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『あたしも今日は少し疲れたわ。早く休みましよう。伸介くんも早く服を脱ぎなさいよ』

 そういうと信子は身に着けていた衣服を脱ぎ捨てていた。祖母の裸は子供頃に見ていた伸介も、今目の前ある二十二・三歳のピキピキとした裸に、思わず眼を見張ってしまっていた。祖母が若い頃に、これほど見事なプロポーションを持っていようとは、夢にも考えていなかったからだった。

『何をしているの、早く服を脱いでこっちにいらっしゃい。本当に懐かしいわ。また伸介くんと寝られるなんて、うふふふ』

 先にベッドに入った信子にせかされて、すごすごと服を脱いでベッドに入ろうとした。

『ダメでしょう。パンツも全部脱がなくちゃ』

『しかし、それは……』

『何をぐずぐずしているの、こまった子ね…』

 その言葉を聞いて、伸介はハッとした。その「何をぐずぐずしているの、困った子ね」というは、伸介が子供の頃に祖母から、よく言われた言葉だったからだ。伸介は覚悟を決めて、パンツを脱ぐとベッドに潜り込んだ。

『それでいいのよ。そんなに端っこにいないで、もっと近くにいらっしゃい。遠慮なんかしなくていいのよ。昔なら喜んであたしに抱き着いてきたのに、どうしたの遠慮しなくていいのよ。もっとそばにいらっしゃい、昔なら出もしないあたしのおっぱいを喜んで吸っていたのに、昔のようにもう一度おっぱいを吸ってみなさいよ。さあ、早く…』

 そういうと、信子はいきなり伸介を引き寄せて、自分の乳房に顔を押しつけた。

『あ、』

 いくら祖母とは言っても、まだうら若い女性の胸に、顔を押しあてられたのだから、伸介でなくても動揺は、隠せなかっただろう。

『何をするんですか、信子ちゃん。いや、お祖母ちゃん。ぼくはあなたの孫ですよ。こんなことをしてはいけませんよ。止めてください』

『何をそんなにうろたえているの、伸介くん。ここは人間界ではなくて迷界ですよ。人間界ならいざ知らず、ここでは心の中で念じたことは、すべて可能になるのですよ。嘘だと思ったら、あたしのおっぱいを吸ってごらんなさい。おいしいおっぱいが出てくるはずよ。さあ、遠慮しないで吸ってごらんなさい』

 信子はさらに力を入れて、伸介の顔を乳房に近づけると、自分の乳首を伸介の口に押し入れた。

『う、ぐぐ…』

 途端に伸介の口いっぱいに、信子の乳汁が甘い香りとともに広がって行った。ようやく信子は力をゆるめて伸介を離した。

『どう、おいしかったでしょう。もう伸介くんくらいの歳になると、おっぱいの味なんてすっかり忘れてしまっているはずよ。あなたのお母さんの味を思い出してもらえたかしら』

『確かに懐かしい味がしました…。産後でもないのに本当に乳が出るとは思いませんでした。でも、とてもおいしかったです。お祖母ちゃんのおっぱい』

『ほほほ、それは何よりだったわね。伸介くんにそう言ってもらえると、あたしだってとても嬉しいわ』

 伸介はなぜか不思議な気がした。すでに死んでいる祖母と、突発的な事故で死んだらしい自分が、同じベッドの中で裸で抱き合って寝ている。それが迷界という、いままで聞いたこともなかった世界の中で、存在しているということ自体が、伸介にはどうしてもわからない部分でもあった。

