53. C棟 - C -
嵐は去った。
ようやく一息つける、とアーロンが十六号室へ戻った直後のことだった。部屋の扉が勢いよくひらかれ、ルームメイトであるスタンリー・グレイヴが飛びこんできた。
「よくも勝手な真似をしてくれたな!」
切羽詰まったような表情から放たれた言葉は、明らかに怒りの色をはらんでいた。その発言の意味がわからず、アーロンは眉をひそめ首をかしげる。
「言ったはずだ! 問題を起こせばすべて連帯責任になると! なのにお前はッ……」
そこまで矛を突きつけられて、ようやく彼がなにに怒っているかを理解した。その忠告を忘れていたわけではないが、怒鳴られるいわれはない。
なにせ俺はアンタを――
「すべてが台無しだ! お前のせいで!」
ひらきかけていた口は、畳みかけてきたグレイヴにねじ伏せられた。同時に、アーロンの頭の中で、プチンとなにかが切れる音がする。まず話しあおうとしていた思考が一瞬で消え去った。
「助けてやったのになんだよその言いぐさは!」
「誰がそんなことを頼んだ!」
「そうかよ、そんなにやりたかったなら今からでも戻ってご奉仕とやらをやってこい!」
思わず口を衝いたその言葉に、グレイヴはぐぅ、と嗚咽のような声を漏らした。パク、パクと震える口はなにか言いたげだったが、その唇を一文字に結んで、彼は無言のまま監房を出ていった。
「マジかよ……」
まさか本当に舞い戻るとは思わず、アーロンは呆然と呟いた。心にもなかった暴言が相手にクリーンヒットしてしまい、罪悪感に囚われるような感覚に陥る。
『もうほっとけよ、好きでやってんだろ。他人のシュミをとやかく言うのはやめとけ』
「あれが好きでやってるヤツの態度かよ」
彼は、看守長の部屋で命じられたときから、明らかに葛藤を示していた。特に、ノアのことを突きつけたときの雰囲気など、この世の終わりに直面したかのような悲壮感があった。
『代わりにやってくれるんだったらありがたい話じゃねぇか。よかったな』
「思ってもないこと言ってんじゃねぇぞ。おもしろがってたくせに」
憐れんだような声色でつづけた黒い本に、アーロンは棘立った言葉を投げた。この本に他者を慮るような精神が備わっていないことは、自分が一番理解している。
『たしかにさっきはオマエがご奉仕とやらをはじめたらおもしろいかと思ったが、オレの身体があんな薄汚ぇヤツに奉仕するって考えたら気持ち悪くなった』
「冷静な分析すんな、気持ち悪ィ」
むかむかとした腹の虫は、しばらく治まりそうになかった。
意味もなく冷たく硬いベッドに横たわり、起きあがりを繰り返す。目を閉じて眠ろうかとも思ったが、苛立ちのせいか眠気はほとんど感じない。
眠気に限らず、ほかの欲でも強まれば、思考はそちらに引っ張られ、むかつきは自然と治まったかもしれないが、あいにく食欲をはじめとした欲求は湧きあがってこなかった。
思えば、森で目を覚ましてから今まで、なにも口にしていない。それどころか、排泄やうたた寝もしていない。いまだに脳はそれを訴えてはいないからか、生物として基本的なことがずっと意識の埒外にあった。
森をうろついていたときからどれくらいの時間が経ったのか定かではないが、生理的な欲求が限りなく薄まっているような気がしてならない。なんとなく、いやな気味悪さが首をもたげた。
そういえば、部屋にはトイレもなく、食事に使えるような簡素なテーブルもない。フロアにも食堂や共用トイレのような場所は見当たらなかった。はじめから疑問に思っていたことが、熾火のように燻りはじめる。
どういうことだ、とゆっくり回転しはじめた思考は、監房の扉を外から叩くノックの音に邪魔された。横たわっていた身を起こし、扉を開ける。廊下には、ネイサンが欄干にもたれかかって立っていた。
「スカルミリオーネにお前を連れてくるように頼まれてな」
おそらく、処遇とやらが決まったのだろう。思った以上に早い、というのが率直な感想だった。
「ご苦労なことだな」
あてこすりのようなアーロンの言葉にも、ネイサンはフッと鼻で笑っただけだった。
従わない、という選択肢もないわけではなかったが、どうしてもという状況以外、極力エネルギーを消耗するような行動は取らないほうがいいだろうと、先ほどよりは幾分か冷静になった頭で考えた。
「さすがの私でも、来て早々看守に牙を剥くような真似はしなかったぞ」
処遇とやらの内容を聞くまでは、とりあえずおとなしくしておいてもいいか、と廊下を歩きながらぼんやり考えていると、先を歩くネイサンが、背を向けたまま口をひらいた。
「お前が俺の立場なら、同じことをしてただろうよ」
「どうかな。ヒトという生き物はどうにも繊細が過ぎる。まぁ、だからこそ見ていておもしろいのだが。一度試しにやってみればよかっただろう、奉仕とやらを」
「当事者じゃないからそんなことが言えるんだ」
くつくつと喉の奥で笑うような声に、アーロンは吐き捨てるように返した。
ネイサンは看守長の部屋に入るつもりはないようで、豪勢な扉のそばまで来て立ち止まり、扉を顎で指し示した。
できれば二度と入りたくはなかったが、仕方なく、扉を開け中に入る。ノックをしなかったのは、ひそかな反抗心だ。
中では、籐椅子に座っているスカルミリオーネが、腹立ち紛れの様子でカクカクと足を小刻みに震わせていた。部屋に入ってきたアーロンと目が合い、露骨に表情を歪ませる。
心なしか吐き気のような不快感がせりあがり、アーロンは視線を横に流した。自然に視線が向いた部屋の隅には、グレイヴが直立不動で立っている。まるで忠臣のようなその立ち姿に、思わず舌打ちが出た。
