第23話

 バイトをはじめて3週間ほどが経った。

 火曜と木曜は3時間、土日はフルタイムで働く日々にも慣れてきた。


 ただ、先輩と会える日が減ったことにはまだ慣れていない。


 放課後のバイトに間に合うように急いで支度をしていても、タイムカードを押すときも、真っ暗になってから退勤して帰宅するときも。


 ずっと先輩のやるせない笑みが脳裏に浮かぶ。


 本当はバイトなのに塾と偽った後ろめたさ。

 「普通」と言わせてしまった罪悪感。


 それなのに、止めてほしかったなんて。


 毎日いっしょにいたいって言ってほしかったなんて……。


 きっと、塾なんて嘘をつかず、温室を買い取るためにバイトをすると言っていたら止められていただろう。

 温室がなくなるのはユキノのせいじゃない、バイトなんてしている時間よりいっしょに過ごす時間を大切にして、と叱ってくれていただろう。


 わたしだってそんなこと分かってる。

 バイトする分だけ先輩との時間は減っていく。


 だけど、わたしにも先輩にも過去と今と未来があるように、温室にだってそれがある。

 温室が存在しつづけることで、わたしたちが離ればなれになっても心の帰る場所になってくれる。心のお守りになってくれる。


 温室を守ることは、ふたりの時間と同じくらい大切なことなのだ。


 バイトはケーキ工場でフルーツをカットすることがメインの仕事だ。新人で、経験もない高校生のわたしのところには、いちばん簡単な仕事を回してくれているんだなと分かる。


 パイナップルをトゲトゲのところから綺麗な黄色い果肉を切り出したり、リンゴに繊細な飾り切りを施したり、曲芸みたいにオレンジやグレープフルーツをくるくると剥いたり……難しそうな仕事を難なくこなす人ばかり。


