晴天に放つ
晴天に放つ
作者 晟菜百合
https://kakuyomu.jp/works/16816452219379698589
夢の中で尊敬する亡兄の平賀響と語らい挑んだ高体連の全国大会個人戦決勝で、平賀鳴は勝利をつかむ物語。
なにを晴天に放つのか、それは「読んでからのお楽しみに」である。
少女漫画、あるいはフランス映画のような作品。
作者いわく、「この小説は、私の友達四人と共に同じテーマでそれぞれ小説を書くことになって、書いたもの」だそうだ。
よく書けている。
「 」のひとマス目はあけない。
夢の中の会話を、現実とは区別するためかとおもったけれど、全体的に下げているので、区別するためではないと思われる。
一行、間をあけ、場面が変わるところは二行あけにしたり読みやすくしようとしている。
疑問符感嘆符のあとは、ひとマスあける。
主人公の平賀鳴の一人称、「私」で書かれている。
全体的に彼女の、一人語りの独白のような文体。状況を説明する描写は少なく、主に彼女の内面を描いている。そのため読後の印象は、霞がかったような朧げでハッキリしない霧の中、あるいは暗闇の中を突き進んで歩いていく先に光を見るような、ふんわりとした綿菓子につつまれた世界観におもえる。
棒読みちゃんを使用して作品を読んでいるので、効果音やBGMのないラジオドラマを聞いているような感じだった。
正直いって彼女の外界の状況、会場の臨場感や後輩や顧問がどういう見た目だとか、試合後彼女たちはどこにいるかなどがわからない。それらの情報を極力抑えて書かれている。少女漫画のようであり、シーンを優先した作り。物足らない感じがややする。わかってもらうより、感じてもらう作品に思える。フランス映画っぽい。
病気でなくなった兄の話があるので、気取らず大仰しい表現ではなく、平易な文章で書かれているのが良い。内容と文章のバランスがいい。
死に対して大切に扱っている。作品には作者のひととなりが現れるものなので、なにかしらの体験からきているかもしれない。死について、いままで僅かなりとも見聞きしたことがないというのであれば、それはそれで素晴らしい。
前半。
暗闇にいる主人公。なにをしているのか問われたら、「私はそれに対して、瞑想だと答えるだろう」とある。
瞑想とは、様々な種類があるが、心を静めて無心になり、何も考えずリラックスし、心を静めて神に祈ったり、何かに心を集中させたりすること。
リラックスして背筋を伸ばし、体の感覚と自分の呼吸に意識を向け、呼吸する様子を観察していくと、雑念が湧いてくる。雑念が湧いてきたらあれこれ考えず判断せず、呼吸に意識をむける。自然な呼吸をつづけ、呼吸する様子を観察していく。
雑念は湧いてきてもいいけれども、あれこれ考えるのはちがう。
弓道は無心になって矢を放つ。考え事をしたりいつもとちがう動作をすると的に当たらなくなるという。だから瞑想を取り入れることは理にかなっている。
でも彼女がしているのは瞑想というより、試合前に集中しようと胡座をかいて目を閉じ、あれやこれや考えながら浮かぶ雑念に振り回され、気がつけば回想まじりの亡兄の夢をみた、という感じ。
多感な女子高生だし、きちんと瞑想できないところを描いているのかもしれない。一人称の小説なので、自分であれやこれや説明していく形になるのは仕方ない。
胡座をかいて目を閉じている彼女は、「いい加減ぴんと背筋を伸ばしていた姿勢がつらくなってきた。膝の上に乗せた両手は気持ち悪いくらいに汗でじっとりと濡れている」とある。
あれこれ考えて無駄な力が入っているから、姿勢がつらくなってくるのだ。頭のてっぺんを、天井から一本の糸で吊りさげられているイメージして背筋を伸ばし、無駄な力を入れず呼吸に意識をする。
彼女は瞑想したことがないか、不慣れか、集中できていない。そのことを描いているのだろう。
夢と思われる中で、亡兄が現れる。このとき彼女は胡座をかいている状態だと推測する。
ふり返った後、声が出ない彼女は「近づこうにも、足が動かな」かったから、亡兄のほうから近づき、「抱き寄せられ」る。「兄さんの背に回した腕に力に込め」彼の体の細さと病気だったことが明かされる。
一つ一つが丁寧に書かれているところがいい。
このあと、「兄さんから離れ、零れた涙を」拭うのだが、背中に回して腕を離したのだろう。そして亡兄は数歩離れ、彼が矢を放つ。彼女はみたかった景色「暗闇の殻を破ったその時に見える、晴天を」を一羽の鷹が「的の中央を突き抜け」るのをみた。
このとき亡兄は、「さて、お前は、平賀鳴は晴天に矢を放てるか?」宿題のような問いかけを残して消えていく。タイトル、サブタイトルにも使われている言葉であり、いま一度読者に、これがラストに向かっての筋だと伝えている。
前半で説明し、後半は感じるままに読んでもらう。
実にいい。
後半は、彼女の兄である平賀響が四年前、十八歳でガンで亡くなった話が語られるところからはじまる。前半もそうであったが、後半はより感情的な内容になっていく。
「兄さんは弓道が上手かった。小学生の頃から何度も大会で優勝していた」とある。
ほとんどの弓道教室の募集は、中学生からが対象だ。
なぜなら、小学生以下は骨が形成されていく段階なので、そのときに強い力が加わるとゆがみや骨が曲がってしまう恐れなどがあるためだ。それに、弓を持って引くには力が必要なので、その力がないとむずかしい。
それに、弓道具の問題だ。