ギシ、と音を立ててスカルミリオーネが身を乗りだす。
「キサマはC棟送りだ! 今すぐに棟を移り、あとのことはあちらの看守に聞け!」
鼻息荒く、まくしたてるように喋る彼の口からは粘ついた唾液が散った。
「それだけか?」
「拷問でもされたいのか? わかったら、さっさと出ていけ!」
顔を見るのも嫌だったのか、スカルミリオーネのほうから話を打ち切ったため、アーロンはそのままきびすを返した。
どんな処遇が下されるのかと、半ば怖いものみたさな気持ちがあったが、反旗を翻すほどの内容ではなかった。むしろ、不快感の塊である看守長と、やはり馬が合わないと再認識したグレイヴと離れられるのは僥倖ではないかという気さえする。
移送先であるC棟が今いる場所よりもひどいところかもしれないという考えにならないのは、正常性バイアスとやらが働いているからなのか。
部屋を出ると、ネイサンが壁に背を預けた状態で立っていた。
「案の定C棟送りか。私とは真逆だな」
「真逆?」
「私は最初C棟に送られ、こちらに移されたからな」
相変わらず、看守長室には大穴が開いたままの状態のため、スカルミリオーネが頭ごなしに叫んでいた声がフロアまで丸聞こえだったのだろう。
「看守長は、向こうでお前が死ねばいいとでも思っているんだろうな。こちらとは比べ物にならないほど面倒なところだ」
そう口にしたあと、ネイサンは〝いや〟と首を振った。
「……あれへの従属を強要されたお前にとっては、あちらのほうが気楽かもしれないな」
ギィ、と鈍い音がした。ふたりの視線がそちらに流れる。看守長室から、グレイヴが出てきたところだった。
反射的に目が合う。
なにか言いたげな様子だったが、彼は無言で階段をあがり監房へ戻っていった。
『こりゃ僥倖だな、堂々と他の棟に行けるじゃねぇか』
ウキウキ、という昂りが漏れている黒い本へ、アーロンは軽蔑とも取れる視線を投げた。
「俺が行くんだから女はいねぇぞ」
『あ』
「バカが」
ピタリ、と空中で硬直した本を置いて、アーロンは階段をあがった先にある扉へ足を向けた。
重厚な石の扉を押しひらく。
棟を繋ぐ短い廊下は窓がなく、扉を閉じてしまうと真っ暗闇が広がった。が、どういう仕組みなのか、アーロンが一歩踏み入ると、左右の壁にかけられていたランプが勝手に光を灯した。
なにもないことがかえって、なにかあるのではという思考を誘う。
必要以上に慎重に廊下を進み、大きくCと彫られた石の扉を押しひらいた。
広いフロアから光が差しこみ、トンネルを抜けたときのような感覚に陥る。
少しして、明順応で光に慣れた視線の先に、小柄な人物が立っていた。スカルミリオーネと似たようなローブに身を包んでいるが、頭にはすっぽりと三角頭巾のようなものを被っているため、顔の造作や性別は見た目にはわからない。
「おっおっ、オマエが、A棟からの移送者か」
その人物は、アーロンが入ってきたことに気づくと、カクカクと首を振り声を発した。小柄なせいかキンキンと響くような甲高い声だったが、アーロンはなんとなく、男だろうと見当をつける。
「おっ、おれの名前はルビカンテ。ここ、C棟の看守だ」
まるで、怯えているような喋りかただった。えー、えー、と息継ぎを何度も繰り返しながら、話をつづける。
「オマエの、部屋は二十四番だ」
細い腕で二階の一室を指差してから、ルビカンテと名乗った看守は、逃げるように去っていった。それと入れ替わるようにして、一足先にフロアをふらふら見物してきたらしい黒い本が舞い戻る。
『おい、どういうことだこのフロア! あっちよりもむさ苦しいじゃねぇか!』
開口一番、ザミュエルはアーロンの眼前で声を荒げた。内容を聞き流すだけでも、このフロアが先ほどのA棟と同様、男ばかりが収容されている場所だということが伝わる。
「変わんねぇだろどっちも男しかいねぇんだから」
度合いなどそう違わない、と吐き捨てて、アーロンは階段をあがった。収容所にやってきたときのように、フロアを突っ切る必要はなかったが、共用スペースにいる複数のオレンジ色の人影から、刺さる視線をひしひしと感じた。
フロアの様相は全体的に、荒れ果てているという表現がぴったりだった。
構造こそ先ほどのA棟と大して変わらないが、妙に焦げたような跡がある床と、ひび割れた壁がまず目に入った。二階の欄干もところどころ破損しており、ドアすらない監房も散見される。それだけで不穏な雰囲気が立ちこめているが、幸運なことに、こちらでも指定された部屋は突き当たりの角部屋だった。ドアもきちんとついており、内装はA棟の監房とほとんど変わらない。壁や床の染みやひび割れが少し目立つくらいか。
中には誰もいなかった。同室の囚人は外のフロアにいるのかもしれない。なんにせよ、ひとりで部屋にこもれるというのはありがたかった。ようやく腰を据えて落ちつくことができる。
こんなところで朽ちていくわけにはいかない。
考えなければならないことはたくさんある。まず、脱出の方法。そしてそれを実行するまでに、生命の樹のタトゥーについてもできれば情報を仕入れたい。
脱出不可能という言葉が声高に掲げられているこの場所だが、それならばどうしてわざわざ収容所に看守を置いたり、森の中を巡回する人員を置く必要があるのか。看守や巡視員の存在は、脱獄が可能であることの裏返しではないか。あの森の中に、脱出の糸口があるような気がしてならなかった。
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