父達の"春望"
父達の"春望"
作者 津田薪太郎
https://kakuyomu.jp/works/1177354054906780929
曽祖父の七回忌に田舎を訪れた私は、日中戦争に出兵して帰国し日本で終戦を迎えるまでを書き記した曽祖父の日記を読み、心の機微に触れる物語。
タイトルの春望とは、杜甫が四十六歳の時に書いた五言律詩のことだろうか。
唐玄宗の時代の末期、安禄山の乱に巻き込まれ長安で軟禁状態にあったときに荒廃した様を見てうたったもの。
「我が唐王朝は国家が破壊されてしまったというのに山河は今もここにある。長安の町は春を迎えたが草木だけが勢いよく生い茂っている。世の移り変わりに心痛み、花を見ても涙が流れ、家族との別れを思って鳥のさえずりにも怯えてしまう。戦による狼煙は三カ月も続き、家からの手紙は万金に値する。白くなった頭を掻けば髪が抜け、いっそう薄くなってしまい、かぶり物の簪をさすこともできない」
はたしてどのような話なのかは、「読んでみてからのお楽しみに」である。
作者のコメントによれば、「拙い文でも良いから、曽祖父の体験を残しておきたい、そんな心境で書いた作品」が本作である。
文章の書き方、誤字脱字等はあっても目をつぶる。
新ちゃんと祖母の文子に呼ばれる「私」の、一人称で書かれた本作。
曽祖父の日記を読んでいくという語り部のようなスタイルを取り、表の主人公は「私」であるが、裏の主人公は日記に書かれた「曽祖父」である。
ちなみに、主人公は曽祖父さんと呼んでいる。ひいじいちゃん、ではない。
帳面を持ってきた曽祖父の娘である祖母や、帳面を読む曽祖父のひ孫である私の感想が多く語られていない。日記と日記の合間にあるのは、多くは状況の補足説明が書き添えられている感じ。そのため、戦時中を生きて書き記した曽祖父の思いが、より浮き彫りにされてくる。
本作はいわば、読者に魅せる作品だ。
主人公の私と弟は、曽祖父の七回忌に東京から電車で父の田舎に訪れている。「五年ばかし前に曾祖母が亡くなって以来」なので、五年ぶりの曽祖父の家を訪ねたことになる。その前はおそらく、曽祖父の葬儀のときだ。
でも両親の描写がない。二人とも仕事の都合があって、子供たちだけで行かせたのだろうか。主人公はもう子供ではないから、お盆だし、弟と二人で田舎に行ってくるよう両親にいわれたのかもしれない。
祖母から「新ちゃんもねぇ、今大学で歴史を勉強してるんでしょう?」といわれている。「この歳になると、弟の様に無邪気に田舎を喜ぶ気にはならない」という文章からも、主人公は子供ではないことがわかる。
歳の離れた弟かもしれないが、田舎に来て喜ぶのは小学生までと仮定し、素直に考えて主人公は大学一年のおよそ十八歳と推定する。なぜなら、「今から十年前の事。小学生だった私でも」とあるので、十八から二十二歳までの間である。
「祖父母の健康が心案じられる」とか「二人は矍鑠としていた」など、現代の学生とは思いにくい表現を主人公は使っている。
割と年配か、あるいは日常会話でつかっている年配の人と接触する機会が多い、または一緒に住んでいるか、一緒に住んでいる人や主人公が時代劇好きか、はたまたそのような言い回しをするのが好きな主人公なのかのどれかではないかしらん。
どれもが当てはまりそうだけれども、歴史好きを考慮して、このような言い回しが好きなのだろう……といいたいが、その後はそのような表現がみられないので、正直良くわからない。
「新ちゃーん、お夕飯ですよ。今日は新ちゃんが好きな、鰤のカマを煮付けにしましたよ」
「はーい」
というやり取りからも、やはり主人公は大学一年生くらいと推測する。あるいは二十歳くらいとしてもいい。そうすることで、おそらく曽祖父が徴兵された歳とおなじになるので、対比として読むことができる。
祖母は「今大学で歴史を勉強してるんでしょう? なら、役に立つかと思ってね」と古い帳面持ってくる。
主人公は大学で歴史学、史学科を専攻しているのだろう。渡された帳面にかかれていたのは「曾祖父さんが上等兵の、また歩兵として従軍していた時の」日中戦争がはじまった年の昭和十二年八月から終戦を迎える二十年八月十五日までの八年間の日記だ。
上等兵とは、大日本帝国陸軍時、一九三八年に兵長が設けられるまで等級の最上位。ただし、上官という意味の最上位ではなく、部隊一の古顔という意味。初年兵にとって上等兵は「先輩」の中の優秀者とみなされていたという。
兵役法によれば、「日本国籍を有する満二十歳になった男子に対して徴兵検査を受ける義務を課し、そこで兵役に適すると区分された者は兵役に服する」とある。
