君の名前を呼ぶたび、世界が終わる
遠坂崋山
第1話 終わりの瞬間
夏の終わりというのは、どうしてこうも唐突にやってくるのだろう。
八月三十日の午後四時。焼けたアスファルトの匂いが立ち上る帰り道、俺はコンビニの袋を片手に、自転車を押しながら歩いていた。部活帰りの濡れたジャージが首筋に張り付き、汗が一度乾いて塩を吹いている。
「遅っそ〜。凍ってるアイス溶けちゃうじゃん」
振り返ると、そこに紗奈がいた。肩までの髪を一つに結んで、スニーカーの踵を踏んづけている。相変わらず雑な女だと思うのに、その雑さが妙に懐かしかったりする。
「仕方ないだろ。レジ混んでたんだよ」
「言い訳禁止〜。ほら、アイスちょうだい」
俺が袋からアイスを取り出した瞬間、紗奈は歓声を上げて受け取った。その顔を見ていると、どうでもいいことで笑い合える日々が永遠に続く気がしてくる。──けれど、続かなかった。
その日、俺の世界は終わったのだ。
***
紗奈が死んだのは、その三時間後だった。
帰宅してシャワーを浴び、タオルで髪を拭きながらスマホを確認した瞬間、画面に飛び込んできた通知に思考が止まった。
《橘紗奈さんが事故に遭って搬送……》
ニュースアプリの通知が霞んで、手が震えた。何度も読み直しても文字は変わらない。俺は見なかったことにするようにスマホを伏せたが、それで現実が消えるわけもなかった。
病院は家から自転車で十五分。全力で漕いだ。赤信号も、危ないクラクションも、全部無視した。
救急搬送口で名前を叫んだ俺に、看護師は困惑しながらも案内してくれた。しかし扉の向こう側で告げられた言葉はあまりにも冷たかった。
「ごめんなさい……助けられませんでした」
自分の声が出なかった。泣くことも怒ることもできず、ただ、世界から音が消えたような感覚だけがあった。
紗奈の兄の智久が肩を押さえていても、俺は抵抗しようともしなかった。
白いシーツに包まれた紗奈の姿を見たとき、胸の中で何かがゆっくりと崩れ落ちた。
その夜から、俺は眠れなくなった。
***
葬儀の翌日。俺は紗奈の家の前で立ち尽くしていた。ふと視界に入った門扉の傷が、妙に懐かしかった。
──小学校の時、二人で鉄棒の練習をしてて、紗奈が家に帰る時に自転車ごと突っ込んで作った傷だ。
思い出した瞬間、胸の奥が焼けるように痛んだ。その痛みと一緒に、奇妙な感覚が身体を走った。
視界が揺れる。息ができない。腕の毛が全部逆立ち、時間が軋む音がした。
そして世界が……巻き戻った。
***
目を開けると、見慣れた教室だった。
時計は午後三時三十五分。窓から差し込む光も、教室に漂う汗とワックスの匂いも、すべてがたしかに“昨日の放課後”だった。
「……嘘だろ」
俺は机から立ち上がり、廊下に駆け出した。階段を飛び降り、昇降口で靴を履き替える。その時間帯、紗奈は確かコンビニの前にいたはずだ。
校門を抜け、住宅街を走る。呼吸が喉を裂くように苦しい。だが構っていられなかった。
曲がり角を曲がった瞬間、いた。
自販機に寄りかかりながらスマホをいじっている紗奈が。
「……さな」
言葉にならなかった。息が上がってもつれ、汗が目に染みた。
それでも、声は出ていた。
「紗奈!!」
紗奈は驚いて顔を上げた。俺を見て、首を傾げる。
「どしたの?そんな息切らして」
生きている。触れられる場所にいる。ただそれだけで涙が出そうだった。
「……今日、外出んな」
「は?」
意味がわからない顔をする。そりゃそうだろう。
紗奈が死ぬなんてことを、どう説明すればいい?
言葉を探していたその瞬間、紗奈がふっと笑った。
「心配してくれるのは嬉しいけどね。でもアイス買いに行くだけだよ?」
それが“死へ向かう道”だと知っているからこそ、震えた。
「じゃ、行ってきまーす」
「待て!!」
腕を掴んだ。右手の温度に生の確かさが宿る。
紗奈は一瞬驚いたが、真剣な俺の顔を見て息を飲んだ。
「……そんな顔されたら、行けないじゃん」
その夕方、紗奈は外に出なかった。
俺は家に帰る前、夕暮れの坂道で空を見た。
救えた。
今度こそ救えたんだ。
そう確信した。
……だが、夜。俺は知ることになる。
“避けたはずの事故”の代わりに、紗奈は家の階段から落ちて頭を打ち、同じ時間に死んでいた。
テレビの速報ではなく、彼女の兄からの電話で。
「凌……紗奈が……死んだ」
俺はスマホを落としそうになった。叫びも涙もなかった。ただ、膝が勝手に折れた。
避けても、死ぬ。
理由がわからない。
何を変えても、死に収束するのか。
その夜、俺は気付いた。
巻き戻しの瞬間に、胸に“鈍い痛み”があったこと。
そして一つ、思い出せないことがあることに。
それは、昨日コンビニの帰り道に紗奈が言った言葉。いつもなら絶対覚えている、あのどうでもいい冗談。それがどうしても思い出せなかった。
胸の奥が冷たくなった。
もしかして──
巻き戻しは、代償を取る。
その代償とは、“紗奈との思い出”ではないか?
そう考えた瞬間、再び世界が軋む音がした。
痛みが走り、視界がぐにゃりと歪む。
次に目を開けたとき、時計は午後三時三十五分を指していた。
また戻ってきた。
俺は膝に手をつき、荒い息を漏らした。
「……大丈夫だ。大丈夫。今度こそ……助ける。絶対に」
誰に聞かせるでもなく呟いた言葉は、確かな誓いだった。
紗奈の代わりなんて、いない。
紗奈を失う世界なんて、認めない。
たとえ俺の記憶が全て消えるとしても。
たとえ紗奈のことを忘れてしまうとしても。
──君のためなら、俺は何度でも巻き戻す。
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