私の苦手なこと

「……なにこれ」


 今朝に先輩から受け取った英語のノート。

 そこにはお願いした通りに英文の書き取りがしてあり、そしてお願いしていないものまで付記されていた。


 英語には文型が5種類あるだとか。

 この文はSV型だとか。

 Sは主語で、Vは動詞だとか。


 綺麗に清書された文章を取り囲むようにビッシリと、先輩からのありがたい解説が書き込まれていたのだ。


(これ、先生に提出しなきゃいけないってわかってないのかな……)


 先輩は善意のつもりなのだろう。

 私は入院している間は授業を受けられなかったので、少しでも役に立ちたいと思い解説を載せてくれたのだろう。


 しかし、私は先輩にこれは宿題だと伝えていたはずである。

 このノートは教師に見せて、自分が宿題をやったと証明しなければならないのである。


 教師がこの解説ビッシリのノートを見た時、はたしてどう思うだろうか。


(多分、まだ授業でやってない範囲の知識も書いてあるよね、これ……)


 授業の先のことまで自習で学ぶ勤勉な生徒だと思われれば御の字だ。

 しかし、そうは思われない可能性もある。

 宿題を忘れるよりも不正をしたと思われるほうが印象は良くないし、問い詰められでもしたら面倒なことになるのは間違いない。


「はぁ……」


 今日の英語の授業は1時間目だ。

 今更自分でやり直す時間もモチベーションも、私には無かった。





「後ろから宿題集めて前に回せー」


 授業が始まって早々、その時はやってきた。

 皆が後ろの席から回された英語のノートに自分の物を重ねる中、私には受け取った物をそのまま前に回すことしかできない。


「それじゃあ、宿題やってこなかったやつは前に出てきなさい」


 宿題を忘れた際のペナルティは、教科を担当する教師によって様々だ。


 成績にダイレクトに影響させる教師。

 デコピンをする教師。

 追加で課題を課す教師。


 そして、みんなの前で教科書を音読させる教師だ。


(やだなぁ……)


 人によってペナルティを許容する基準はバラバラだ。


 成績を気にする生徒もいれば。

 デコピンを猛烈に嫌がる生徒もいて。

 追加の課題も平気でやってこない生徒だっている。


 そして私は、目立つようなことをやらされるのが最も苦手だった。


(最悪……ほんと、なんで私がこんな目に……)


 幸いなことに、私のクラスには宿題忘れの常習犯がいたはずだ。

 ペナルティであるはずの音読を、毎回平気な顔でこなしている男子。

 名前は……忘れてしまったが、とにかくその男子の声に隠れるように口パクで乗り切るしかない。


(前に立つだけでも恥ずかしいけど……でも、もしかしたら今日に限って宿題忘れがたくさんいたりして、私の存在感が薄れる可能性も……)


「え……?」


 教師の呼びかけによって、宿題を提出できなかった人間が前に集まるはずだった。

 しかし席を立ったのは私だけで、慌てて常習犯の席を見ると、そこには誰も座っていなかった。


(うそでしょ……)


 今日に限って宿題を提出しなかったのは私だけで。

 頼りの男子は、どうやら休みだったようだ。


「それじゃあ、里中。ちゃっちゃとよろしくな」

「えっ……あ、はっ、はぃ……」


 黒板を背にして立てば、当然のようにみんなの姿が視界に入って来る。

 嫌でも、みんなが前に立たされている私を見ているのが見えてしまう。


「っ……!」


 一度それを認識してしまったら、教科書で視界を覆っても意味は無い。

 目を瞑ってたって、みんなが私を見ていることがわかってしまう。 


 淡い期待なんてしなければよかった。

 最初からこの状況を覚悟できていれば、私はもう少し平静を保てたかもしれないのに。


(せ、制服、おかしくない? スカート丈の長さって、みんなはどれくらいにしてるんだっけ?)


 前に立ってしまったらもう直すこともできないのに。

 自分の格好がおかしくないかが気になって仕方がない。


(は、早く終わらせないと……いつまでも立ってたってずっと恥ずかしいだけ……)


 頭では最善がわかっていても、体は中々動き出してくれない。


「ぁ……ぁい……しゅっ、すっ……」


 発音もボロボロ。

 声も全然出ない。


 脳が沸騰しそうなほどに熱くて、多分、今の私は耳が真っ赤になっていて。

 今の私の顔を誰にも見られたくなくて、教科書を顔の前から降ろせない。


「はっ、はぶ……の、のーっと――」

「よし、もういいぞ里中」

「え……?」

「ごめんな、里中はまだ退院したばかりで本調子じゃなかったよな。今回は音読はいいから、席に戻りなさい」

「……」


 いつもは誰かが特別扱いされると文句を垂れる男子たちが、今日は静かだった。


「……」

「ん? どうした、里中。席に戻っていいぞ」

「……あ、あの、保健室……いいですか?」

「ああ、わかった。一人でいけるか?」


 教師の言葉に私は首を縦に振って、英語の教科書も持ったままで教室を出た。

 多分、みんなに真っ赤になった横顔は見られてしまっただろう。


「……ひっ……ひ、ぐっ……」


 私一人だけが歩いている廊下。


 誰も教室から出てきませんようにと祈りながら。


 私は人気のない方を目指して、歩き続けた。

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