誘蛾灯

 深大寺には行きつけの蕎麦屋があった。野川をまたいで用水路に沿っていくと小さな水車があって、その横に店を構えていた。

 正面の暖簾のれんをくぐると座敷が奥まっていて、更に奥には障子で仕切られた部屋がいくつか並んでいる。

 私は一番手前の座敷に座り品を注文しようとしたのだが、店の中を見て奇妙に思った。いつもは私を含め二、三組の連れしかいないのだが、この日はやけに賑わっている。中居の人らが右へ左へ行ったり来たり、厨房の方からはカチャカチャとせわしない音が聞こえてくるのだ。

 後ろを振り向くと、障子に映し出された客たちの影が楽しそうに揺れているのが見える。今晩は宴会でもあったのかと思い、会話に耳を澄ましてみたのだが何故か上手く聞き取れなかった。食器のぶつかる音や飲み食いなんかする音は聞こえるのだが、言葉を読み取ろうとすると突然ガヤガヤとぼやけてしまうのだ。それも騒がしい訳ではなく、その賑わいに身を置いていると何だか穏やかな気分になる気がした。

 しばらくその影たちを眺めていると、そのうちの一つに一定の間隔で動いているものがあった。影しか見えないからよく分からなかったが、どうやらその影はこちらに向かって手招きをしているようなのだ。私もそちらに行った方が良いのかと思って障子へ手を伸ばそうとしたその時だった。

「……そうかね」

 影の一つが発したであろう言葉が確かに聞こえた。

「……それで、何分咲なんぶざきかね」

 そんな声が聞こえたのだ。

 すると向こうの部屋の奥に座っていた人たちがいきなり立ち上り、連なった影がぞろぞろと左の方へ流れていった。先ほどの喋っていたものを含む手前の影たちはまだ座ったままである。

「……そうかね」

 また同じ声が言った。

「もう咲かないのかね」

 そう言い終えると同時に残りの影たちも一斉に立ち上りぞろぞろと去って行こうとした。

 それを見るや否や私は飛び上がり叫んだ。

「待って!」

 障子を開け放ち向こう側へ飛び込む。敷居につまずき両手を床についた。手に力を込め立ち上がろうとすると床にめりっと手が食い込んだ。手のひらを見ると泥やら雑草やらがこびりついている。

 気が付くとそこは野川の土手の下だった。河川の流れる音が聞こえて、辺りには夜明け前の露の香りが立ち込めている。

 私はゆっくりと立ち上がると着物の泥を払って、河川の方へ目をやった。すると河上から笹船ささぶねが近づいて来るのが見えたので、それを少し指先でき止めてまた放した。

 乱れた髪を結び直すと、私は夜明け前の帰路をとぼとぼと歩き出した。

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