69. 煉獄 - The Inferno -

 フロアでは、縦横無尽にのたうつ炎を躱しながら、一冊の黒い本がマリクの周囲を高速で飛びまわっていた。


『ノロマのデブが、オレ様を捕まえられるわけねーだろ!』


 下卑た笑い声が、熱風吹き荒ぶフロアにこだまする。


「ちょこまかとうっとうしいッ!」


 浅黒い額に怒筋を浮かべ、罵詈雑言を囀る本を黙らせようと、マリクは太い怪腕を伸ばす。

 マリクがザミュエルに狙いを定めた隙に、彼の足もとに向かって、アーロンは銃口から光る釘のようなものを数本射出した。


 足もとで揺らめく自分の影を光る釘に縫い止められたマリクの身体は、腕を伸ばした状態で硬直する。

 彼の人間離れした膂力はすぐにその簡素な拘束を解いたものの、一瞬動きが止まったことで、伸ばしていた手は後退する黒い本をつかめなかった。


『バーカ』


 すんでのところでマリクの怪腕を躱したザミュエルが、彼の眼前で粘ついた嘲笑の声を発し、悪魔の顔が彫られた表紙が赤く輝いた。

 瞬間、炎の弾がザミュエルから撃ちだされ、至近距離から放たれたそれは躱す間もなくマリクの顔面に直撃し、爆発する。


「がッ……!」


 多少の熱などものともしないマリクは反射的に腕を振ったが、視界が煙に覆われていたせいかザミュエルには当たらなかった。


 マリクがザミュエルの排除に執着し、ザミュエルがマリクの視界を奪う。

 アーロンへの意識を外させるには、充分な時間だった。


「Burst 67〝血紋ノ鎗フェルデランス〟」


 両手で構えた銃口の射線上に、赤黒い双円錐形のランスが形成される。

 引き金を引いた瞬間、爆音とともに鎗が撃ちだされた。反動でアーロンの両腕が持ちあがる。

 螺旋を描きながらまっすぐに飛んでいく鎗は、周囲の空気や熱を巻きこみ、土埃を吹き飛ばしながらマリクの大きな胴体目がけて突進した。

 ダレルに放ったときは空中で離散した鎗だったが、今回は一本の巨鎗の姿を保ったまま、マリクの太い上半身に突き刺さる。


「散れ」


 容赦のない一言を、アーロンは呟く。その瞬間、マリクの身体が大きく痙攣し、口からは赤い鮮血が散った。

 榴弾のように体内で炸裂した鎗により内臓や皮下から出血したためか、もともと浅黒い肌がさらに黒く染まり、マリクはうめきながら片膝をつく。


「テ、メェ……!」


 血走った四白眼が、アーロンを睨みつける。対するアーロンも、彼の眉間を狙いすまし、銃口を突きつけることで返事とした。


「塵芥にも等しい俗物がッ! この俺様を下すだと!? そんな現実、認められるか!」


 憤怒の感情を全身にまとい、口からは血反吐を撒き散らしながらマリクは吼えた。

 しっかりと銃口を擬せられてなお、相手を打ち倒さんとする闘志だけは失われていないらしいマリクに、アーロンは内心で肝が冷える思いをしていた。


 白銀の王狼から撃ちだした魔導の六十七番は、マリクを殺すつもりで放った渾身の一撃だ。すでにマリクの体内は、破裂した魔鎗によってズタズタに引き裂かれているはず。本来なら、皮膚の下から幾本もの細い鎗が突きだしている状態でもおかしくはない。だがそうならなかったのは、マリクの強大な肉体と魔力が体内で拡散する鎗を押さえつけたからだろう。

