8 澪標エゴイスト(9)

 森は不気味なほど静まり返っていた。

 細道がずっと奥まで続いている。道の両脇には石造りの燭台が等間隔で並んでいた。かつて叔父が説明してくれた話では、毎年ここに火を灯して森と風穴を清めているということだった。

 あのときは小さな動物たちの姿もよく見かけたが、いまは姿だけではなく気配もない。

 記憶を頼りに、奥へ奥へと走る。枝葉の隙間から、崖の岩肌が見え隠れする。わたしは腹の底から叫んだ。


「フィオーレ!」


 木々が途切れて、視界がひらける。建物一階分ほど隆起した崖にはぽっかりと暗い穴があいている。そのそばの木陰に、編みかけの花冠を手にしたまま眠るフィオーレの姿があった。

 わたしは急いで駆け寄り、フィオーレの肩を揺さぶった。


「フィオーレ……!」


 呼びかけに、薄い目蓋が震える。抱き起こすと、身じろぐ。そうして蕾がほころぶように、フィオーレは目を覚ました。


「ねえさま……?」


 オリーブアッシュの大きな瞳がゆっくりとわたしを捉えて、一瞬で輝きに満ちる。


「ルーチェねえさま!」


 歓喜の声をあげ、フィオーレはわたしの首に抱きついた。


「ずっと、ずっと待っていました! 会いたかった、ねえさま!」

「すまない、ずいぶんと遅くなってしまったようだ」


 チョコブラウンのふわふわとした髪を撫でながら、わたしの指は震えていた。


「ありがとう……、ありがとうフィオーレ。まさかまた会えるなんて思わなかった」


 百年の時を経てこうやってフィオーレと抱き合えることに、複雑な気持ちがないわけではない。だがありあまる幸運、そしてフィオーレやメテオラやたくさんの人たちの数え切れない尽力があったからこそと思えば、いとしさで胸がいっぱいになる。

 あとから、あとから、涙があふれて止まらない。

 フィオーレの華奢な手が、子どもをあやすようにわたしの背を撫でる。


「ねえさまが生きたいと願ってくれたから叶ったのです。わたしの思いだけでは不安で、きっと心が挫けてしまって踏み出せませんでした。お礼を言うのはわたしのほうです」

「わたしが願った?」

「ええ。そこにいるテオリアにいさまがねえさまを斬ったあと、ねえさまは仰ったのです。かあさまのクッキーをまたみんなで食べたいと」

「そうだったか」


 フィオーレが泣きじゃくりながらわたしにしがみついていたことは、おぼろげながら覚えているのだが、そのほかのことはまったく記憶にない。


「すまないフィオーレ、記憶が……」

「いいのです。ねえさまはにいさまのせいでそれはもう意識が朦朧としていましたから仕方がないことです。ね、テオリアにいさま」


 天使のように愛らしい笑顔でにこにことしながら、フィオーレの言葉の攻撃は容赦がない。

 振り返るとテオリアは渋い顔をしながら黙り込んでいた。言い返せる余地がないのだろう。たしかにフィオーレの言うとおりではあるが、だからといって追い詰めるのも違う気がする。


