8 澪標エゴイスト(10)
かえす言葉が見つからず、わたしはフィオーレを抱き寄せた。声をあげ、苦しげに息を継ぎながらフィオーレは泣く。
悲しみを受けとめながら、逆の立場だったらと考える。想像するだけで、みずからの身をも焼くような怒りが体の深いところから燃え立つようだった。こんな思いをわたしはフィオーレにさせてしまったのか。
フィオーレはわたしのシャツを掴んで、声をしぼりだす。
「人柱になるならわたしのほうが適任なのに……! わたしの奇跡の力は戦後の交渉に使えるからと……!」
フィオーレの嘆きは深いけれど、正直なところ大きな犠牲の矛先とやらが聖女へと向かなくてよかった。
皇帝陛下はフィオーレを孫のようにかわいがっていらっしゃったから、もしフィオーレの身になにかあったなら、陛下はかえって総攻撃をしかけたかもしれない。黒騎士さまのお考えは正しい。青騎士を喪った聖女の涙のほうが陛下にはずっと、ずっと有効だ……。
「わたし、黒騎士さまが龍王さまの血で倒れたときに、心のどこかでたしかに喜んだのです。ねえさまにしたことへの報いだと。でもそう思った瞬間、自分に嫌気がさしました。いまわたしの心は黒騎士さまとおなじ次元にある、と……」
わたしはさらに強く抱きしめてフィオーレの髪を撫でた。
もしわたしが優れた軍人で、男で、帝国にとって有用であったなら、フィオーレをこんなふうに悲しませずに済んだ。そう思うと、わたしにも非はある。
「すまない」
「なぜねえさまが謝るのです」
「フィオーレのその苦しみはすべてわたしのせいだからだ。わたしが帝国騎士としてまっとうに認められていれば、こんなことには――」
「おまえまさか本気でそんなことを言っているのか」
続く言葉を遮られ、わたしは顔をあげる。
テオリアは膝に頬杖をつきながら、まっすぐわたしを見つめていた。
「おれはおまえに言ったはずだ。青騎士に選ばれたのは、おまえが女だからだと」
「ああ、覚えている」
「たしかにいまのフィオーレの話だけでは、誰でも良かったように聞こえる。だがそれは側面のひとつにすぎない。青騎士がかたちばかりの称号とはいえ、軍の象徴が誰でもいいわけはないだろうが。多くの兵士にとって、青騎士の条件は騎士として尊敬できるかどうかだ。皆の支持を得られない人物を青騎士にでもしてみろ、あいつらはてこでも動かんぞ。おまえがフィオーレの姉であったことは大きかったとは思う。それでも軍人としてほかで替えがきくような人材では、皇帝陛下を納得させることは難しかった。あのくそ爺……すまない、黒騎士は東の出身者と女性に対してひどい差別意識を持っていたから、おまえがもし男だったなら青騎士には選ばれなかっただろうがな」
「おまえがああ言ったのは、そういうことだったのか」
「ほかにどういう意味がある」
「……いや、女だからという、ただそれだけで選ばれたのかと」
「おれではなくおまえであるということは、そこにしか差がないという話だ」
「にいさまは黒騎士さまからねえさまを青騎士にすると告げられたおり、和議のことを知りながら自分のほうが適任だと立候補したそうです」
「えっ」
ね、にいさまとフィオーレは涙に濡れたまま微笑む。テオリアはばつが悪そうに顔を逸らした。
「戦時下でも戦後でも役に立つおれを惜しんで、惜しんで、惜しんだ結果、このくそみたいな計画をやめてくれないかと思っただけだ」
「にいさまは嘘がへたですね」
「おまえは泣くか笑うかどっちかにしろ」
テオリアがどんなにわるい顔をしても、フィオーレは一向にこたえる様子がない。平然と笑っている。百年前の日々とおなじように。
根負けしたテオリアがため息とともに口をひらく。
「青騎士は兵を束ね、兵の鑑でなくてはならない。その点ではおまえは適任だった。おまえが直接率いていた隊の士気の高さは図抜けていたからな。おれでは、ああはならん」
「それはつまり、わたしを褒めているのか?」
「単なる観測的事実だ」
この言い方は、褒められた。
「ありがとう……」
「だから褒めていないと」
テオリアはかすかに頬にしわを寄せ、小さく微笑んだ。
「おれはおまえを斬ったあと、覚えている限りで七度おまえの部下に殺されそうになった。都度追い返したが死なせるわけにもいかないし、ほんとうに面倒だった」
きっとみな、テオリアからきつい灸をすえられて心をあらためたことだろう。
もしかしてテオリアはそこまで考えて、わたしを斬ったのだろうか。イナノメ殿にその役目を押し付けることだってできたはずだ。それなのに、誰かに恨まれることも、フィオーレに責められることも、ロッソの両親やテオリア自身の両親を悲しませることも、すべてを背負い、矢面に立つと決めて……。
さきほどフィオーレが口にした言葉が思い出される。
自分だけが悪者に。そんなのは独りよがりだと。
ほんとうにそのとおりすぎて、わたしはテオリアから顔をそらした。怒りたいような、泣きたいような気持ちで、ため息が出る。
わたしを斬った瞬間のテオリアのあの眼差しが、ああせざるをえない運命に向けられていたのだとしたら、わたしにはもう、なぜ斬ったとテオリアに詰め寄ることはできない。
フィオーレがわたしの手を優しくさする。
「きっとねえさまは、にいさまを許すのでしょう?」
心を見透かしたような問いかけに、わたしは困り果ててしまう。
「許したとしたら、おかしいかな」
「一生恨んでいい関係ですよ。にいさまもそうされることを望んでおられます」
「おれは望んではいない。覚悟をしているだけだ」
テオリアの言葉に誇張はない。
その覚悟の深さは、百年後のこの世界にあまねく染み渡っている。
人間と悪魔が争うことのない豊かな街と、そこに生きる人々。
悪魔であるというだけで絶対的な悪だと思い込んでいたわたしの考えは、この世界にはもうそぐわない。はじめはそのことに戸惑うばかりだったが、いまではすっかり肌に馴染んでしまった。
目を閉じると、これまでに出会った人々の顔がまなうらに浮かんだ。
シロカネの愛らしさ、コルダ殿の強さ、ソルの慈悲深さ、宿の女将さんや漁村のみなの親切さ、坑道で暮らす老人の優しさ。
そしてあのうつくしいスカイブルーの流星の眼差し。
思い浮かべると、自然と笑みがこぼれる。
わたしはそっと首を振った。
「許すも許さないもない。この世界をかたちづくる礎のひとつになれたのなら、たとえあの時にいのちが絶たれていたとしても、軍人としてこれほど栄誉なことはない。わたしはそのために軍人になったのだから。でも、……そうだな、こうやって生きていることもまた、望外のよろこびなんだ。ひとつのいのちである以上、この感動に嘘はつけない」
「ねえさま……」
「ありがとう、フィオーレ。わたしをこの世界に繋ぎとめてくれて」
フィオーレはわたしに抱きついた。
「ねえさまはどこまでお人好しなのですか。だからフィオーレはいつも心配になるのです。ねえさまは誰かのためにするようにご自分のためには怒ったり泣いたりできない人だから。……だからこれからもわたしがねえさまの代わりにテオリアにいさまを許さずにおきますね」
わたしはその時ようやく、フィオーレはわたしを生かすことでテオリアまでも救ったことに気づいた。
重ねてありがとうと告げると、フィオーレはくすぐったそうに、おかえりなさいと愛らしい声で笑った。
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