四、上六町の祈祷師のこと

 翌朝、早くから出かけていた百が、一人で西澤淵に戻ってくると、ちょうど彼女を訪ねてきたらしい胡堂が立ち去ろうとするところへ行きあった。

「失礼しました。所用で出ていたものですから。何か御用でしたか?」

「うむ。急なことで悪いが、奉行所まで来てくれないか。長谷部様が、お前の意見を聞きたいのだそうだ」

 何事かと首をかしげつつ、出かけられる格好であったので、百はすぐに胡堂とともに保利町の奉行所へ向かった。

 そこで、百が長谷部平内から聞いた話はこうであった。

 一昨日、上六町に住むおゆいという女が、自分の家で死んでいるのが見つかった。

 死体を見つけたのは、通いの小女のおよしであった。いつもどおりに通ってきたこの小女は、おゆいの死体を見て悲鳴をあげて卒倒したという。

 その悲鳴を聞いて集まってきた近所のひとびとも、あるいはお由と同様に悲鳴をあげ、あるいは腰を抜かし、嘔吐する者まで出る有様だった。

 おゆいは脳天から股まで幹竹割りにされ、血塗れの死顔は憎悪に歪んでいた。一体何があれば、ひとはこれほどの憎しみを抱くのかと思われるほどに鬼気迫る顔だった。

 お由の悲鳴を聞きつけ、惨状を目のあたりにした蘇芳がすぐさま奉行所に届け、役人たちもまもなく出張った。

 これまで惨たらしい死体を幾度も見たであろう熟練の与力、同心さえおゆいの死骸には思わず目を背け、若い同心の中には耐えきれずに家を飛びだした者もいたという。

 どう見ても変死であるので、すぐに探索がはじめられたことは言うまでもない。

 おゆいという女は、加持祈祷で生計を立てていたらしい。それがよく効くと評判で、上六町やその近隣だけでなく、皇領から訪ねてくる者もいたという。祈祷料も相応に取っており、暮らしぶりも悪くなかったようだ。

 それゆえはじめは、おゆいは不運にも凶賊の手にかかったものと思われていた。

「だが、家にあった金も、その他金になるような物にも手がつけられていなかったのだ。戸締まりもされていたと言うし、部屋に争った跡もない。それに、おゆいの家の中に瘴気が漂っていると言う者もいてな。妖にでも襲われたのではないかと言うのだが、いくら妖でも、後に何も残さずひとを殺すことなどできぬと思うのだが……。そこでお主の意見を聞きたいと思ってな」

「そうですね……。確かに、妖の中にはひとを襲うものもいますが、実のところ、往来を歩いているならまだしも、家に押しこんでくるような妖は……いない、と断言はできませんが、まあ、聞かない話です。むしろ……」

 眉を寄せ、言いよどんだ百へ、平内が先を促す。

「確信の持てることではありませんので……」

「かまわぬ。話してくれ」

「……呪術において、打った呪詛が呪者へと返る『かやりの風』というものがございます。このとき返った呪詛は、呪者を死に至らしめるのだそうで、そのおゆいという女性にょしょうが妖に殺されたのではないならば、おそらくこの『返りの風』によるものではないか、と思ったのです。そうでなければ、加持祈祷をする場所で瘴気が見られることの説明がつきません」

「ふむ、つまりおゆいは祈祷のほかに、厭魅もしていたかもしれぬということか」

「あくまで私の推測ですが。……長谷部様。そのおゆいの家を私にも見分させていただけませんか。始末屋として、気にかかる話ではありますので」

 そう願い出てみると、許可はすぐにおりた。

 若い同心・田中裕二郎の案内で上六町に向かう。

「あまり思いあがるなよ、始末屋」

 道中、じろりと百を睨んだ裕二郎が、不意に、噛みつくように言い放った。

「何のことです?」

「始末屋風情が、出しゃばるなと言うのだ」

「別に、出しゃばるつもりはございませんよ。しかし妖が絡んでいる可能性があるなら、始末屋として確かめておく必要がありますので」

 裕二郎を横目で見やり、百が淡々と答える。

 こうしたあつかいは、それほど珍しいことではない。

 始末屋というものは、身分の外にある。ひとでないものと相対するときに、身分に縛られて動けぬことのないように、というのがその建前である。しかしその建前ゆえに、身分にこだわる者からは、始末屋は一段劣った存在と見られていた。