「そうテオリアを責めないでやってくれ。あいつにも事情があったようなんだ」

「知っています。だけどどんな事情があっても、にいさまがしたことを許す理由にはなりません」


 フィオーレは体を離すと、わたしの涙を細い指でそっとぬぐった。


「どうせテオリアにいさまは、その事情を話しもしないままおれの事情おれの事情とうるさいのでしょう?」


 そのとおりすぎて、わたしはうなずくこともためらってしまう。


「う、うーん……」

「やっぱり! にいさま、どうしてきちんと話さないのです!」

「いまさら」

「話したところでどうなる、ですか?」


 テオリアの続く言葉を奪って、フィオーレはきつく唇を噛みしめた。


「……うそつき。テオリアにいさまはそうやって自分だけが悪者になっていれば満足なんでしょうけれど、それはあまりにも独りよがりです」


 いまにも泣き出しそうに目を赤くして、フィオーレはテオリアを睨みつけた。

 テオリアはその眼差しを冷たく受けとめている。


「ルーチェに話したところでどうなる」

「もちろんなにも変わりません。にいさまのしたことだって消えない。それでもねえさまには知ってもらわなければなりません」


 ふたりはしばらく睨みあっていたが、結局テオリアがついと視線を逸らして、そばの大樹の根に腰かけた。

 なぜふたりが言い争わねばならないのか、わたしには見当がつかない。


「どういうことなんだ、フィオーレ」

「ねえさま、これからフィオーレは百年前の戦争の話をします。きっと、ねえさまを傷つけることになる。だけど最後まで聞いてください」

「あ、ああ……、わかった」


 百年前の戦争の話が、なぜわたしを傷つけるのか。わたしが死んだあとに和議の交渉が進み、交戦状態は解除されたのではないのか。もしやあのあとも犠牲は続いたのか……。


 フィオーレはわたしの手を両手で握りしめて、意を決したように口をひらいた。


「あの戦争は最終的に和議に持ち込むとはじめから双方で話がついているものだったのです」

「なに?」


 それは思いがけない内容だった。

 はじめから……双方で……?


「つまり狂言だったということか」


 眼差しだけでフィオーレはうなずく。


「それならばはなから戦争なんてせず、ともに手をとりあえばよいのですが、それについては弱腰であると皇帝陛下がお許しにならなかった。各方面すべての戦争を終わらせ、また半島西側を開発するためには、皇帝陛下へ向けての『われわれは戦った』という結果が必要だったのです」


 皇帝陛下はかつて多くの偉業を成し遂げ、帝国の版図を倍ほどにまでした方だ。だが百年前のあの戦争がはじまるころには老いのせいもあったのだろうか、頑固さからまわりの意見をいれようとはせず、ご自身のお考えのみを押し通そうとする場面が多く見られた。


「黒騎士さまは、メルくん……龍王さまとその配下に戦争のふりをしてほしいとお願いをしたのです。帝国軍の進軍を阻んだ悪魔たちが人間でも太刀打ちできる力量だったのはそのためです」


 なるほど百年前の戦場でメテオラやコルダ殿のような悪魔に出会わなかったのは、そういうことだったか。


「厳しい戦況を切り抜けて敵の本拠へ達するも、払った犠牲の大きさに胸を痛めて双方剣を置く。それが黒騎士さまのえがいた筋書きでした。では、大きな犠牲とはなんだと思われますか」

「わたしが知る限りでも多くの兵士が死んだ。狂言にしては、犠牲が大きすぎるほどに」


 それはもはや戦争とは呼べない。国家による虐殺ではないか。

 フィオーレは目を伏せ、小さく首を振った。


「一兵卒の死をいくら積み上げようと皇帝陛下には響かない、陛下のご気性をご存知の黒騎士さまはそう考えられたそうです。そこで聖女として召集が決定していたわたしに護衛をつけ、その者に背負わせようと……、そのために……」


 途切れがちに、フィオーレは声を震わせる。


「ねえさまを青騎士に任命されたのです」


 フィオーレの大きな瞳から涙がひとつ、頬を伝うことなくわたしの手に落ちた。

 軍人生活でごわごわになった手に、あたたかな涙が点々としみていく。


 そうか。これはすべてわたしの力不足が招いた結果なのか。

 もしわたしが戦術や戦略に長けていたなら。もしわたしが一騎当千の戦闘技術を持っていたら。もしわたしが龍王らと交渉するだけの話術を備えていたら。

 いや、もしわたしが――


『なぜおまえが聖女付きの青騎士に選ばれたのか、わかっていないわけじゃないだろう』


 百年前にテオリアから投げられた言葉を思い出す。


『おまえが女だからだ』


 わたしが女であるかぎり、どんなに優秀だろうと、きっと意味のないことなのだ。

 覆しようのない、逃れられない運命に、情けなさすら感じる。

 それでも心はまだ、自分自身の力不足のせいだと思いたがっている。その従順さが、悔しくて、腹立たしくて、胸がじくじくと痛む。


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