『さあ、昔みたいにあたしのおっぱいを吸いながら、ぐっすりお休みなさい。伸介くんは昔とちっとも変わらず、とってもいい子だわね』

 信子は伸介を抱きしめると、優さしく頭を撫でてやりながら言った。

『ぼくは本当に死んでしまったんだなぁ…。こんなに若返ったお祖母ちゃんと寝ているんだから、間違いなく死んだんだよなぁ…』

 伸介はそんなことを考えながら、いつしか深い眠りに落ちて行った。

 翌朝…。か、どうかは定かではなかった。ここ迷界には昼も夜も存在しないからである。とにかく、伸介は目を醒ました。横を見ると信子の姿はすでになかった。

「あれ、どこ行ったんだろう…。年寄りは目を覚ますのが早いからなぁ…」

 伸介がそんなことを思っていると、

『おや、もうお目覚めなの…。ずいぶん早いのね。伸介くんは』

 信子の声が頭の中から聴こえてきた。と、思っている間に信子が姿を現した。

『うわ、びっくりした…。どこに行ってたの、お祖母ちゃん』

『いや、ちょっと人間界まで行ってきたの。だけど、もう信子ちゃんって呼んでくれないの…。伸介くん、なんだか寂しいわ。あたし…』

『あ、いや、ごめん、ごめん。つい口癖になっちゃてたから、ごめんなさい。信子ちゃん』

『ううん、いいのよ。気にしなくても、だけど、せっかく若くなったんだもの。ここではそのお祖母ちゃんって、いうのだけは止めてくれないかしら』

『わかりましたよ。これからは気をつけますよ。ところで、何しに人間界まで行ってきたの。信子ちゃんは…』

『ええ、すこし気になったことがあったから、あなたの家に行って様子を見てきたのよ。そしたら、家の前にも忌中の垂れ幕も下がってないから、いろいろ調べてみたの…』

『で…、どうしたの…』

『そうしたら、あなたはまだ死んでなかったのよ。あなたが担ぎ込まれたという病院まで行ってみたわ。あなたのお母さんはね。あなたの傍で眼を真っ赤にして、泣き腫らしながら看病をしていたわ。あなたは意識不明の重体だったけど、まだ生きていたのよ。伸介くん。きっと、シンシナさんのところには、誤った情報が送られてきたんだわ』

『意識…不明の重体か…。だけど、そうしたら、どうしてぼくはここにいるの…。ねえ、ぼくはこれからどうなるの。教えてよ。信子ちゃん』

『いい、よくお聞きなさい。あなたがここにいられるのは、あなたの肉体から精神体だけが抜け出したからなのよ。いずれ人間界のあなたが意識を取り戻したら、もうここにはいられなくなって生き返るのよ。ここで見たことや聞いたことは、ぜんぶ忘れてしまうんだけどね…』

『じゃあ、ぼくはもしかすると生き返るかも知れないんだね。信子ちゃん』

 伸介は暗闇の中で、ひと筋の光りを見出したように、ホッとした表情で聞いた。

『それは誰にも解からないわ。自然界の大いなる力だけが知っていることなのよ』

『自然界の大いなる力って、神さまのことなの……』

『いいえ、それも誰にもわからないわ。ここにいる精神体はみんながそう呼んでいるの』

『そうかぁ…、それじゃあ、もしもぼくが生き返ったとしても、この迷界のことも信子ちゃんに逢ったことも、すべて思い出せなくなってしまうのか…。ちょっと淋しい気もするなぁ.もっとも、その時には、そんなことも思い出せないだろうけど…』

『いいえ、あたしがそうはさせないから、安心して』

『え、どうする気だい…』

『あたしには秘密の薬があるの…』

 信子はポットから、小さな紙包みを取り出すと伸介に見せた。

『これをね。迷界にしか生えない「天人草」という植物の実なの。この実を呑むと、現在のことも過去のことも絶対に忘れないわ。一時的には忘れることがあるかも知れないけど、いつか必ず思い出すから覚えといてちょうだいね。さあ、あたしも呑むから、伸介くんも一緒に呑んで…』

 信子はひと粒の木の実を口に含むと、もうひと粒の実を伸介にも手渡した。

『これで安心したわ。いつになるかはまだ解らないけど、あたしが再生して五歳になったら逢いに行くから、絶対に忘れないで覚えておいてよ』

『うん、わかった。あれ…、何だか急に眠くなってきた…。どうしたんだろう……』

『そういえば、あたしもだわ…。いま呑んだ天人草のせいかしら、我慢できないわ…。もう一度休みましょう…。伸介くん』

 ふらふらとした足取りで、信子は伸介の手を引いてベッドに歩み寄って行った。ふたりはそのままベッドに倒れ込むと、寝息も立てないほどの深い眠りの中に落ちて行った。

 それから、どれくらいの時間が過ぎたのかは定かではなかったが、伸介は深く長い眠りから目覚めた。

 伸介は、体を起こすと周りを見渡したが、そこは信子の部屋ではなく、広大な平原の真っただ中だった。

『あれ…、ここはどこだろう…。たしか信子ちゃんの部屋で寝ていたはずなのに、こんな平原の中に寝ているなんて…、信子ちゃんはどうしたんだろう…。信子ちゃーん』

 伸介は思わず信子の名を呼んでいた。 しかし、その声は大平原のかなたで、空しく木霊するばかりだった。同じ迷界にも関わらず、その草原には大空を羽ばたく鳥も、地を這う虫一匹さえも見つけることができなかった。

 伸介は、また途方に暮れた。せっかく祖母である信子に廻り逢えたのに、また独りぽっちになってしまった寂しさは、何物にも例えようのないほどの虚無感であった。

『信子ちゃん、お祖母ちゃん……』

 信子への想いを募らせながらも仕方なく歩き出した。突然見知らぬ世界で眠りから醒めて、また当てもなく歩き続けることが、伸介に与えられた唯一の自由とでもいうように、周りの風景など眺めることもなくひたすら歩き続けた。

