五、暗夜の礫は防ぎがたきこと
翌日、米飯と豆腐の味噌汁で昼餉を済ませた百は、身支度を整えて家を出た。
上六町で、昨日蕎麦屋で見かけた二人連れについて聞いてみると、それは竹田町に住む御用聞きの政七だと知れた。
政七の家は竹田町で〔巴屋〕という料理屋を開いている。小体な店だが、近所では人気があるようだ。
店の名から〔巴屋の親分〕とも呼ばれる政七は、四十三、四で、色の浅黒い、鼻の高い、どう見ても堅気と見える町人だった。丁寧に挨拶をし、名と身分を明かした百に、政七も愛想よく挨拶をしたものの、まだ怪訝そうな様子だった。
「実は、今抱えている仕事絡みで、お話を伺いたいことがございまして」
百が昨日蕎麦屋で政七とその手先を見かけたことを告げ、また現在手掛けている仕事に先日殺されたおゆいが関わっているらしいこと、もし何かおゆいについてわかっていることがあるのなら、難しいとは思うがどうか教えてもらえないか、と続ける。
「いささか、こちらが手詰まりの気味で……。何かご存知のことがあれば、と思いまして」
「ふむ……いや、わざわざ来てもらったのに悪いが、私自身が深く探っていたわけではないのだ。だが、私の手の者でおゆいを探っていた者がいるから、その男に話を聞いてみるといいだろう」
「ありがとうございます」
政七から九葉の家を教わり、一筆書いてもらった百は、竹田町の北の多穂町へ向かった。このあたりにはあまり来たことがない百だが、それでもさほど迷うことなく九葉の家についた。
九葉は三十前後の鬼人で、右目に布を当てている。愛嬌のある顔立ちで、ちょっと芸人のように見える。
百が始末屋と聞いて明らかに警戒の色を浮かべた九葉だったが、話を聞いて少しその表情を和らげた。
「おゆいのことは、前々からどうも怪しいと思っていたのだ。何度も見かけていたが、しょっちゅう瘴気が絡んでいた。毎回ってわけじゃなかったが」
「それで、おゆいに目をつけられたのですか」
「そればかりじゃねえがな。……俺の知り合いに、平助という男がいてな。飲む打つ買うの三拍子揃った、どうしようもねえ男だったが、半年前、その平助が頓死した」
百がぴくりと眉を上げる。
「いや、頓死……とも言い切れないか。日に日にやつれていって……ある朝、寝床の中で死んでいたそうだ」
百の頭に、要の姿がよぎる。
「もしやその方は……夢見が悪いとか、言っておられませんでしたか?」
「そのとおりだ。平助の女房が言うには、平助は死ぬ二、三日前から、悪夢を見て寝付きが悪いと零していたらしい。それに近所で聞いてみると、この女房は、おゆいのところに足繁く通っていたようでな、もしや亭主に愛想をつかして、おゆいに何か頼んだのではないかと思ったのだが……それが事実であっても、まさか認めることはあるまいし、おゆいが死んでしまっては、これ以上詮議のしようがない」
九葉が忌々しげに言葉を吐き出す。
平助の女房、しづが今どこに住んでいるのかと聞いてみると、同じ多穂町の長屋だという。
外に出ると、いつの間にか雨が降りだしてきていた。九葉に丁寧に礼を述べ、傘を借りて家を辞した百は、しかし西澤淵に帰るのではなく、雨の中をしづの住む長屋へ向かった。
道を歩く百には、すれ違うひとびとから珍しげな視線が向けられる。しかしそれには慣れている百は、平然と道を歩いていく。
百の見た目は、町の女たちとはまるで違っている。髪を結い上げずにまとめ、太刀を背負って脇差を帯びた女など、鉦と太鼓で探し歩いたとしても百くらいしか見つかるまい。
その視線のひとつに、やけに鋭いものが混ざっていることに、百は気付いていなかった。
行きあった人に聞きながら、しづの家を訪ねる。
「もし……おしづさんはおられますか」
声をかけてみたが、留守のようで応えはない。
(仕方がないか)
日暮れにはまだ少し間があったが、雨のせいかあたりは小暗く、人通りもほとんどない。道を歩き、
三十をいくつか越したような、ひどく疲れて見える女である。川面を見つめながら何か呟いている女は、不意に欄干から半身を乗り出した。
