51. ある男 - That man -

『おいっ、アーロン大変だ!』


 周りに聞こえていないことをいいことに、黒い本ザミュエルは一切の遠慮がない大声をあげる。どうやら、アーロンが監房でグレイヴと話しているあいだ、外のフロアをふらついていたらしい。


『この建物、女がひとりもいねぇ!』


 うっとうしそうに顔をそむけるアーロンに、ザミュエルはその身を揺らしながら叫んだ。


「なにもおかしくねぇだろ、収容所だぞ。男女は分けられるに決まってる」

『そっ、そうか! 階段のところの石の扉! フロアはここだけじゃねぇんだな!  うっひょー、オンナだけで集められてんならまさに天国じゃねぇか! ちょっと行ってみよ』

「おい、行き来できるわけねぇだろ」


 ぴゅーん、とふたたび飛んでいったザミュエルを引き止めたが、すでに黒い影は小さくなってしまっていた。


「ったく……って、普通に考えりゃ、隣同士に男女の収容所があるわけねぇよな。トイレじゃあるまいし」


 ガシガシと頭を掻いて、監房を出る。


「おっ、新入りが出てきたぞ」


 アーロンがフロアへ出てきたことに気づいたらしい。階下の共用スペースから、ヤジのような声が飛んできた。


「ひとつ聞きたいことがある」


 複数の視線が突き刺さるのを感じながら、アーロンは階段を降りた先の一番近くにあるテーブルに腰掛けている二人組に声をかけた。


「お、なんだなんだ」


 ニヤニヤと粘ついた笑みを向けられる。

 端的に言って不快だったが、グッと飲みこんで話をつづけた。


「六角形に十の丸、生命の樹を模したタトゥーのある悪魔憑きを探している。なにか知らないか」

「生命の樹ィ? なんだそりゃ」


 ひとりはあからさまに首をかしげたが、もうひとりはヤニか茶渋で汚れたような歯を覗かせたまま、


「俺は知ってるぜぇ」


 と、口をひらいた。


「本当か!?」


 思わず、アーロンは前のめりになる。やはり、悪魔憑きが集まる場所で情報収集をするのは正解だった。早々に当たりを引けるとは思ってもいなかったが。

 僥倖だ、と内心で笑みを浮かべるアーロンに、男は真顔に戻り、たっぷり溜めてから言葉を継いだ。


「それはな……ズバリ、男のシンボルだろ! 生命の根源で樹みたいにおっ勃ってる! おいおい、探すまでもなく男なら全員持ってるじゃねぇか!」


 ギャハハハハ、と下卑た笑い声が響き渡った。

 膨らんでいく声量に反比例して、アーロンの眉尻がさがっていく。完全に無表情になったところで、この場を離れようときびすを返した。その背に、冷ややかな声がかけられる。


「オイちょっと待て、情報を渡してやったんだぞ。対価を支払うのがスジってもんだろ」

「情報? 今のが? 言葉の意味もわからねぇようだな」


 ゆっくりと、アーロンは振り返った。その双眸は妙に血走り、眉間には縦に筋が入っている。


「そんな頭じゃ、対価を渡しても価値が理解できないだろう」


 冷然とした皮肉に、呵々大笑していた二人組の顔色が変わった。


「テメェ、新入りのくせに調子乗ってんじゃねぇぞ!」

「嫌だと言っても支払わせてやる。心配するな、身体ですぐに払える。サンドバッグになりゃあいいだけの話だから、なッ!」


 立ちあがると同時に、男たちは振りかぶった拳をアーロンの顔面めがけて叩きこもうとした。が、その拳は目当ての顔に届く前に、手のひらにがっしりと受け止められる。


「誰が、サンドバッグだ?」


 ギロリ、とアーロンは目を剥いた。

 いつもなら一発殴られるだけで事が収まるなら殴られてもいいかと思ったかもしれないが、真剣な相談をおちょくられた今、そんな気には一切ならなかった。

