理由はない。彼女とは、もう終わっていたんだから。

 ――違う……。

 美穂のために会社を休むことを、彼女は喜ばない、あるいは、こんなときでも仕事にいくことで彼女を喜ばせたい、

 いいや、彼女を見返してやりたい、

 いや、そうではなく……。

 自分の感情を的確に表現することが、幸雄にはできない。

 今まで、いつでも彼女のことを考えていた。彼女から見た「幸雄」を考えていた。

 彼女に対して、常に横顔、あるいは背中を見せていた。そう見せることを意識していた。

 それが「かっこいい」と思っていた。

 仕事のできる男、それが彼女の好みだと思っていた。「働く男」だ。夢で遭えたら……。

 彼女がいなくなって、ただただ自分の愚かさだけを思う。

 彼女のことが好きだった、離れたくなかった、だったらかっこうなんかつけないで、もっと彼女に電話とかラインとか連絡すればよかったのに、しつこいくらいに……。

 ――俺は、ふられたんだぞ……。

 関係ないさ、押して押す。そういうのもよかったかもしれない……。

 しょせん、「できる男」じゃなかった。だからずっと部屋に引きこもっていた。

 出勤してきて、よかったのかもしれない……。

 胃の辺りがいきなり動き出しそうだった。ぴょん吉のように、幸雄の意思などおかまいなし、幸雄をひきずり動きそうだった。

 幸雄は「恐怖」という言葉を思い浮かべない。

 彼女の「死」が、実は「職場」にあるということを、(幸雄にとって)彼女の「不在」が実は職場にこそ「在」るということを、本人は気づいていない。

 あえて、努めて、気づいていない。

 昼休み、幸雄の体は屋上へと向かっていた。階段を上がりきる直前、バタン、ドアが開いた。

「あ」

「お」

 出てきた二人は幸雄以上に驚いていたようだ。

「なんだ、きてたのか。てっきり今日も休みだと思ってたよ」

 声をかけてきたのは佐々木だった。幸雄は午前中、ほとんど環境室に入っていた。

 なんのことはない。結局、会社でも引きこもっていた。

「いちおうきてたんさ。くら、頭どうしたの?」

 もう一人は倉橋だった。頭に包帯を巻いていた。「家の掃除してたら、上からなんか落ちてきてさ」という返事だったが、ほとんど関心はなかった。

 幸雄の心の傷と倉橋の頭の傷が反射的に呼応したような感じだった。

「これから昼か?」

「ああ」

「……そうか」

 佐々木も倉橋も、それ以上言葉を口にはしなかった。何も言わない、口でも、目でも。顔でも。

 幸雄にとって、二人の気遣いはありがたかった。

 何を言われても、幸雄の方こそ返す言葉などなかった。

 三人でいる空気を嫌ったのは幸雄の方。階段を上がりきり、無言で二人をかわした。階段を、無言の足音が下っていった。

 八階の休憩所から非常階段を上ると屋上に出る。

 灰色の雲が空を覆い、風はあるが、コンクリート打ちっ放しの屋上は蒸し暑かった。

 そこそこ広い屋上に、幸雄のほかに一人男性がいるだけ。

 購買で買った弁当を食べ終わっても、幸雄は浮かない顔でぼんやり景色を眺める。

「なんでここがいいんだ?」

 美穂に聞いたことがあった。一度や二度ではなかっただろう。

「気持ちいいじゃん」

 そう答えた彼女は、本当に気持ちよさそうだった。

 多少寒い日でも暑い日でも、彼女の答えは、表情も同じだった。

「気持ちいいかよ」

 と幸雄は言い返す。

「生きてるって感じがするでしょ」

 彼女はにっこり笑った。

 理解はできる。しかし、心底共感していたわけではない。

「そりゃあね」と返事をした幸雄のインチキな心情など、彼女は見透かしていただろう。

 そういうのは、社会人になる遥か以前に、どこかに置いてきてしまったよ。


 火曜日の昼過ぎ、雨、葬儀。

「神さん」

 記帳していると、声をかけられた。誰かはすぐにわかった。

「神正樹さん」

「こまつざき、さん」

 ――眼鏡を、かけている。

 ――眼鏡を、かけていない。

 初めて相手の顔を見たお互いの印象。お互い、ちょっと意外な気がした。

「ちょっと、話せますか」

 腕時計にちらっと目をやって、幸雄はマサキを会場の隅に誘った。


 幸雄の質問に、マサキはできる限り正直に答えた。

 大学時代にバイト先で知り合った、マサキがこっちに戻ってきてからは年に数回程度ラインのやりとりはしていた、相談に乗って欲しいと彼女に言われたのは今年の四月、彼女はマサキのアパートにきた、卒業してからは会ったのは初めてだった。

