49. 既視感 - Dejavu -
頭上を飛び越えた影に、反射的に構えを取った。が、その影の正体を捉えた瞬間、アーロンの眉間にシワが寄る。
軽やかに草原へ降り立ったのは、真っ黒な狼のような四足歩行の動物だった。
赤い双眸がアーロンをまっすぐに捉え、大きな牙が覗いている口からは唾液と唸り声が漏れている。敵意を向けられていることは一目瞭然だった。
『もしかして、森の中で聞こえた音はコイツか?』
「いきなり現れて臨戦態勢ってのは、返り討ちに遭っても文句は言えねぇぞ」
動物に危害を加える趣味はないが、自分と同じかそれ以上の体躯を誇る生物に襲いかかられてはひとたまりもない。黙って襲われる趣味もないため、アーロンは指先に力を込めた。ジジ、と弾けるような音とともに、小さな稲妻の球体が指先に現れる。
ひとまず心の中で安堵した。魔導を使用するぶんには問題なさそうだ。
「ようやク見つかっタか」
急に背後から、訛りのきつい声が聞こえた。
振り返った先、森の中からひとりの人間が現れる。その姿に、アーロンは眉をひそめた。
汚れた黒い外套に身を包んでいることと、異様に猫背であることはまだいい。それよりも、薄い唇から覗く異常に発達した二本の犬歯がいやでも目についた。ぎょろりと突きでた双眸も一層不気味に見える。性別は判然としないが、男だろうと勝手に想像する。
彼は今にもアーロンに飛びかかりそうな狼を一瞥し、手で制するようなしぐさを見せた。つづいて、アーロンに視線を戻してから、
「オマエ、矛を収メろ」
肉食動物のエッセンスが混じったようなその人間は、粘ついた唾液をヌラリと光らせながら口をひらいた。
『なんだコイツ、気持ち悪ィな。半分混ざってんじゃねぇの』
「やる気満々なのはそっちじゃねぇのか。いいからかかってこいよ」
目の前の男はともかく、背後にいる四足歩行から逃げきれるとは到底思えない。襲いかかってくるなら返り討ち。その意思を示すように、アーロンは指先の雷球を薄く、細く伸長した。
バチリと弾ける即席のサーベルができあがる。そのまま射出してもよし、スタンバトンとして振りまわすもよし、対象を焼き切る電磁カッターとして扱うもよし、もともと近接戦闘のほうが得意だったアーロンにとって扱いやすい得物だ。
「どうシテこう、ここに送らレるヤツらは皆、自分ノ立場を理解していないノカ」
あからさまに交戦の意思を見せているアーロンに対し、男はフシュウ、とため息にも似た吐息を吐き、軽く手を挙げた。同時に、森の奥から似たような狼とおぼしき生物が数頭、姿を現した。大きさはまちまちだが、黒い毛並みと真っ赤な双眸は共通している。
(逃げきるのは不可能だな)
低い声で唸りあげる狼たちの様子を見るに、男が合図をすればすぐにでも飛びかかってくることは容易に想像できた。そして、指先の得物だけでは対処が困難だということも、だ。
じりじりと、獣との距離が狭まっていく。
視線は男から外さず、アーロンはゆっくりと片足で地面に小さな円を描いた。
男が挙げていた手を倒そうとする。対するアーロンはその瞬間、足もとを思いきり踏みつけようとした。
「待て」
獣の群れを含め、皆が一様に溜めていた力を解放する寸前、森の奥から凛とした声が響いた。全員が力を行使するのをやめ、一斉に声のしたほうを見遣る。獣たちは尻尾を巻き、男は目を泳がせ、明らかに動揺を見せていた。
「ブルーノ、彼は脱走者ではない。移送者は丁重に扱えと、いつも言っているだろう」
木々のあいだから現れたのは、長身、長髪の凛々しい男だった。ブルーノと呼ばれた猫背の男のように、汚れた外套を羽織っているが、その汚れまで彼を引き立てるアクセントになっているといっても過言ではない。