 拳を止められ瞠目した相手の顎先を、アッパーカットで殴り倒す。つづいて殴りかかってきたもうひとりの男の攻撃を躱し、みぞおちを目がけて拳を叩きこんだ。

 これで終わったと気を抜きそうになったが、顎への一撃で昏倒しなかったらしい男が、背後から飛びかかる。


「クソッ!」

『オイ、アーロン!』


 男たちとくんずほぐれつのつかみあいをしていたアーロンのもとに、どこからかふわりと黒い本が舞い戻ってきた。


『オレじゃ扉が開けらんねぇ、鍵は閉まってねぇみたいだから開けてくれ!』

「うるっせぇ、取りこみ中……だッ!」


 怒鳴ると同時に、アーロンは男を背負い投げで放る。


『それならバーストスペルの許可を出せ! オレが自分で壊すから、それならオマエの手を煩わせることもないだろ!』


 一喝されてもザミュエルは食いさがった。同時に、黒い本ザミュエルを武骨な手ががっしりとつかむ。


『あれ?』


 きょとんとしたのもつかのま、ザミュエルは重い風圧を表紙に感じた。知らない男の顔がどんどん視界の中で大きくなっていく。そして、悪魔の顔の彫刻の部分に、妙に温かく、妙に柔らかく、妙にかさついたものが触れあった感触を覚えた。


 ゴスッ!


 アーロンが全力で投擲した黒い本の表紙が、アーロンに投げられた男の顔面に直撃した。金属製の硬い表紙が当たったことで、男は鼻血を噴きだしながら後方へ倒れた。

 ザミュエルも同じように床へはらりと舞い落ちる。


『まっ、まさか今の感触……』


 床に転がったまま、ザミュエルは呆然と呟いた。ゆっくりとからだを起こし、宙に浮きながら、白目を剥いて鼻血を出し倒れている男を見おろす。

 ささくれ立った赤い唇が、真っ先に目に入った。


『いやっ、信じねぇぞオレは! オレのファーストキッスがこんなところで失われたなんて絶対に信じねぇ!』


 ぶんぶんと全身を震わせ、悲痛な叫び声をあげる。


『だいたい、本の姿はノーカンだろ! ノーカンだよな!」


 誰に同意を求めるでもなく、混乱したままのザミュエルはくるくると宙を舞った。

 アーロン以外にこの声は聞こえていないが、それに呼応するように、フロアを覗きこむオレンジ色の囚人服が多くなってきた。

 三人の諍いを皆が興味津々の様子で遠巻きに見つめているなか、ひとりの男が一歩踏みだし割って入った。


「そろそろやめておけ」


 もうひとりの男の胸ぐらをつかみ、顔面を殴ろうとしていた手を止めて、アーロンは話しかけてきた人物へと視線を流した。その顔を見た瞬間、表情が驚愕の色に染まる。


「お前ッ……!」

『そういや、コイツも救急車に連れ去られてたな』


 少し伸びた茶髪に青い瞳、すらりとした長身。

 目の前に現れたのは、ひと月ほど前まで、同じ新聞社で仕事をしていた元同僚、ネイサン・ダンその人だった。

 ネイサンが割って入っただけで、ふたりの男はへどもどしながらこの場を去っていく。それを横目に見送りながら、ネイサンはアーロンへ向きなおった。


「アーロン、だったか。お前の名は」


 その言葉に、違和感を覚える。ネイサンなら、そんな言いかたはしないだろう。冷や汗が背中をつたうような感覚が生じた。


「まさか、お前……悪魔のほうか」

「そうだ。ここにいる奴らの表に出ているのは、ほとんどが悪魔だからな」


 アーロンの問いに、ネイサンはニヤリと笑ってから、


「こちらで人間が自我を保っていられるほうが珍しい。お前は、悪魔憑きではなかったのか?」


 と、質問を返した。


 アーロンに憑いている悪魔、ザミュエルの自我は黒い魔導書に移っている。

 ザミュエルの魔力はアーロンの肉体に残り、アーロンの悪魔憑きとしての力に色を添えている。撃つ、ということに関して並外れた実力を発揮できるのも、身に宿ったザミュエルの権能によるものだ。