「ほとんど、いや、百パーセント仕事の愚痴、悩みだった」

 アパート以外で会ったことはない、二人きりで食事や飲みにいったことはない。

 マサキは淡々と答えた。変に念を押したりということはしなかった。小松崎が腕時計をちらっと見る。

「ほんとに聞きたいことはそんなことか? はっきり聞いたらどうだ」

 と、マサキは一向に面と向き合わない男に言ってやりたかった。言えるものではないが。

 ――不信はお互い様さ。

 仲介しているのは美穂だった。

 間にいるのが彼女だから、幸雄はマサキを式に案内したし、マサキものこのこ顔を出し、彼氏と「大人の話」をしている。

 美穂の彼氏で知り合いだと、お互い思えばこそ。彼女の気持ちを尊重したい。

「すいません。今日はほんとにありがとうございました」

 頭を下げ、最後に立派な社会人らしい余裕を見せて、小松崎は離れていった。別の知人がきたようだ。

 マサキは「ども」とはっきりしない返事を返しただけ、離れていく背中を見ていた。あの余裕は、サラリーマン時代のマサキにはなかったものだ。

 ――あまり面白みのない男に見えるけど、美穂さん……。

 どうしても、「美穂の彼氏」だというあの男に同情心は沸いてこなかった。


 式はしめやかなものだった。出席者はあまり多くない。

 ――死因が死因だけに、か。

 日曜日、彼氏からの電話で式場の場所を聞いて、少し意外な気がした。

 会場が三輪(みわ)町内で、マサキの家から車で十五分ほどの場所だった(マサキは歩いてきた)。

 三輪でも、どちらかと言えば春名(はるな)寄りではあるが、

 ――地元でやるのは、少し憚りがある、ということだろうか。

 少し寂しい気はした。マサキが考えることではない。

 離れたところから見ていて、彼氏の表情がはっきりと硬くなったのがわかった。そいつが恐らく「クソ上司」だろう。

 沈んだ表情は戸惑いの表れか。まさかこんなことになるとは……、という。

 もう一人、同い歳くらいのクソオヤジとは悲しみを共有しているようだった。


 棺の中の彼女はきれいな顔をしていた。発見が早かったためだろう。マサキの中にある印象よりも、むしろきれいだった。

 ――こんな風に澄ました顔をした美穂ちゃんは、初めて見た。

 彼女は、いつでも表情に気持ちが溢れていた。

 多く笑っていた。ときに怒って、たった一度だけ、泣いた。

 あのとき、もっと強く抱きしめていたら、ひょっとしたらこんなことにはならなかったんじゃないか……。

 近くで泣いている両親、妹を見たのは初めてだった。

 妹がいるというのは聞いていたが、余り似ていないように思えた。無言で頭を下げた。

 彼氏も泣いているようだった。同僚らしき男に肩を抱かれるようにして、棺から離れられずにいる。

 その、男をぼっこぼこに打ちのめしているかに見える深い悲しみを、マサキはまだ信じて認めることはできずにいた。

 男たちを横目に見て、マサキは式場を後にした。

 おあつらえ向きの雨だった。

 ――天も悲しんでいる。

 陳腐なセリフだが、その陳腐さに救われもする。

 彼女は案外、こういう陳腐な言い回しが嫌いじゃなかった。空を見上げた。雨滴がレンズを打った。

 長いこといるべきなのか。帰るべきか、帰らないべきか、迷った。

 もう一度中に入ろうか。出棺まで見届けるべきか。

 できなかったこと、言えなかったことが余りにも多すぎる。何一つしてあげられなかった、答えてあげられなかった。

 ――美穂ちゃんは、俺にいったいどこまでを求めたの。

 今さら問うている自分が滑稽だった。

 幾つになっても「祭り」に間に合わない、「後の祭り」が改まらない……。

 悲しんでいいのかもわからなくなった。この場にいていい人間なのか、わからなくなった。

 彼女を近くに感じることができていない。

 四月からの三ヶ月で数回彼女がアパートにきた。

 それだけだった。

 過去にバイト先で一緒になった単なる知人。苦しみつらさのあまりつかみかけた藁。

 激流に必死で抗おうとする彼女を、救うことはおろかほんの少し支えることすらできなかった。

 結果、まさしく彼女は「溺死」した。

 彼女にラインを送ったのも、アドバイスらしいことをしたのも、下心からだ。

 彼女にとって、「自分」などは「たまたま近くにいた話しやすい先輩」以上の存在ではなかっただろう。

 彼女が求めたのは、決して「神正樹」ではなかった……。

 彼女の運命に、いかほどの影響も与えてはいない。

 そう思った瞬間、軽くなって宙に浮いてしまいそうだった。

 とっととこの場から去れ、バカ野郎、家に帰ってマスでもかいていろ、愚か者。

 彼女と一緒に地獄の底までいくなどと、塵芥が。

 地の中に沈んでなどいけるものか、おまえなぞ、意思も空しく風に吹き飛ばされるホコリに過ぎない。過ぎない。

 悲しみさえも、軽くなった。

 傘をさして葬儀場の建物の壁にへばりついたまま、霊柩車とマイクロバスが出ていくのを、マサキは見送った。


 一人雨の中を歩いて帰る。

 白川を左手の土手下に見ながら、道を北に上がった。帰り道であるが、少し遠回りになる。

 雨は、辺りが霞むほど激しく降っているわけではない。灰色の雲のところどころ薄く光の漏れる部分があった。

 傘の雨滴が少々鬱陶しい。濡れて帰りたかったが、喪服を着ているという意識がマサキの自由を制約した。悲しみをちょい足しした。

 雨を伝わり、やるせなさが町中に伝播していく。

 マサキの傍らを無関心に通り過ぎていく、水音がサーと町の底を流れていく。

 川は南へと下っていく。流れを遡ることが、微かな励みなる。

 この道に、彼女との思い出など一つもない。

 この先の公園で泣きたいような、雨に濡れたいような気持ちを抑えて、マサキは道草することなくアパートへと帰っていった。

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