「でっ、でモ兄者! コイツは狼たちに攻撃ヲ……」
『はぁっ!? まだなにもしてねぇだろ、嘘言うな!』
食いさがろうとするブルーノに、ザミュエルが思わず声を荒げた。当然、その声はアーロンにしか聞こえていないため、残りのふたりが反応することはないのだが。
兄と呼んだ長身の男に一瞥され、それだけで、ブルーノは丸い猫背をさらに縮こまらせた。
「弟の非礼を詫びよう。いささか、職務に忠実なきらいがあるのだ」
「…………」
物腰は丁寧。だが、アーロンは気を抜かないように留意していた。経験上、こういったタイプのほうが食えない相手になりがちだからだ。
それにしても、ふたりは兄弟らしいが、顔つきも身長も外面はまったくといっていいほど似ていない。血がつながっていない義兄弟なのか。
「警戒されても致し方ないか。それでは、まず自己紹介からしよう」
アーロンが黙っていることを警戒と受け取ったらしい長身、長髪のその男は一歩踏みだし、
「私の名はユージーン。ユージーン・ブルマー。ここ、マーレボルジェにて弟とともに移送者の案内と脱走者の捜索を行っている」
鷹揚な態度と声色でそうつづけた。そして、冷ややかな視線をアーロンに投げかける。
「お前は、ここがどういった場所か知らないのか? 鈍色の救急車で送られてきたのだろう」
「円環の森、じゃないのか」
ユージーンと名乗った男が言ったマーレボルジェという言葉に聞き覚えはなかった。代わりに、自分の知識としてある言葉を口にするアーロンだったが、男は満足げに頷いた。
「知識はあるようだな。たしかに、昔はその名で呼ばれていたようだ。ここは、罪を犯した悪魔憑きを永劫閉じこめておく異次元の監獄」
フッ、とアーロンは小さく鼻で笑った。捕まったが最後、抜けだすことは叶わないとだけ伝え聞いていた、円環の森。ここが本当に今まで暮らしていた世界とは次元を別っている異界なら、なるほどたしかに、脱出不可能を謳うのも頷ける。だが、いきなり異次元に飛ばされたと告げられて、それを素直に受け入れられるかはまたべつの話だ。
「立ち入れば最後、二度と出ることは叶わない。こちらに刃を向けたところで、徒労に終わるだけだ。我々はお前をあそこへ連れていくことを役割としている」
アーロンが薄ら笑いを浮かべていることも無視して、ユージーンは崖の岩窟を指差した。
「わかったら、おとなしく従え。我々とて、脱走者ならともかく、移送者であるお前と刃を交えるつもりはない」
そう言われても、アーロンは指先の雷を解除しなかった。乾いた空気が弾けるような音が断続的につづく。
「まだ警戒するのか? 気持ちはわからないでもないが。脱獄を試みるにせよ、我々から追いまわされながら糸口を見つけるより、収容所で腰を据えて作戦を練るほうがよほど建設的だろう」
意外にも脱獄を許容するような言葉を述べたあと、ユージーンははじめて小さな笑みを見せた。
「まぁ結局は、無意味に終わるのだがな」
『おいアーロン、ここは従っといたほうがいいんじゃねぇの。あれの言うことも一理あるだろ』
耳もとでザミュエルが喋る。
この黒い本と意見を同じにするのは気に食わないが、情報を集め現状を整理するためには、しっかりと腰を落ち着けたほうがいいというのは理解できる。それに、ここが本当に円環の森ならば、闇雲に走りまわっても脱獄の糸口は見つからないだろう。
脱出不可能という触れ書きについては、入ってくることができる以上信用に値しない、とアーロンは思っていたが。
ユージーンが指差すあの岩窟が収容所として使用されているなら、円環の森に送られた悪魔憑きは皆、あの場所へ集められていることになる。
情報収集にうってつけであることは、間違いないはずだ。
