第39話 レティセラの気持ち

 あー……コレ、一生のやつだ。


 すくんでいた足は、ぐいぐいと背中を押されて前に進んでいる。桟橋さんばしを渡り、船に続いている階段を昇ると、乗船まではあっけない。


 本当に、この住み慣れた国を離れてやっていけると思っていたの?

 こんなにも悔いて、立っているのがやっとなほど、不安で仕方ないのに。



 甲板に立ち尽くす。息苦しくて、口を開けたまま港を眺めていると、汽笛が鳴り、ゆっくりと船が動き出した。




 遠くなっていく。離れていってしまう。

 少しずつ。想いだけを残したまま。



 違う。私は、可哀想じゃない。


 何度も言い聞かせて首を振る。舷墻げんしょうを強く掴んで、それでも引き攣る口角を無理やり引き上げる。


 大丈夫、死ぬわけじゃないんだから。こう思うことにすればいい。


「……いつかまた、」


 精一杯の言葉だった。そう思っていれば、きっと生きていく理由になってくれる。想う事だけは、唯一許される自由だもの。



 生まれた場所、それもある。だけど、一番に思い浮かぶのはそれじゃなかった。



 最初にあったときに、邪魔だと言われて、腹を立てた。


 最初は散々だったな……


 たった一年いただけなのに。ウォード家での、ううん、レンヴラント様との出来事の、ひとつひとつが思い出される。


 よく分からない敵視と嫌悪。

 彼を最高にいじわるだと思ったのは、イタズラにネックレスを振り回された時かな。あの後も意地悪なこと言われたりもした。





 だけど…………彼は、知れば知るほど、優しかった。




 

 景色が滲み始める。


 いじわるで、いつも偉そうで。でも時々見せる、照れた顔や困った顔が可愛いくて。



「うぅ…………っ」



 レースのリボンをつかむ手が、ポロポロと落ちた悲しさで濡れていく。


 いつかまた会える。




 ────────違う。



 そう自分を言い聞かせておきながら、そうじゃないと分かっているから、私は泣いているんだろう。


 もう二度と。


 そう、思ってしまうと涙が止まらなかった。




「……うぅ…………ぐすっ」


 レンヴラント様……わたし


「ずっと、貴方といたかった」




 誰にともなく吐き出した、言っておけばよかったと思う、言葉。



「あなたが、好きだった」



 痛くて、痛くて。両手で強くリボンを握りしめた。



「おい。そこは危ないからこっちに来い」

「…………」


 付き添いの男たちの1人だろうか。後ろから声がして、私はゴシっと涙を拭った。


 ホント空気が読めない人達ね。


 この気持ちは、彼の他には誰にも立ち入ることができない聖域。


 2つのものを選ぶことができないから、私は私自身を誇れるように、唯一の家族を守ること選ぶ。そうじゃないと心まで腐ってしまうと思うから。

 

 こんな人達に涙なんて見せるもんか!

 

 ふるふると強く首を振ると、脳が急に揺らされた刺激で眩暈が起きた。




 あっ!




 グラッとろよめいて、体が船から投げ出される。

 それはスローモーションで宙に浮いているような感覚で、空と海で真っ青に埋め尽くされた世界が広がる。


 あぁ、今日はこんなにもいい天気だったんだ。

 ……きれい。


 落ちていくというのに、悲鳴もあげない。なぜか呑気にそんな事を考えながら、目を閉じた。


 真下の海原だけが、怪物のように真っ黒な口を開けていた。
















「危ない!!」





 …………………………あれ?


 覚悟していた海の冷たさはなく、声がしたかと思えば、代わりに温かさに包まれていた。


「なんでこんなになるまで何も言わない! 黙って出て行って! 挙げ句の果て、死のうとするなんて許さないぞ!!」


 両手で顔を掴まれて、上を向かされる。


「…………えっ?」


 レティセラの瞳には、ここにいるはずのない。そして、会いたいと思っていた人物の姿が映っていた。

 

「それに、凄い熱があるじゃないか!」


「……レン……ヴラント様。あれ? もしかして、まぼろし?」

「しっかりしろ、本物だ」


 そう言って顔を揺すられた。

 いつもの偉そうな整った顔がとても険しく、頬に添えた彼の手が震えている。どうも、私が自殺をしようとしたと勘違いしたらしい。


「ちょっと眩暈がして、バランスを崩しただけです。心配させて、すみま……」

「話は屋敷に戻ってから聞く。とにかく帰るぞ」


 レンヴラントは、レティセラの胸元にあるリボンに視線を落とし、言葉を詰まらせた。


「帰る?」

「…………当たり前だろう。俺はまだ、退職は許可していないんだから」


 帰るという事は……ハッ!


「あ! おい、どこ行く。危ないから走るんじゃない」


 レティセラは弟を抱きしめて、首を横に振った。


「お姉ちゃん?」

「私、行けません!」


 私が連れていかれたら、デルマは1人になっちゃう。それだけはダメ。


「……なるほど」


 それが、お前の”はい”と言わなかった理由だったんたな。


 後ろから歩いてきたレンヴラントが、腰に手をあててため息をつくと、レティセラの頭をぽんぽんと叩く。


「弟も一緒に行くから安心しろ」

「どうしてそこまで?」


 私は彼にとって、しがない使用人というだけなのに。


「言ってただろ、来年ここでやる祭りに連れてってやるって」

「確かに言いましたけど、」


 まさか、そんな理由のためだけに、ここまでしてくれるなんて、おかしくない?


「いいから、そういう事にしておけ」

「えぇ……」


 彼は、首を傾げた私の頭を、くしゃくしゃとこねくりまわし、真っ赤な鳥を召する。


「わぁっ! おっきな鳥さん!」


 弟が嬉しそうに目を輝かせた。


「1人だろうが、2人になろうが問題はない。早く乗れ」

「えぇ!?」


 あまりの急展開に、悲しさはもう吹っ飛んでいた。というか、私たちをここに連れてきた人たちはどこに行ったんだろう。


 辺りを見回すと、倒れている男たちが見える。


「レンヴラント様。もしかして、殺してしまったんですか?」

「人聞きの悪い。ただ気を失わせているだけだ」


 そう言った彼は、少年のようなイタズラっぽい表情かおで笑っていた。

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