 しかし、悪魔の自我が本に移されているため、ほかの悪魔憑きのように、ひとつの肉体にふたつの自我が存在しているわけではない。悪魔の声が脳内に響いたりするようなこともない。

 ザミュエルを本から解放し、意識を明け渡すことを認めてしまえば、悪魔の自我が表に出るということは変わらないが、アーロンは悪魔憑きでありながら、強引に自我を乗っ取られる、という心配がなかった。

 もっとも、そんなことをわざわざ教えてやる義理もないため、問いに答えることはなく、アーロンは話題を切り替える。


 先ほどの男たちの様子。

 ネイサンが登場するだけで、目に恐怖の色が浮かんでいた。


「ずいぶん、恐れられてるみたいだな」

「まぁ、目を合わせるだけで極上の恐怖を味わえるからな」


 相手にしたくないのだろう、とネイサンは呑気に口にした。


「お前も体験してみるか? ロンドンにいたときよりも効くぞ」

「遠慮しておく」


 ネイサン本人を彷彿とさせる軽快な発言。実際に、声も寸分違わずネイサンのものだ。だが、なんとなくトーンや口調が異なっているように思う。そのちぐはぐさがなんとも奇妙で、気味の悪さを助長した。


「いつから、お前はネイサンに憑いてたんだ」

「はて、いつからだったかな」

「……じゃあ、どうして憑いた」

「悪魔がヒトに憑く理由などひとつしかないだろう? 現世で動く仮宿かりやどが欲しいからにほかならない。まぁ、とはいえ、私は動けばなんでもいいというような無頓着ではないがな。悪魔にも好みがある」

「それならここは、悪魔にとっての楽園か」


 アーロンはちらりとほかの囚人たちを見遣った。

 ネイサンが言うには、ここにいる者のほとんどは悪魔の自我が表に出ているらしい。人の肉体を欲する悪魔にとっては、うってつけの世界のようだ。

 だが、ネイサンは眉間にシワを寄せ、あからさまに機嫌を悪くした。


「私を周りの雑魚と一緒にするなよ。こんななにもない場所で肉体の権を奪ったところで楽しみはない。私が表に出ているのは、ネイサンを思ってのことだ」


 宿主のために自我の主導権を奪う?

 悪魔がなにを言っているのかと、アーロンの眉間に力が入った。

 その機微に気づいたらしく、ネイサンはくつくつと笑う。


「この世界は退屈だ。そして出られないときた。そんな世界に、肉体がほろぶまで閉じこめられているというのは、人の感覚では長すぎるだろう。だが、私のような悪魔にとっては、大した長さではない」

「ネイサンのためを思うなら、殺してやるのも手じゃねぇのか」

「悪魔がようやく見つけた肉体をみすみす手放すような真似をすると思うか」


 とんだ詭弁だと言外に告げるアーロンを意に介さず、ハッ、とネイサンは鼻で笑った。


「現世に来た悪魔は、まず仮宿を見つけることに必死になる。特に存在を賭けてやってきた雑魚にとってはな。でなければ消滅の運命が待っている。相性のいい人間を見つけられず、仕方なく人形や畜生に憑く悪魔も少なくない」


 悪魔にとって、人の肉体を手に入れることがどんなに重要かを、ネイサンは鷹揚に語った。そして、フゥと小さく息を吐いたあと、蛇のように細めた瞳でアーロンを見据え、


「私からもひとつ問おう。お前は、なにをしてここへ連れてこられた」


 その問いに、アーロンは即座に答えを返すことはできなかった。否が応でも、ハーリンゲイのファレル家での光景が脳裏をよぎる。


「殺したのか」


 引き金を引いた感覚が生々しくよみがえっていた指先が、ピクリと痙攣した。

 ネイサンに巣食う悪魔は、かすかなその反応を見逃さなかったようで、ニタリと口の端を吊りあげる。


「そうか、晴れてお前もネイサンと同じ舞台まで堕ちてきたのだな」


 状況も理由も、なにもかもネイサンとは違う。

 そう思う気持ちこそ浮かぶも、不思議と反論の言葉は表にはでてこなかった。他人の人生に強引に幕をおろしたという点においては、厳然たる事実が転がっていることを否定できない。