 そんな中わたしはいちごのヘタ取りを勤務時間中ずっとつづけている。


「雪野さん、これもお願いね」

「あ、はい!」


 社員さんに声をかけられて元気よく返事をし、振り返ると……そこにはいちごが100パックくらい積み上げられていた。


「……はい」


 包丁を持つ手に力を込める。

 こんなことで折れていたらダメだ。温室を守るため。先輩との時間を犠牲にしてまでやっていることなんだから。


 延々といちごのヘタを取りつづけ、ようやく終わりが見えてきた。これが終わったら休憩に入るように言われた。

 今日は土曜日。あと4時間はいちごと格闘しなければならない。




「疲れた……」


 更衣室のロッカーの前でつい本音が口をついて出てしまう。

 働くのってこんなに大変なんだ。立っているだけでも疲れるのに、ずっと同じ作業をしていると気が遠くなってくる。


「でも温室のため……できる限り稼がないと」


 作業着から着替えて休憩室に行こうとしたとき、スマホが震える音がした。

 わたしのスマホに連絡を寄越すのは、家族を除けばひとりしかいない。


 急いでスマホを取り出し、通知を確認する。

 先輩からメッセージが届いている。


『ユキノ、今日は時間ある?』


 先輩からのメッセージはそれだけだった。


「今日……先輩、めずらしくいきなりだな」


 休みの日に会うことは少ないけど、そのときは事前に予定を合わせることが多かった。今日の今日というのは初めてかもしれない。


 そういえば……今日はクリスマスだっけ。


 クリスマス要員でバイトに入ったのに、忙しすぎて忘れていた。

 親しい者同士では大事なイベントだということも……。


『夕方なら空いてます。5時過ぎくらい』


 間を置かずに先輩からの返信が来た。


『どこに行ったらすぐ会える?』


 学校の最寄り駅まではちょうどいい電車がないと30分以上かかる。

 ふたりの待ち合わせなら温室が最適な気がするが、1時間は下らないだろう。


 迷ったけど、バイト先の最寄り駅を伝えることにした。券売機と、冬季にはストーブがあるだけの小さな駅。

 そこなら自転車で5分ほどなのですぐに行ける。


『分かった』


 先輩からの返事を見てから休憩室に向かう。バイトだからと適当な格好をしてきたのも今さら後悔する。

 先輩と最初で最後かもしれないクリスマスなのに……プレゼントも用意していない。


 わたしがやっていることは今を疎かにして、守れるか分からない未来ばかり見ているだけなのだろうか。

 間違えているのだろうか――。



   ❊



 バイトを終え、急いで自転車を漕ぎ駅に向かう。

 マフラーに目もとまでうずめても、夕暮れを過ぎた冬の寒さは痛いほどに感じた。


 街灯の少ない道の先に、小さな駅舎の灯りが見えてくる。

 駐輪場に自転車を止め、高鳴る心臓を抑えて駅の引き戸を開けると、待合室でストーブに当たる先輩がいた。


「先輩」

「ユキノ……」


 電車は30分から1時間に1本しかない田舎の駅だ。発車時刻が近い電車がないのか、待合室にはわたしたちしかいなかった。

 ストーブが赤々と燃え、暖まった空気の匂いがしている。


「わざわざ来てもらってすみませ……ありがとうございます」

「あたしこそ無理言ってごめん。今日会えてよかった」


 先輩はストーブの目の前の椅子に座り、ぱたぱたと足を動かした。

 先輩が嬉しいときの癖。何だか久しぶりのような気がする。


 先輩の隣に腰かけ、マフラーを外す。外気にさらされて冷えきった頬が、ストーブでじんわりと温められ溶かされていくようだ。


 わたしたちはしばらく黙ってストーブに当たっていた。

 凍りついたようだった指が動くようになったころ、先輩は重い口を開いた。


「ねぇ、ユキノ……塾って嘘でしょ?」


 先輩の言葉にはっと息を飲む。右隣の先輩を見ると、ストーブの火に照らされた横顔は静かな表情を浮かべていた。


「どうして……」


 そう呟いた瞬間、先輩はくるっとこっちを見た。むうっ、と不貞腐れるようにくちびるを突き出している。


「やっぱり」


 カマをかけられたんだ。

 そう気づいたときに、なぜだか強ばった心がほどけて安心してしまった。


 先輩は前に向き直り、ふうっと小さく息をついた。

 先輩も緊張していたのだろう。真実が明らかになってほっとしたような笑みを浮かべている。


「確信はなかったけど……ごめんね、疑ってた。だって、今までテスト前でも温室に来てたじゃない。そんなユキノが急に勉強に勤しむなんておかしいと思ったの」


 少し皮肉をきかせているのは、嘘をつかれていた仕返しだろうか。

 先輩はひと呼吸置いて、気軽な口調で訊ねてきた。


「本当は何してたのか……聞いてもいい? ダメ?」

「選択肢をくれるんですか?」

「だってあたしたち、ただの先輩後輩だし。学校外のことまで全部教えあうような関係じゃないでしょ」


 わたしは最後の悪あがきをすることにした。せめて作戦が成功するか失敗するまでは秘密を貫き通したい。


「じゃあ……言えるときまでは秘密にしたいです」

「じゃあ、いつかは教えてくれるってことね」

「はい」


 先輩は分かった、と言うと小さくうなずいた。

 重くかたい空気を追い払うように、先輩は明るい声を作って「それより」と切り出した。


「ユキノ、メリークリスマス」


 一気にやわらいだ、いつも通りの先輩の表情に、わたしも応えるように笑みを返す。


「先輩も、メリークリスマス」


 先輩はにっこりと笑い、わたしに紙袋を差し出してきた。


「ユキノにあげたいものがいっぱいあってね、プレゼント決めるの大変だった。ずっと迷ってたら時間がなくなっちゃって、これしか用意できなかった」


 受け取った紙袋は意外と重かった。

 手にした瞬間、ここは駅の待合室なのに、温室にいるような感覚になる。土と緑のにおいが、紙袋からほのかに舞い上がっている。


 袋の中を覗いてみると、緑色の細長い葉の植物が植わった植木鉢が入っていた。


「何ですか、これ」


 先輩は愛おしいものを呼ぶような優しい瞳で答えた。


「スノードロップ」

「え……」

「ユキノと同じ名前の花だよ」


 雪の滴。

 先輩がいつか教えてくれた植物だ。


 先輩はストーブの火を受けて、前髪を赤く染めている。温室での夕暮れが恋しくなるような髪の色。

 先輩はわたしをまっすぐ見つめて、祈るようにささやいた。


「ユキノに咲かせてほしい。そして、あたしに見せてほしい」

「わたし、植物育てたことないですよ。枯らしちゃうかもしれません」

「大丈夫。スノードロップは丈夫だし、お世話も簡単だから。教えてあげる」


 紙袋を膝の上に置き、この小さな植物の所有者になる覚悟を決めた。「ありがとうございます」と言うと、先輩は微笑んでうなずいた。


「先輩、わたしクリスマスって忘れてて……何も用意してなくて……」

「いいよ。あたしが急に誘ったんだもん。プレゼントなんていいの。代わりにね、ユキノと元日に初詣に行きたい」


 元日……すでにバイトが入っている。お正月も休みなく営業するらしいのだ。


「す、すみません……元日も夕方までは……空いてなくて……」

「もしかして……彼氏でもできた?」


 先輩の口から似合わなすぎる言葉が出てきて、つい吹き出しそうになった。

 先輩にそんな勘違いをされるのはいちばん嫌だな、と思う自分に少し驚く。


「違います。それだけは絶対にないです」


 あまりにも強い否定だったからか、先輩はぎこちなくうなずくだけだった。変に思われていないか不安になる。

 それでも先輩と初詣に行けるチャンスは逃したくなかった。


「2日じゃダメですか?」

「え?」

「初詣。2日だったら丸1日空いてます。いっしょに行ってくれますか」


 先輩はパチパチと瞬いたあと、ふわっと口もとを綻ばせた。


「いいよ。絶対に約束破っちゃダメだからね」

「はい。約束」


 わたしたちはふたりきりの待合室で指切りをした。何度か手をつないだことはあるけど、指切りははじめてだった。

 先輩の指は小枝のように細く、白く……バイトをはじめて荒れてきたわたしの指とは反対にとても綺麗だった。


 小指をほどくと、先輩は名残惜しいのを振り切るように立ち上がった。あと数分で帰りの列車が来るらしい。


「じゃあね、ユキノ。良いお年を」

「先輩も……良いお年を」


 今年はあと1週間もあるのに、もう年末の挨拶をしなくちゃいけないのが悔しかった。


 もっと先輩といっしょにいられたら……こんなに苦しくなることはないのに。


 先輩からもらったスノードロップの鉢植えは、自室の小さな出窓に置いた。濃い緑色の細い葉を、頼りなさげに伸ばしている。


 少し寒くてもいいから、日当たりのいいところに置くこと。

 土が乾いたら水をたっぷりやること。そのとき葉には水をかけないように。


 先輩があのあとすぐに送ってくれたメッセージにはそう書いてあった。


 ――ユキノに咲かせてほしい。そして、あたしに見せてほしい。


 祈るように、願うようにそう言った先輩。

 そのときの先輩のまっすぐな瞳は、少し濡れていたような気がする。


 そんなに簡単に咲くのだろうか。

 咲かせることができるのだろうか。

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