8 澪標エゴイスト(3)

「まさか。胎児のときに打たねば効果はないという話じゃないのか」

「一般に流通しているものはな。だがこれは研究段階で偶然うまれた貴重なものだ。成分的には成人にも効くという話だが、試験はできていない。なんせ、薬はこれだけしかないし、成人のハイブリッドも希少だ。実際に効果があるかは、打ってみなければわからない。場合によっては命を落とすことにもなり得る。それでもこの男は取り引きに乗った」


 ほとんど黒に見えるディープブラウンの目を怪訝そうに細めて、テオリアは首をかしげた。


「おまえはずいぶんこのハイブリッドを信用していたようだな。それはこの男が親身になって手を貸してくれたからか。それともまさかとは思うが、あの悪魔嫌いのおまえが半分とはいえヴァンパイアのこいつに誑かされでもしたか。どちらにせよおまえに対する助力はこの報酬のためであって、おまえのためではない。そうだな、ハイブリッド」


 メテオラは凍るような眼差しでテオリアを睨みつけているけれど、テオリアの言葉を否定することはなかった。


 ああ……、そうか。

 だからここまで案内してくれた兵士はふたりだけでよかったのか。なにか不測の事態になったとしても、対処する必要があるのは人間のわたしひとりなのだから。


 はじめの岩穴でメテオラがわたしを目覚めさせたことだって、たとえばテオリアの指示で場所も方法もわかっていたと考えれば、すべてのなぜは解消する。もっと強引にわたしを政庁へ運ぶ方法はあっただろうが、そうしなかったのはメテオラの優しさか。それともそれすらテオリアの指示だったのか。わたしを効果的に傷つけるための……。


『きみの願いが果たされたなら、その時はきみをおれにちょうだい』


 あれは、わたしと引き換えに薬をもらうということだったか。

 ……なるほどたしかに、食うわけではなかったな。


 わたしはふと笑みをもらす。

 どこまで律儀な男なのだろう。勝手にわたしを取り引き材料にでもなんでもすればいいのに、まだわたしがどんな人物かもわからないうちから、こうなることをはじめから断っていたわけだ。


 これまで腑に落ちなかったことが、わたしの胸のうちを引っ掻きながら収まるべき場所に収まっていく。

 かすかな悲しみは否定できない。たぶんいくらか傷ついてもいる。だがそれは絶望や落胆というほどのものではない。日々の暮らしのなかでも負うような類いのもので、それよりむしろメテオラのことをすこしでも知れたことのほうが嬉しい。


 こんなかたちで知らされる前にメテオラの口から話してほしかったとは思う。だがなぜ話してくれなかったのかといまさら責めたところで詮無い。それがメテオラの選んだ道だったのだから。

 宰相テオリアがわたしの兄で、わたしを殺した男だとわかったとき、震えるほど苦しみながらわたしを引き止めようとしていたことが、あらためて愛しく感じられた。あれは、自分のためだけにここへ来る男がすることではない。


 地龍の坑道でメテオラは言った。どんなことになっても信じてほしいと。それはつまり、いまこのときのことではないのか。


 きつく掴んでいた袖から手を離して、わたしはメテオラの小指と薬指をそっと握った。


「それがどうしたというんだ。この手がわたしをここまで導いてくれたことに、変わりはない」


 メテオラが息をのむ気配があった。

 わたしはスカイブルーの流星の瞳を見上げる。


「メテオラ、わたしはおまえとの約束を必ず守る」

「ルーチェ……」

「一切の動揺がなかったとは言えない。だが、それがなんだ。そんなことで、これまでおまえがくれたものは無くなったりしない」


 たぶんわたしも、そう手が小さいわけではないと思う。なのにメテオラの手を余すところなく包み込もうとすると、片手では足りない。

 わたしは両手でメテオラの手をとった。


「報酬を受け取れ、メテオラ」

「は? なに言って……」

「安全は確保されていないようだが、それも覚悟の上なのだろう?」

「待ってルーチェ、きみは自分が言ってることわかってる?」

「もちろん。なんだ、わたしはそんな複雑な話をしているか」

「……そうじゃなくて、え、いや、どうなんだろ」


 戸惑うようにそう言うと、メテオラは片手で顔をおさえて、肩を揺らして静かに笑った。


「おい、なにがおかしい。真面目な話をしているときに」

「ごめん、おかしくて笑ったんじゃないよ。なんかもう、わけわかんないくらい嬉しくて」


 指のあいだから覗くメテオラの瞳は、いつにも増して星が流れているように見えた。


「だからさ、余計わからないなと思った」

「どういう……?」


 メテオラはわたしの問いに手を握って返す。その視線はまっすぐテオリアへと向けられていた。


「いったいどういう神経してたら、こんなめちゃくちゃかわいい人の首が斬れるわけ。まったく理解が及ばないんだけど」

「おまえに理解される必要はない」

「あー、……正論」


 メテオラはひったくるようにしてテオリアの手から壜を奪い取る。


「両親に恨みはないけど、ハイブリッドであることをおれはずっと足枷に思ってきた。この紋様だって大嫌いだった。でも、それも終わった。ルーチェが終わらせてくれた」


 手のなかの壜を見つめて、メテオラは目を細める。


「だから、これはもう必要ない」


 壜を持つ手がぱっとひらかれる。あっ、とこぼす間もなく壜は床へ落ち、儚い音を響かせて割れてしまった。

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