 それから、また何十時間かが過ぎって行ったが、最初の時よりはましだなと伸介は思った。初めてきた時は真っ暗闇で何も見えなかったが、少なくてもいまはまったく変化は見られないものの、音もなく風に揺れる壮大な草原がそこにはあった。

『もう、どれくらい歩いたかなぁ…」

 伸介は時計を見ようとして、ここに初めてきた時に、すでに失くなったのを思い出して苦笑した。

『ここは同じ迷界でも、信子ちゃんといた世界とはだいぶ違うようなんだけど、どうしたんだろう…。人も動物も虫けら一匹さえ見当たらないなんて、これは絶対におかしいぞ…』

 伸介は一生兼懸命に何かを考えているようだった。

『そうだ。思い出した。信子ちゃんが確か、あの時こんなことを云っていたな。「迷界では心に念じたことは、すべて現実することができるのよ」って、ということはぼくにも出来るってことじゃないか…。どうして、いままで気がつかなかったんだろう…』

 伸介は改めて周囲を見渡してみたが、そこには相変わらず¬蒼茫とした草原が、緩やかなうねりを見せているだけだった。

『このままじゃ、ダメだな…。このままひとりで歩き続けていたら、体力はともかく精神的に参ってしまう…。ぼくも人間のいる場所を想い描いてみるか…』

「人間の住んでいる町か村に辿り着け…」

 そう心で念じながら、さらに数時間歩き続けた。

 うつむきながら歩いていた伸介が、ふと顔を上げて前方に視線を移すと、はるか彼方のほうに何やら建物らしいものが見えてきた。

『やったー。町だ。町だぞー。ぼくだって、やればできるじゃないか。ぼくはまだ迷界に来たばかりだから、慣れていなかっただけなんだな。きっと…』

 歓喜の叫びにも似た声を張り上げて、伸介は人が住んでいるしい街並みを目指して走り出していた。全力をあげて走り続けて、ようやく伸介は町に辿り着いた。その前にいた町と違って、街路にも人影がまばらでひっそりとしていた。往来する人も老人ばかりが目立っていた。しばらく歩いて行くと、ひとりの老人に声をかけられた。

『そこのお若いの…。お前さん、この辺じゃ見かけん顔だが、どこから来たんじゃね…』

『ぼくですか…』

『そうじゃよ。お前さんだよ。ほかに若い者が歩いとるかの…』

『ええ、そう言われれば先ほどから見ていたんですが、この町はお年寄りの方が多いようですね』

『お前さんにもそう見えかの…。ここはの、わしらのような再生することを止めた者たちだけが、住んでいる町なんじゃよ。そんな町に、どうしてまたお前さんのような若いのがやってきたのかの…』

『はい。実はぼくは、まだここに来たばかりなんですが、祖母に出逢っていろいろな話をしていたんですよ。そうしたら、いつの間にか眠ってしまって、祖母とも逸れてしまって、気がついたら何もない、大平原のようなところにいたんです。

 何時間も歩き続けたんだけど、人が住んでいるような町も、何も見つからずにぼくは、「どこでもいいから、人のいる町が見つかるように…」って、心の中で念じてみたんです。最初は何も変化はなかったんですが、そのうちにこの町が見えてきたので、喜び勇んでやってきたというわけなんです。でも、よかった…。おじいさんのような人がいてくれて…』

『そうかい、それは大変だったのう。じゃがの、ここはお前さんのような、若いものが来るところではないんじゃが、これからお前さんはどうする気なのかの…』

『はい、出きればもう一度お祖母ちゃんの、ところに戻りたいんですが、何か元に戻る方法はないでしょうか…』

『ないこともないがの…。どうしてお前さんがお祖母さんと逸れたのか、詳しい話を聞かせてもらえんかのう』

『いいですよ。ぼくはまだ完全に死んではいないらしくて、精神体だけが肉体から離脱した状態らしいんです。お祖母ちゃんはいま再生の途中で、すでにぼくよりも若返っていました。そのお祖母ちゃんが云っていたのですが、もしも再生して五歳になったら、ぼくに逢いに来るっていうんです。

 その時のために、約束したことをお互いに忘れないようにと、テンジン草の実を呑んだんです。そうしたら急に眠くなってきて、ふたりとも眠ってしまったんです。そして、目覚めた時にはお祖母ちゃんいなくなっていて、ぼくだけがひとりでこの草原にいたんです…』

 伸介がそれだけいうと、老人は頷きながらこう言った。

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