(あ……)
このとき遅くかのとき早く、百の手から傘が飛ぶ。
まっすぐに女に向かって走った傘は、その肩のあたりに勢いよく打ち当たった。
傘を投げた直後、女に走り寄った百は、よろめいた女をしっかりと抱き止めた。
「放して……放してください……」
弱々しく抵抗する女を、力を加減して押さえつつ、
「こうして見たからには、そういうわけにもいかぬ。さ、お立ち」
ゆっくりと女を立たせ、その肩に手を添えて歩こうとしたが、女はすすり泣きながら首をふった。
「どうか……どうか殺してください、後生ですから……」
「後生でそんな頼みごとをされても困る。悪いようにはしないから、おいで」
女の肩を支え、そろそろと歩き出す。どこに住んでいるのかと優しく問うてみたが、女は泣くばかりで答えようとしなかった。
内心困り果てながらも女をなだめすかし、ようやく名と家を聞き出す。
女が多穂町に住むしづだと知り、百は驚いたものの、それを見せることなく彼女を家まで送り届けた。
家についてから、一間きりの狭い部屋で、百はしづと差し向かいに座っていた。彼女が始末屋だと知り、平助のことを聞かせてほしいと頼まれて、しづが観念した様子でぽつぽつと事情を語る。
平助は大工をしていたが、九葉も言っていたように、飲む打つ買う、と三拍子揃った男で、稼いだ金のほとんどをそちらに費やしていた。金が足りなくなればしづの着物や簪まで質に入れて金を作り、それをすぐに使い果たしてしまう。そしてしづが少しでも意見をしようものなら怒鳴りつけ、ときには手をあげることもあったという。
「それで、耐えられなくなって……相談したのです、おゆいさんに。……おゆいさんは、あと五日辛抱しろと言って……そうしたら、日に日にあの人はやつれていって、とうとう……。それからは、恐ろしくて、恐ろしくて……」
しづがくぐもった嗚咽を漏らす。
「それが許されることではないと――おわかりか」
「はい……ですから、どうか……殺してください」
「それではこちらが罪人となる。私はあくまで始末屋。ひとに害をなすものを討つのが役目であって、ひとを裁くのは私の役割ではない。今聞いたことは忘れましょう。これからどうするかは、自分で考えなさい」
静かにそう言い置いて、百は雨の中へ出ていった。
雨は激しさを増している。
(これでは花が散ってしまうな)
惜しく思いつつ、道を打つ雨を踏みながら歩みを進める。
それから一刻(約二時間)ほど経って、百は西澤淵の我が家へ帰り着いた。
玄関の戸に手をかけた瞬間、戸が内からいきなり開かれた。
はっとした百が飛び退る間もあらばこそ、研ぎ澄まされた槍の穂先が彼女をめがけて突き出される。
とっさに身をひねったが、槍は百の左肩を深々と刺し貫いていた。
槍が手繰られるや、百は持っていた傘を捨て、背負った朱塗りの太刀を引き抜いた。
「何者か!」
鋭く誰何する百へ、
にわかに雨勢強まり、雷鳴がとどろく。
あたりを照らし出した雷光で、百は周囲に立つ六人の曲者を見てとっていた。
再度槍が突き出されると同時、刀がひらめく。
斬り飛ばされた穂先が、百の足元に突き立った。
六人とも、黒い覆面に黒装束。五人は手に手に白刃をひっさげ、槍を手にしていた曲者も、もはやただの棒きれと化した槍を捨て、ぎらりと太刀を抜き放った。
(こいつ、つかうな……)
雨が全身を濡らし、左肩から流れる血が、百の着物を赤く染めていく。
大勢を向こうに回して戦う場合、広い場所ではなく、一度に斬りかかられぬよう、狭い場所に入って一人ひとりを相手にするのが定石である。しかしあたりにちょうどいい場所はない。家に逃げこむこともできない。
太刀をかまえ、百は口の端をつりあげた。笑っていられるほど余裕がある状況ではないが、笑えば精神にもゆとりがでてくる。
左右から飛びかかってきた二人を瞬く間に斬り倒し、即座に身を転じて横からの突きをかわす。
そのまま相手と向かい合い、下から刀をはねあげる。太刀の切っ先が、曲者の横面をざっくり斬った。