 完全に押さえこむことは叶わなかったようだが、高位魔導を食らってなお絶命していないというのはそれだけで驚嘆すべきことだった。


 ここで雌雄を決する以外にない。もし少しでも隙を見せ手番を渡してしまえば、マリクは喉笛を引き裂かんと食らいついてくるはずだ。

 しかし、現時点ではアーロンが優位に立っている。フロアに立ちこめる炎と熱気も、勢いを失っていた。

 それは、ふたり以外の他者から見ても一目だったらしい。


「もうやめてください!」


 アーロンとマリクのあいだに、ひとりの小柄な人物が割って入った。


「お前……」

「コットン、戻りなさい!」


 拳銃を握りしめているアーロンの手が緩んだ。フロアの隅では、戦闘を制止しようと飛びこんだコットンを呼び戻そうと、ダレルが声を張りあげている。


「もう、やめてください……このままだと、マリク様が」

『バカ野郎!』


 丸い目に涙を溜めているコットンを、ザミュエルが怒鳴りつけた。コットンはビクリと身を震わせる。


『テメェの後ろにいるヤツがはじめた喧嘩だ! 殺されても文句は言えねぇ、それが悪魔の闘争だ! ソイツを庇い立てするなら、オマエもあの世行きだぞ』


 キュゥン……と微かな音を立てながら、黒い本の表紙に光が集まっていく。だが、明らかなその脅しにもコットンは一歩も動かず、本の表紙に彫られている悪魔の顔をまっすぐに見据えていた。

 無言のまま互いの視線が交差する。


「そのとおりだ」


 地に落ちるような胴間声が、コットンの背後から響いた。反射的に、コットンはゆっくりと背後を振り返ろうとする。


「マリクさ――」


 彼の口から漏れていた言葉は、途中から血反吐に変わった。

 同時に、ガキン! という硬い金属に物がぶつかったような音が響き、真っ赤な鮮血が飛沫となって、ふたりの人間の身体から舞う。


「ぐッ……!?」


 痛みが全身を駆けめぐる。

 なにが起こったのか、一瞬理解ができなかった。

 アーロンの視界に映ったのは、視界を遮るように浮いていた黒い本が後方に吹き飛び、そして目の前に立っているコットンの背中から突きでた、幾本ものドス黒い刀身のようなものが、自分の腹や腕を貫いたという光景だった。


「炎だけじゃない……血の支配こそ俺様の本質! 権能だ!」


 下卑た笑い声が響き渡る。

 哄笑の主、マリクの血にまみれた肉体から、幾本もの赤黒い矛が伸びていた。その穂からは、真っ赤な液体が滴っている。

 自分の身体からあふれでた血液を凝固、伸長させ、コットンの身体ごとアーロンの肉体を貫いた、というわけだった。そのうちの一本はしっかりと顔面を貫くように伸びていたが、アーロンの眼前にあったザミュエルの表紙に刺さり、狙いがずれ顔を掠めるにとどまった。


 ズリュ、といやな音を立てながら、血の矛がアーロンの身体から抜かれる。穴の開いた皮膚から、血液がどくどくと流れ出た。全身が脱力し、両膝を地につかざるをえなくなる。


「アシュリー、よくやった。俺様がこの蛆虫を殺すだけの隙をうまく作った」


 いまだ胸にいくつもの矛が突き刺さっているコットンに、マリクは話しかけた。

 コットンの表情は瞠目した状態で固まり、顔色はどんどん青白くなっている。


「なんの力を持っていないゴミでも役に立てるということを、身をもって証明した」


 コットンの身体から血の矛を抜き、マリクは凶悪な笑みを浮かべた。


「仕切り直しだ。四肢をもぎ傷口を地獄の業火で焼き締めて、さんざん拷問したあとに、確実に息の根を止めてやる」


 血の水たまりに這いつくばっているアーロンと、それを睥睨するマリク。

 先ほどまでとは立場が一転した。


 風穴の開いたマリクの腹では、あふれだした粘度のある血がかさぶたの役割を果たしながら、蜘蛛の足のような、幾本もの細い凶器を形作っていた。

 ぬらぬらと不気味な光沢を発しながら、アーロンの四肢を狙い定めるように蠕動する。そのまま手足を切断しようと、ピタリと動きを止めたそのとき、体側面から飛んできた人の頭ほどある瓦礫が、マリクの顎先に直撃した。