大学の卒業者であれば入営後直ちに一等卒の階級が与えられ、概ね 二カ月後に上等兵、 四カ月後に伍長、 六カ月後に軍曹、 八カ月後に曹長となった。
高等学校や専門学校、高等師範学校等の卒業生であれば、入営後直ちに一等卒となるのは大卒者と同じだが、以後は 三カ月後に上等兵、 六カ月後に伍長、 八カ月後に軍曹と、大卒者よりもいくらか進級が遅かったが、通常の兵から下士官への進級は早い。
この時代、中等学校は五年制で十七歳で卒業。高等学校は三年制で二十歳で卒業。大学は三年制を二十三歳で卒業となる。
ただし、エリート養成機関として尋常小学校は六年制で十二歳で卒業。卒業生を対象とした七年制高等学校が存在し、この場合、十九歳で高等学校を卒業。二十二歳で大学を卒業となる。
曽祖父が大卒だった場合は二十三歳(あるいは二十二歳)。高卒なら二十歳で入営し、上等兵となって戦争に参加したのだろう。
仮に、曽祖父が高等科を卒業した一九三六年三月に、二十歳で徴兵検査を受け、甲種合格したとする。入営までの間は青年学校で軍隊に入隊する前の基礎訓練を行う。一九三七年一月に入営。盛大に見送ってもらいながら「勝って来るぞと勇ましく、誓って国を出たからは、手柄立てずに死なりょうか、進軍ラッパ聞くたびに、瞼に浮かぶ旗の波」という歌を口ずさんだかもしれない。
速足行進訓練、実弾射撃訓練や銃剣術などをする。完全武装すると装具は三十キログラムほどの重さとなる。相当辛い訓練から、「水筒に水を長く残すことができた者が、倒れずに歩き続けられる」と学んだかもしれない。
訓練が三カ月ほど続き、四月には一期検閲を終了。のちに新設部隊が編成されたりして入隊。
一九三七年(昭和十二年)七月七日 、中華民国北京西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件が発端となり、日本国と中華民国間に日中戦争が勃発。
同月に任が決まり、盛大な見送りを受けて日本を発ち、翌八月に上陸したと邪推する。
一九四一年(昭和十六年)、に除隊が決まり、本国へ帰る。
曽祖父の七回忌を行っているので、亡くなったのが今から七年前の二〇一四年。亡くなられた歳は九十八歳の計算となる。
中隊長の話を、「なんと愚かな」とし、「私達は、百万にも満たぬ小勢で、東亜一の"愛国烈士"十億余を」「撃ち破らんとして居る」とある。
烈士とは、節義の堅い、名誉のために殉じる人物のこと。また、革命や維新などにおいて戦い功績を残し、犠牲となった人物またはその人物の称号をいう。
大韓民国では、独立運動に参加して犠牲になった英雄を独立烈士または愛国烈士としている。北朝鮮では、朝鮮労働党の党員や朝鮮人民軍の軍人の戦死者や殉職者や北朝鮮政府の官僚など国家の功労者が埋葬されている陵墓を愛国烈士陵という。
犠牲になって亡くなった人のことを指す言葉なので、違和感がある。詳しい人の説明を仰ぎたい。
タイトルに杜甫の春望を用い、日記には「李白杜甫の詠いし地に立」ちながら、「李白に倣い、長江の天際を眺め」るのだ。杜甫ではなく、李白なんだ。
李白が尊敬し、彼より十歳年上で、当時文名の高かった孟浩然が船出して揚州に向かうのを李白が見送った『黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る』の詩にならい、曽祖父は長江の空の果てを眺めたという。
「はるかかなたにポツンと見える帆影は青緑色の空間に飲み込まれ、長江が天の果てに流れていくのだけが見える」と書かれた詩と見ている風景はちがうことを、対比させている。そのために李白を持ち出したのかもしれない。
主人公が十年前の夏休み、「田舎に帰った私は」とある。主人公が生まれたのはこの家なのだろうか。現在はちがうところに住んでいるのでわからないけれども、幼少期に育っていなければ使わない表現だ。かといって、幼すぎれば覚えていないだろうから、こんな表現は使わない。
当時小学一年生だったと仮定して、このときも夏休みだから親といっしょに曽祖父と祖父母の家に遊びに来たのだろう。
仮に幼稚園まで一緒に暮らしていたとすると、曽祖父の「なんだい新、勉強か。あぁ、あぁ熱心な子は、いずれ大成するぞ」という言葉には距離を感じる。
それに「仏壇が設えてある広間で寝っ転がって」いたら、注意される。戦中のひとは生き方や考え方に芯が入っている。少なくとも個人的な経験として、わたしは注意された。これが戦後生まれになってくると、考え方が柔和になる。その子供だとさらに軟化していく。主人公はさらにその子供。世代が違うのだ。
曽祖父母はもちろん、祖母も戦中生まれ。厳しい中を生きてこられた方々の考え方や生き方は、戦後生まれの人とは明らかに違う。それをこのシーンから感じないのは、取り上げたい話題とちがうからで、おそらく割愛されているのだろう。