アーロンは渋々指先の矛を収め、降参の意を示すように両手をあげた。
腰の曲がったブルーノが、蔓を編んだような二本のロープを手に近づいてくる。
一歩踏みだせる程度にロープに弛みを作って両足を括り、両手も手錠よろしくがっちりと拘束された。
悪魔憑きにとっては、少なくともアーロンにとっては簡素な縄で、ほどくことは特別難しくないように思えるが、四方から狼の瞳が突き刺さっている現状、少しでも不審な動きをすれば一斉に襲いかかってくるだろう。
「それでは行こう」
ユージーンが先導し、すり鉢の縁に当たる丘をぐるりとまわるルートではなく、クレーターのように陥没している草原を横断して、最短で岩窟を目指すルートを取った。アーロンはユージーンのあとにつづき、その左右と背後をブルーノと狼たちが取り囲むようにして歩みを進める。突き刺さるような複数の視線を、アーロンは背中で感じていた。
草原には、いたるところに白い十字架が立ち並んでいる。景色だけは美しいはずが、まるで囚人たちの行く末を暗示しているかのような、不気味な光景に見えてくる。
草原の中心、クレーターで最も落ちくぼんでいるところには、成人男性の二倍はあろうかという紡錘形の石のモニュメントが屹立していた。おもちゃのロケットのような形状のそれは、中心に大きく丸い穴が貫通しており、その空間にぐるぐると回転しながら七色の光を放つ球体が浮いている。
「本来移送者はここから出てくるのだがな。送られるときによほど抵抗したのだろう」
歩きながらきらきらと輝く球体に目を奪われていると、前を行くユージーンが、同じように視線をそちらに向けて口をひらいた。
「無意味だったけどな」
灰色の救急車を思いだしながら、アーロンは返す。
「当然だ。簡単に逃げられては意味がない」
だんだんと、崖の岩窟が近づいてきた。
おそらく、崖に空いている四角い穴は、採光用の窓ということなのだろう。ただし、窓ガラス等で密閉はされていない。少しずつ大きくなってくる岩窟を見あげていたアーロンだったが、ふと、近くに並んでいる十字架に目を奪われた。
草原に乱立する十字架、そのほとんどは本来の役割を果たしていないものばかりだったが、アーロンの目に留まったものには、白骨死体が複数、磔にされていた。そしてその中にひとつだけ、かろうじて原型をとどめている男の遺体があった。全裸のその遺体は、火傷のような痕で全身をひどく損傷し、顔面を歪ませ、容貌や顔つきの判別が難しいほどの痛ましい姿となっていたが、どういうわけかアーロンは強烈な既視感を覚えた。
思わず足が止まる。が、瞬時に狼が背後で吠えた。
「オイ、止まるナ!」
つづけざまに、背後から鋭い声が飛ぶ。先行していたユージーンも、こちらを振り返っていた。小さく舌打ちし、アーロンは素直に歩みを進める。
「収容所に順応できなかった者たちのなれの果てだ。ああなりたくなければ、おとなしくしておくことだな」
前を歩くユージーンが、後ろを振り返りもせず口にした。
自らが感じたデジャヴの正体をつかめないまま、巨大な崖の岩窟前に到着する。
重厚な石の扉にユージーンが触れると、ズズ、という鈍い音を立てながらひらいていった。
ふと背後を振り返り、もう一度草原を見渡す。
空には、現実のものとは思えない巨大な物体が浮いている。まるで太陽の代わりだと言わんばかりに白く輝き、この世界にまばゆい光を放っていた。
遠くには、森を抜けるための指針としたもう一方の崖の全景が映る。反り立っているそのてっぺん、草原からはるか高い位置にある場所に、ぼんやりと建物のようなシルエットが浮かびあがって見えた。
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