「……嬉しそうだな」


 代わりに、皮肉交じりの呟きが漏れる。


「それはそうさ。ネイサンも喜んでいるだろうからな。悪魔が皆、宿主の不幸ばかりを愉しんでいるわけではない」


 心の底から愉しそうな、粘ついた口調だった。


「赤の他人の不幸のほうが、甘い味のときもある」

「最後にひとつだけ聞きたい」


 彼の台詞には反応を示さず、アーロンは話をつづけた。


「生命の樹を知ってるか」

「永遠の命の木の実がなる樹だな」

「それ模したようなタトゥーを見たことがないか。そのタトゥーを二の腕に彫っている、おそらく悪魔憑きを探している」


 ハァ、とネイサンはわざとらしく呆れた様子を見せた。


「知っていたとして、私が素直にお前に教えると思うか」


 その言葉に、アーロンは眉をひそめる。


「お前は私をこの退屈な世界に送りこんだ張本人だろう」

「ちょっと待て、俺が灰色の救急車グレイビュランスをけしかけたわけじゃない」

「そうではない。お前が邪魔をしなければ、この世界に送られることもなかった」


 声色や口調こそ冷静で、大人びているように感じられるが、言っていることは子どもの駄々と変わらない。


「逆恨みかよ、みっともねぇ。自分の行動を顧みてみろ、連行された理由がわかる」

「善悪の話ではない。立場の違いを述べているだけだ。私が、お前に利する行動を取る理由がないと言っている」


 チッ、とアーロンは舌を打った。

 話にならない。

 そう吐き捨てて、ほかの囚人に話を聞こうとこの場を離れようとしたとき、ふと胸にチクリと刺さるような痛みを感じた。違和感から首を捻り、胸に手を遣ると同時に、肚の中を異物がうごめくような不快感がその身を駆け抜ける。

 思わず、テーブルに手をついた。

 脂汗が額に滲む。


 そのとき、フロアの二階から、バタンと勢いよく扉がひらく音が響いた。

 顔を向けると、廊下の突き当たり、十六番の監房の扉が開け放たれている。中から、スタンリー・グレイヴが胸を掻きむしりながら廊下へ飛びだしてきた。

 欄干に背を預け、苦しそうに肩を上下させている。二、三度うめき声をあげてから、彼はよろよろと廊下を歩きはじめた。どの部屋にも入らず、手すりで身体を支えながら、慎重に階段を降りてくる。


「おい、大丈夫か?」


 アーロンは思わず、そう声をかけていた。


「お前は、なんともないのか」


 汗の滴を顎先から垂らしながら、スタンはアーロンへ恨めしげな視線を向けた。


「吐き気はするが、アンタほどじゃないな」


 同じタイミングで体調を崩した原因はわからないが、自分よりも症状がひどい人を見ているとそちらに意識が向いてしまうのか、アーロンの不調は妙に鳴りを潜めた。


「相変わらず苦労するな、十六番」


 苦しそうにあえいでいるグレイヴを見て、ネイサンが小さく笑いながら話しかける。


「行くぞ」


 それには答えず、彼は一言アーロンに耳打ちしてきびすを返した。わけもわからないまま、グレイヴのあとをついていく。

 おい、と話しかけると同時に、彼は背後を振り返った。互いの視線が交差する。


「お前、あんな奴とは関わるな」

「?」

「目が合うだけで相手を恐怖に陥れる力の持ち主だ。新入りのくせにC棟で暴れて、あっちの囚人を複数引き連れてきたような奴だぞ」


 濁った眼をしたまま、グレイヴは声を潜めてそう言った。

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