「我々は皆飢えて居る、ギョロリと……目を瞬かせて……バッタも、蛇も……犬さえ、我々には上等な食料と化した」とある。
作者が生まれる前になくなった曽祖父の戦争体験を基に、「バッタや蛇も食べた」、或いは「朝元気だった仲間が機銃掃射で夕方には亡くなっている」などの話を作者の父を介して聞いたという。
吉田裕・一橋大学大学院特任教授の著書『日本軍兵士』によれば、日中戦争以降の軍人・軍属の戦没者数は約二百三十万人だが、栄養失調による餓死者と栄養失調に伴う体力の消耗の結果、マラリアなどに感染して病死した広義の餓死者の合計は百四十万人で全体の六割に達すると推定している。
フィリピン・ルソン島で戦った人の話によれば、「戦う相手は飢餓だった。主食は雑草。ヘビ、トカゲ、カエル、ネズミ、バッタ、沢ガニ……。食べられる物は何でも口に入れた。食事はエサと呼んだ」「エサがないところにいれば餓死する。歩けない者は容赦なく置き去り」「時折、太ももや頬がえぐられている遺体があった。それは誰かが食べたことを示していた」などなど。
食糧が不足し餓死と背中合わせの戦場。しかも戦闘で負傷すれば、自殺を強要される。敗戦色が濃厚になるにつれ、戦闘どころではなく生きることに必死だった。
これは第一次大戦の日清・日露戦争時に「精神力で敵を圧倒する」という精神主義が広まり、「白兵戦によって勝った」「日本精神によって勝った」という成功体験が神話を作ってしまったところに、原因があるのだろう。
日本人は江戸時代以降、昆虫を食べている。昆虫食は長野県をはじめ、四十一都道府県で食べられており、切羽詰まってではなく、近代まで日本人は実にいろいろな虫を好んで食べており、イナゴの佃煮や蜂の子などはよく知られている。
私の知るかぎりではだけれども、戦中戦後すぐに生まれた人で、虫を好んで食べる人を知らない。昔は食べたことがあるが食べたくはない、と聞いたおぼえがある。食べることで、当時の辛かった日々を思い出すからではないだろうか。
一九四一年(昭和十六年)、曽祖父は除隊が決まる。
現役満期となったのだろう。その後は予備役に編入され、昭和十七年に「八幡製鐵所で、技師をやることになった。それによって、また住み慣れた此処を離れ、福岡へと出向く」とあるので、もともと、福岡に近いところに住んでいたのではないかと推測する。
一九四三年(昭和十八年)、空襲が増えたとある。
北九州地区が初空襲を受けたのは、一九四四年六月十五日に中華民国の成都の基地から初めてアメリカ陸軍航空軍第58爆撃団の戦略爆撃機B29が八幡製鐵所コークス炉を目標とした本土空襲のとき。
第二次大戦における本土初空襲は一九四二年(総和十七年)のドーリットル空襲がはじまりとされ、東京、川崎、横須賀、名古屋神戸など空爆されている。一九四三年(昭和十八年)十一月二十五日、中国本土から出撃した米軍機が台湾の新竹基地を爆撃。空襲が増えていくのは一九四四年から。
それ以前にも知られていないだけで、空襲はあったのかもしれない。詳しい人の話を仰ぎたい。
ちなみに八幡空襲によって日本本土の防空体制の脆弱さが明らかとなり、その後一年二カ月に及ぶ大規模な日本本土空襲の発端となってしまった。
八幡市は、一九四四年八月二十日に中国から飛来したB-29によって二度目の空襲を受け、さらに翌年八月八日に三度目の空襲ではマリアナ諸島基地発のB-29が焼夷弾爆撃を行い、罹災者数五万二千五百六十二人、罹災戸数一万四千戸 死傷者は約二千五百人の壊滅的な被害を被った。
日記に出てくるグラマンは、アメリカ合衆国の航空機メーカー、グラマン航空機エンジニアリング社のこと。ここででてくる戦闘機はおそらく『F6F』と推測する。アメリカ海軍が第二次大戦中盤以降に使用した艦上戦闘機。愛称は、ヘルキャット。直訳すれば「地獄の猫」である。
一九四四年(昭和十九年)、十一月二十六日に主人公の祖母である、曽祖父の娘が生まれたとある。戦時中に生まれたのだ。しかも食糧難のころだったので、大変であっただろう。曽祖父はずっと八幡に住んでいたのではなく、盆や正月には妻に会うため家に戻っていたのだろう。
そして終戦を迎える。
曽祖父は戦場を生き抜き、空襲をも生き抜いたのだ。
戦後日本は食糧難に陥り、それをも生き抜いて今日ひ孫に自身の日記を読んでもらったのである。
わたしたちは「鰤のカマを煮付け」を何事もなく食べられる平和と繁栄を享受できることを、先人たちに対して感謝と畏敬の念をわすれてはいけない。
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