「ッ!?」


 瓦礫は砕け散り、マリクは反射的に首をまわす。

 自らの懐に、オレンジ色の人影が接近しているのが映った。そのまま、突きだされた拳がマリクの頬にめりこむ。

 成人男性の二倍はあろうかという巨躯が宙を舞った。だが、マリクはそれだけで昏倒するような男ではない。


「ダレルゥッ! テメェまで裏切るのかッ!」


 太い四肢でなんとか転倒を回避し、血で生成した矛を突進させる。だが、ダレルの身体にそれが突き刺さることはなかった。彼は怯む様子もなく、ふたたびマリクの懐に潜りこみ、横隔膜に向かって拳を突きあげた。


 大砲のような衝撃によりマリクの身体はくの字に折れ曲がり、ダレルに覆いかぶさるような状態になった。呼吸困難に陥り、口からだらだらと唾液を垂らすマリクの目に映ったのは、穴の開いた腹を押さえながら、白銀の大型拳銃を構えている男の姿。


「終わりだ」


 銃口が光り輝き、雷鳴のような轟きとともに一条の光線がほとばしった。それはただまっすぐに突き進み、マリクの頭部を撃ち抜いた。


 自らの身にのしかかってきた巨躯を、ダレルがゆっくりと横たえる。潰れた右目から血を流し、憤怒の表情のまま倒れているマリクを見おろし、小さく息を吐いた。


「私の見る目も堕ちたものです。あなたは、コットンにだけは心をひらいていると思っていたのに」


 その声色は、普段の彼からは想像もつかないほど冷然としていた。


「コットンは、最後まであなたの味方でしたよ。力で無理やり押さえつけられていたほかの囚人とは違って、彼だけは、あなたの人柄を慕い、寄り添っていた」


 離れたところで横たわっている小さな身体に視線を流す。


「あなたは、あの子だけは大切にするべきだった」


 ダレルの言葉は、重い鉛玉のように響いた。


 荒れに荒れたC棟のフロアは、水を打ったように静まり返った。それがかえって、物音を大きく響かせる。フロアの隅で、ガタンという音がした。

 そちらに目を向けると、壁にもたれかかるようにして引っかかっているテーブルの天板の陰から、ふたりを見つめている看守、ルビカンテの姿があった。


 視線を浴びたことに戦慄したのか、彼は身を震わせるや否や、


「とんっ、とんでもないことになった……!」


 つまづきながらも、小走りで崩れかけた階段をあがり、A棟へつながっている連絡通路へ消えていった。


「アローボルトさん、大丈夫ですか」


 緊張の糸が解けたことで、アーロンの身体はくずおれた。そこに、ダレルの武骨な手が差しだされる。


「なんとか、な」


 その手を握り、残っている精いっぱいの力を込めて立ちあがった。血を失いすぎたせいか立ちくらみがしたが、なんとか二本足で踏ん張る。


「あなたは休んだほうがよさそうですね。隅のほうの監房なら、なんとか原型をとどめているでしょう。ふたりのことは、私が丁重に葬ります」

「いや、休む前に探さないといけないモンがある」

「探さないといけないもの?」

「黒曜石のペンダントだ。今の戦闘で失くした」

「ペンダントですね。わかりました。それも私が探しておきますから、あなたは休んでください」


 お気になさらず、とダレルは目を細めた。それならばと礼を言って、アーロンはぎこちなく歩きだす。


「さてと」


 ダレルはまず、倒れているコットンへ足を向けた。その傍らには、黒い本が浮かんでいる。


『わからねぇ』


 黒い本は、コットンを見おろしたままぼそりと呟いた。つられるように、ダレルはコットンへと視線を落とす。

 ピクリとも動かない彼の表情は、凄惨な出来事が嘘であったかのように安らかで、どこか微笑んでいるようにも見えた。

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