しかし、怯んだ相手を斬りつけたとき、左側面にまわりこんだ曲者の、意外に鋭い太刀筋が百の横腹を裂いた。
肩からの出血もあり、その衝撃でよろめいたところに重ねて、足元のぬかるみに草履が大きく滑った。
(あ……)
耐えきれず、泥濘に膝をつく。
すでに百の首を取ったものと合点して、曲者が刀をふりあげる。
(これまでか……)
そう思った瞬間、空を飛んできた脇差が、曲者の背に深々と突き立った。
絶叫をあげた曲者が、泥の中へ倒れ伏す。
その場の全員がぎょっとなったところへ、三つの影が走りこんできた。
「うぬ、何者!」
「構うな、斬れ!」
四方から飛ぶ声に耳を貸さず、影のひとつが襲いかかってきた別の一人を手もなく斬り捨てる。その姿が、また走った稲光の中に浮かび上がる。
「女一人に大の男が大勢とはな。貴様ら、今度は俺が相手だ。死にたいやつからかかってこい!」
呆然としている百を背にかばい、相馬巽が声をあげる。
「百殿、しっかり!」
竜胆隼斗が声をかけ、ふらりとなった百を支える。
そこへ真っ向から刃を打ちこんできた一人の胴を、飛びこんだ磯崎和馬が斬り払った。
同時に相馬巽も最後の一人を斬り倒し、血を払って刀をおさめていた。
「百、大丈夫か?」
「不覚をとりました。しかし、何ゆえ――」
「妙に胸騒ぎがしたんでな。詳しい話は後だ、代われ、隼斗」
青い顔で百の傷の血止めをしている隼斗を見、巽が手当を代わる。
その横で、曲者どもの覆面を次々と剥いでいた和馬が、そのうちの一人を見てはっと息を呑んだ。
「和馬?」
「こいつは……」
それは百を槍で突き、脇差が背に突き刺さって落命した男で、他は明らかに無頼とわかる風体だったのだが、この男だけはきちんと髷を結い、他の曲者とは雰囲気が違っていた。
血止めが終わった百と相馬巽もその顔をあらため、
(この顔、どこかで……?)
「うん? ……こいつ、山本俊介じゃないか?」
首をかしげる百の横で、巽が声をあげる。
「あ、言われてみれば……」
山本俊介は、以前大槻道場に稽古に来ていた男である。若党として磯崎家に奉公していたが、ちょうど百が始末屋として独り立ちする年に、彼も皇領の外れ、大恵村の別邸に詰めることになり、それから顔を見ることもなくなっていた。
そのころには、道場でも百を女だからと陰口を叩くような門人はほとんどいなくなっていたのだが、山本俊介はその例外といえる数少ない門人の一人だった。
それから、百は医者の手当を受け、報せを聞いて駆けつけてきた胡堂から、巽らとともにひと通りの詮議を受ける。
「この者らに見覚えは?」
「ございません」
きっぱりと言いきった百に、胡堂もそれ以上追及せず、他の三人からも型どおりの聞き取りをし、
「何かあればまた聞きに来る」
そう言って奉行所に戻っていった。
その後、ようやく落ち着いてから、
「しかし、皆様、何ゆえここまで来られました?」
寝間に敷かれた布団に横になった百が訊ねると、巽は肩をすくめた。
「さっきも言ったが、稽古が終わってから、どうも虫の知らせと言うのか、胸騒ぎがしてな。お前か要に何かあったのかと様子を見に来たら、お前が囲まれているわ、今にも首が飛ばされそうだわで、思わず脇差を投げつけたわけだ」
「そうでしたか……。ところで竜胆様は大丈夫ですか?」
「面目ない……」
ようやく少し顔色が戻った隼斗が短く答える。幼いころから剣術修行を続けている彼ではあるが、実のところ、隼斗は血が大の苦手なのである。
「しかし、こちらに襲撃があったということは……要様はご無事でしょうか」
はたと思い至り、起き上がろうとした百を巽が止める。
「落ちつけ。今は特に何も感じないし、そもそも剣術であいつにかなうやつはそういやしない。お前が今動くことのほうが危ないんだから、今夜は大人しく寝ていろ」
兄弟子から少しばかり厳しく言われ、百は渋々と言った様子で横になった。
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