48. 不思議な森 - Mysterious Forest -

 そこは、巨大な樹木に囲まれた、鬱蒼とした森だった。

 ほとんど光も届かない苔むした深緑の中、ひとりの男と一冊の〝本〟が転がっている光景は異様といえた。


 よどんだ空気の中、まず動きはじめたのはその本だった。カクカクと小刻みに震えたあと、ふわりと五十センチほど宙に浮く。


『ん……どこだ、ここ』


 真っ黒な表紙に、悪魔のような恐ろしい顔の彫刻がされているその本から、フィルターを通したようなくぐもった声が響いた。本はくるくると宙を舞い、そばにひとりの男が倒れていることに気づく。


『おい、アーロン起きろ』


 その本は装丁の角で、男の頭を小突いてみた。だが、アーロンと呼ばれた男はピクリとも反応を示さない。とはいえ、死んでいるわけではなさそうだ。

 黒い本――彼に憑いている悪魔であるザミュエルは、意識を持ち主から森のほうへ向けた。


 くるりと身を翻し、薄暗い森の中を飛んでみる。


 辺りに乱立している巨木の幹の太さは尋常ではなかった。大の男が十人手を広げても、取り囲めないほどの大きさ。見あげてみても、地上からはるか高いところで枝葉が網のように広がり、空からの光をほとんど遮っていた。

 そんな樹が一本だけではない、周りの樹々すべてのサイズが規格外。これほどまでの巨木を擁する森が、果たしてイングランドにあるのだろうか。


『おぉっ?』


 辺りに気を取られすぎていたザミュエルは、ふとあることに気づいた。夢中でふわふわと漂っていたため、地面に横たわっていたアーロンの姿はすでに見えない。


『なんとなく魔力が濃い気がしてたが、こりゃあ実際に効果が出てるな!』


 目測で百メートル近く、飛んできたように思う。

 本来持ち主であるアーロンから五十メートルほど離れると、身体が金縛りにあったように動かなくなり、宙に浮いていられなくなる。それ以外にも、勝手な行動はほとんど取れない。自分の意思で好きにできるのは、喋ることくらいだ。

 だが、どういうわけかこの森の中はロンドンよりも魔力が濃い。そのためか、本に閉じこめられているこの身に降りかかっている枷も、幾分か弱まっているらしい。もしくは、ザミュエル自身の力が高まっているのか。


『うぎぎぎぎぎぎ……』


 普段はできない、自らの意思で魔導を放つことくらいならできるかと思うザミュエルだったが、それは不可能で、当然、本を離れることも叶わなかった。


『なんだよ、それでもちょっと遠くまで飛べるようになっただけかよ』


 けっ、と悪態をつきつつ、ザミュエルは気を失っている宿主アーロンのもとへゆらゆらと舞い戻った。

 冷静に考えてみれば、自我、意識、感覚をアーロンの肉体から引き剥がされ、本に閉じこめられている。だが、魔力だけあちらに残してきたままだ。ザミュエルの魔力は今も、アーロンに力を与える一助を担っている。なにより、自らの魔力、権能を宿主の肉体に残したまま、離れるという選択肢は取れない。

 本当に、面倒な代物に封じこめてくれたものだ、とザミュエルは憎々しげに赤髪のバーテン姿の男を思い浮かべる。


 なんとかしてアーロンに肉体の権を譲渡することを認めさせるしか、自らの力を取り戻し、かつ自由に行動できる肉体を得ることはできない。

 結局、一番それが手っ取り早い。


 ぼんやりと考えごとをしながら、持ち主であるアーロンを中心に円を描きふらふらと森の中を散策しているザミュエルだったが、どこまで行っても巨木が立ち並んでいる光景しかなく、なにも目ぼしいものが見当たらないため、早々にアーロンのもとへ立ち返った。