弓道具は体格に合わせて買い替えが発生する。成長期なので身長が伸び、弓の張替えや弓道手袋ユガケの交換、矢に至っては毎年交換。費用がかかるのだ。
だからといって、小学生が弓道を習えないわけではない。
国内でも限られた地域だけだが、小学校高学年から受け入れている弓道教室はあるし、小中学生の弓道大会は行われている。小学生の部は個人競技のみ。参加人数もまだ少ないながらも、その中で兄は実力を発揮して優勝していったのだろう。
高二の後半とあるので、彼女の兄が十六か十七歳のころに癌が見つかり、「発覚したときには既に転移していたはずだった」とある。はずだった、とはなんだろう。
「発覚していたときにはすでにかなりの転移がみられた」なら意味が通る。
よくおぼえていない、あるいはくわしく聞いてないので知らない、というようなことを言いたいのかもしれない。
小児がんかもしれない。違うかもしれない。
仮に小児がんだとすると、小児がんの転移経路は、血流に沿って転移する「血行性転移」と、リンパ流に沿って求心性に転移するリンパ行生転移、どちらの場合も起こり得る。
また、がん細胞の増殖スピードが速いので、発見されたときにはすでにかなりの転移をしている症例もあるという。肝臓の肝芽腫は肺転移をしやすく、切除できても肺転移して病変した肺の部分切除術をくり返すこともよくあるそうだ。
治療法には、腹腔鏡手術で切除したり、化学療法によって病変が小さくなっても切除不能の場合には肝移植したり、化学療法や放射線療法、免疫療法などがある。
抗がん剤はかなりきつく、じっと座っていることでさえつらい状況だ。「高校最後の高体連、その個人戦の決勝。兄さんは無理をしながら出場した」とあるので、病院の先生が治療のスケジュールを調整し、その日に合わせて外出ができるぐらいに免疫を戻して、出場できるようにしてもらわないと出られない。
兄の高体連はどこで行われたのだろう。
仮に四年前の平成三十年度全国高等学校総合体育大会は、三重県を中心とする東海地方で八月一日より開催。開会式は二日)
弓道大会が行われたのは静岡県袋井市エコパアリーナ。
開会式のあった二日に、個人予選、決勝が行われている。公式練習は七月三十一日と八月一日の二日間。
個人戦は、三人立四射場「十二 人」(射手の間隔は 一・八メートル)
射距離は、二十八メートル。つまり直径三十六センの的を二十八メートルの距離から狙い、的中数を競う近的競技だ。
また、高体連は毎年開催地が変わるので、自県開催なら出場後に病院へ戻れるし、隣県なら移動ですむ。けれど、遠方の他県開催ならどこかで一泊しなくてはならない。
少なくとも、長らく入院を余儀なくされていたのだから、前日に開催場所入りして公式練習に参加したいところだ。
出場しても、そこで勝ち上がっていくには体力や気力が必要になる。入院中に体力が落ちないようにしていないと、気力だけでは大会にでて準優勝するのはむずかしい。
少なくとも、彼にとって弓道が青春の全てだったはず。それを失うのは、生きている意味を失うこととと同じ。なので、大会に出場して優勝するためにはどうするのかを考え、彼はトレーニングをして入院中を過ごすことを選択した。だからこそ、満身創痍ながらも出場し、持てる全てを出しつくして準優勝を勝ち取ったのだ。
彼の青春すべてをかけて出場したから、二日後に亡くなったのだろう。
後輩に起こされて、彼女がいたのは弓道場の控室だったことがようやくわかる。
兄の形見の弓を四年間、「この弓」をつかってきた。
入院中、彼女は兄から「鷹が的を突き抜ける、晴天の世界を」聞かされ、「いつか、鳴が見れたら、教えてくれ」といわれている。
このことから、彼女は四年前には弓道をしていたことがわかる。
おそらく、小学生から弓道をはじめた兄の背中を見て、彼女もはじめたのだろう。年齢が四つ違うので、兄のお古をもらって弓道教室に通っていたのだ。そして、決勝戦で兄の形見である弓をつかう。
「いつだって試合は真剣勝負。常に全力でやる。それがたとえ予選であろうとも」
言いたいことはわかる、いつだって全力で手を抜かないのだろう。だけどいまは決勝戦なので、「それがたとえ予選であろうとも」というのはおかしい。いま彼女が出場している場面が予選なら、問題ないけれど。ここで優勝が決まる場面なので、「たとえどんな相手だったとしても」と、べつな言い方にしてみてはどうかしらん。
大会後、「私の通う高校は弓道の名門だった。そしてそこの伝統で、引退する代はみな色紙に座右の銘のようなものを書くのだ。そしてそれがずらりと弓道場の壁に並んでいる」というところから、場面は高校の弓道場に移ったことが何となく読める。明確に場所を特定するような書き方をしないのが本作、あるいは作者の特徴だ。
最後の最後まで色紙になにを書いたのか明かさない所が良かった。なにが書いてあるのか、読者に興味をもたせておいて、最後にみせる。余計なことをうだうだ書かずスッキリ終わる所が本作の余韻を味あわせてくれる。
故人は死んでいない。そういえるのは、わたしたちが生きているからだ。在りし日の在りしままの姿で考え、故人が残してくれたアドバイスが現実で効力を発揮する。
それは、生きているわたしたちが、この世の様々なことに対処しなくてはならないから。だからこそ私たちは故人に耳を傾ける。
故人が望んだことが彼女の中で生き続け、人生に充分発揮することを望んでいる声に耳を傾けたからこそ、彼女は晴天に矢を放てたのだ。
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