『妙に幸せそうな顔してんな、腹立つ』


 いまだ地面へ横たわったままのアーロンを覗きこみ、もう一度本の角で額を小突いてみた。先ほどより勢いをつけたものの、目を覚まさない。

 姿が本でなければ、手でもあればもっといたずらがしやすいのだが。

 そういった意味でも、本に閉じこめられているというのはおもしろくなかった。


 今まで何度も採用してきた、ワンパターンのやりかただが、やはり全身を使って痛めつけてやるしかない。

 ちょうどアーロンの腹の上に舞いあがり、石板のような厚さの本が、みぞおちめがけて突き刺さった。


「ごぅッ!?」


 腹から押しだされた空気がうめき声となり、衝撃により身体はくの字に折れ曲がる。

 つづいてゲラゲラと下卑た笑い声が響き、ようやく焦点があったアーロン・アローボルトの目に、身を震わせている黒い一冊の本が飛びこんできた。反射的に振りかぶられた拳が、恐ろしい悪魔の顔が彫刻された表紙にクリーンヒットする。


『テメェはっ、いつになったらその癖直すんだよ!』


 くるくると縦回転しながら飛んでいった本が、急制動でピタリと止まったかと思うと、すぐさま舞い戻ってアーロンの鼻先で声を荒げた。

 対するアーロンは上体を起こし、心底うっとうしいという表情で、小指を片耳に突っこんでいた。

 耳をほじり、小指の先についた耳垢をフッと吹き飛ばす。完全に話を聞いていないその態度に、ザミュエルはその身を揺らし、本の角をアーロンの脳天に叩き落とした。


「ぐぇっ」


 目の玉が飛びでるほどの衝撃が脳を揺さぶり、カエルが潰れたようなくぐもった声がアーロンの口から漏れた。


『おあいこだ、バーカ!』


 頭上から苛立ちを煽る声が降る。

 お前のほうが一発多いだろ、と声を荒げそうになるアーロンだったが、その言葉をぐっと飲みこんで、手の届かないところに浮いてわめいている本の相手をすることを打ち切った。


 眉間に力を込め、辺りを見まわしてみる。その視界に映るのは、巨木の群れだった。幹は大の大人が十人両手を広げてやっと取り囲めるような太さで、途方もない樹齢を誇っているであろう樹木が乱立している。

 苔むした地面には盛りあがった樹の根が縦横無尽に駆けめぐり、非常に不安定な足場となっていた。

 辺りは暗く、一体どれだけ深い森なのか見当もつかない。


 こんな森がイングランドにあるのか。

 どうしてこんなところにいるのか。


 頭に浮かんできたのは、単純な疑問だった。寝起きにも似た、ぼんやりと靄がかかったような頭で、記憶を手繰り寄せる。


(ロンドンの銀行で強盗に遭って、入院して――)


 それは過去の話だ、とかぶりを振る。この森の中で寝そべっているあいだに見たであろう、過去の記憶。

 まず、どうやってここにやってきたのかを思いだそうとする。

 そもそもここはどこなのか。

 ロンドンなのかそうでないのかすら判断がつかない。


 車で来たのか――と一瞬考えたところで、記憶が一気に高波のように押し寄せる感覚に陥った。


 鈍色の救急車。

 そこから飛びだす鎖の束。

 不敵に笑う白いタキシードの男。

 ジェイコブ・ファレルを撃ち抜く引き金を引いた指の感触。


 巻き戻される記憶がそこまでさかのぼったところで、無理やり思考を遮断した。

 動悸が早まり、額に脂汗が浮かぶ。


(まさか、この場所は――)


 暗い森の奥で、ガサガサと草むらをかきわける音がした。反射的に身を翻し、巨木の陰に姿を隠す。

 ザミュエルはというと、上空に浮いたまま音のしたほうを見遣っていた。あれはアーロンが見せようとしたり、一定以上の力を使おうとしない限り他者の目には見えない、本が放つ声も聞こえない仕組みになっている。


 ザミュエルのことは気にしなくてもいい。自分が見つかってしまう可能性のほうが問題だ。

 身をかがめて息を殺す。

 ここが予想したとおりの場所ならば、この判断は間違っていないはずだ。


 物音は少しずつ遠ざかり、こちらへやってくる気配はなかった。このときようやく、燻っていた違和感に気づく。

 森の中だというのに、異様に静かだった。鳥のさえずりも獣の咆哮も聞こえない。聞こえてくるのは、さわさわと巨木の葉が触れあっている音だけ。

 苔むした地面や樹の幹を目を凝らして見てみても、小さな虫一匹見当たらない。植物以外の、生命の息遣いが一切感じられない不思議な森だった。


 そういえば、とアーロンは左腕に目を落とした。着けているアナログの腕時計は、十九時過ぎを指したまま固まっていた。


「クソ、いつの間に故障したのか」


 これでは、灰色の救急車に連れこまれてから、どれだけ気を失っていたのか見当もつかない。

 どれだけ頭を捻っても、疑問の答えが出るはずもなく。

 いつまでもこんなところで燻っているわけにもいかず、アーロンは立ちあがった。


 この場所が本当に円環の森なら、ただの悪あがきかもしれないが。


「ザミュエル、上から見てこい」

『ムリ』


 その瞬間、射殺すような視線が黒い本ザミュエルへ突き刺さった。慌てた本はふわりと離れ、首を振るように身を震わす。


『面倒臭がってるわけじゃねぇって! お前が寝てるあいだにふらついてみたんだが、限界よりも樹のほうが高かったんだよ』


 それなら上に飛んでも意味がないだろ、と言うザミュエルの話を、アーロンは一応飲みこむことにした。

 辺りを見まわしても、同じような巨木が乱立しているだけの光景が広がっている。方角すら判別できない現状だが、まずは感覚に任せて歩きはじめた。


 ほとんど光が届かない鬱蒼とした森の中。地面に盛りあがった樹の根に幾度となくつまづきそうになり、そのたびに背後の本にからかわれながら進んでいくと、やがて高くそびえる白い崖が木々のあいだから現れた。


 礫岩というよりは砂岩の断崖という見た目のそれは、巨木よりもさらに高そうで、樹の枝葉に遮られた頂上はよく見えない。突き当たってから左右に首を振ってみたが、崖の終わりは見えない。とりあえず右を選び、崖に沿って歩いてみる。


 どれくらい経っただろうか。


 左は崖、右は森。

 変わらない景色にうんざりしはじめたころ、明るい光が前方から差しこんできた。

 森の切れ目が近いことを察し、自然と歩みが早まる。

 トンネルを抜けた瞬間のように視界が一瞬白く飛び、次第に鮮明になっていった光景に、アーロンは息を呑んだ。


「なんだ、こりゃ……」


 一言で表現するなら、広大な草原だった。

 森の中にぽっかり空間がひらけたすり鉢状の草原。

 今アーロンが立っているのは、森との境界、すり鉢で言うと縁の部分にあたる小高い丘。その対面、まっすぐ視線の先にも、今まで道しるべとしてきた崖と同じような白い断崖がそびえていた。

 ただひとつ異なっているのが、向こう側にある崖は横にも大きく、窓のような小さな穴がいくつも空いている。崖を削って作られた壮麗な彫刻こそ存在しないが、まるでトルコのカッパドキアやヨルダンにあるペトラの岩窟のような光景だった。


 崖の上は、霧がかかったかのように曇っている。

 アーロンはそのまま仰向き、空へ視線を向けた。その目が、みるみるうちに見ひらかれる。通常あるはずのものが空にはなく、代わりに見たこともない物体が浮いていた。

 白く輝く巨大な多角面体。

 まるで、人工的な隕石が地面に直撃する寸前で時間が止まっているかのような光景だった。

 宙を埋め尽くしている天体の周りを、小さな正方形の物体がくるくると舞っている。それは天体が放つ光を反射して、キラキラと輝いていた。


「ここは夢か」


 思わず、そう呟いていた。

 ロンドンなのかそうではないのか、どころの話ではない。地球上にこんな場所があるとは、にわかには信じられない。


 とりあえず思いきり腕をつねってみた。目の冴えるような痛みが走り、すぐに中断する。

 光景は現実離れしているが、今まで森の中を歩いてきた感覚だけでも、夢と断定できるような要素はなにひとつなかったように思う。むしろ、五感すべてがこれは現実であることを強く訴えかけてくる。


 現実には思えないが、夢だともどうしても思えない。

 せめぎあう相反する感覚を、どう処理するべきか。


 呆然としているアーロンの頭上を、ひとつの影が飛び越えた。

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