 加えて、役人や町々の御用聞きには、始末屋に反感を持つ者もいる。百は専ら妖を相手にすることが多いのだが、始末屋の中には、呪術師やその他怪しげな術でひとびとを害する人間を主に相手にする者もいる。そしてこの場合、捕方と目をつけている相手が重なることもあり、結果的に手柄を争うことになり、従って双方反感を持ちやすい。

 もっとも、百もそれは先刻承知である。そうでなければ始末屋にはなっていない。

 おゆいの家は、もとは妾宅であったのだろう一軒家だった。他の町家などからは離れており、周囲を背の高い生垣で囲まれている。

 玄関に続いて四畳間、その奥に六畳間。その部屋には祭壇が据えられている。祭壇も畳も海老茶色に染まっていた。

 ここで惨劇が起こったことは明らかだったが、室内は――血塗れであること以外は――特におかしなところは見当たらない。

 祭壇がある六畳間の奥には建て増しされたと思しい六畳の一間があり、そこがおゆいの寝間だったらしい。片隅に布団が畳まれ、そばには桐の箪笥と大きな姿見。部屋の手前には文机があり、写経でもしていたのか、経文の書かれた半紙が広げられたままになっている。

 裕二郎にことわって――案の定嫌な顔をされた――文机の引き出しを開けてみると、帳簿がしまわれていた。見てみるとそれは出納帳で、内容も怪しむべきところはない。

 一度深呼吸をして、百は左目の革眼帯を外した。

 長谷部平内から話を聞いていたとはいえ、それでも左目に映ったものに、百は思わず声を立てそうになり、すんでのところで呑みこんだ。裕二郎の冷ややかな視線を感じたためである。

 家中に瘴気が漂っている。濃いものではないが、敏感な者なら悪寒を覚えるだろう。

「いいかげん、気は済んだか?」

 戸口から、裕二郎の不機嫌な声が飛んでくる。

「ええ、お手数をおかけしました」

 裕二郎に軽く頭を下げ、彼と別れた百は、その足で上六町の長屋を訪ねた。

 この長屋には、百の妹の蘇芳が住んでいる。とはいえ今は留守のようで、家には誰もいなかった。

 蘇芳は普段、小間物を入れた箱を背負い、町中を行商して歩いている。そうして町でささやかれる噂を集めたり、手配人を捜したりするのが蘇芳の主な役割だった。

 百も、半ば駄目元で訪ねてみただけだったので、がっかりすることもなく帰ろうとした。

「あら、蘇芳さん……のお姉さん。蘇芳さんなら夕方まで帰ってきませんよ」

 隣家の女房がひょいと顔を出す。

「どうも、いつも妹がお世話になっています。このごろなんだか怖いことがあったと聞いたので、少し気になって」

 そうそう、と女房が顔をしかめる。

「あんなにいい人が、あんな惨い死に方をするなんて……物騒な世の中になったもんだよ」

 おゆいのような祈祷師は、近所との関わりを持たないものと思っていた百は、この言葉を意外に思った。

 聞けば、おゆいはどうやら近所での評判は良かったらしい。慶事であれ弔事であれ、すぐに駆けつけて手際よく手伝いをするし、町の者の相談にもよく乗っていた。日ごろの態度も愛想よく、お高くとまったようなところもなかったという。生業が生業ゆえ、彼女をうさんくさく思う者もいたことはいたが、それも少数であったようだ。

 女房に礼を言って帰途につく。

 その途中、蕎麦屋を見つけた百は、ちょうど昼も近いことだし、ここで昼飯を済ませてしまおうと店に入った。

「しかし惜しいことだ。やっとあのおゆいの尻尾をつかめるかと思った矢先に……」

「馬鹿、大声で言うことじゃねえ」

 頼んだ蕎麦を待っていた百の耳に、そんな会話が飛びこんできた。

 話していたのは町人らしい二人連れで、一人は四十三、四くらいの人間の男、もう一人は三十前後の鬼人の男だった。

 後で知ったことだが、人間のほうは上六町の東隣の竹田町に住む御用聞きの政七、鬼人はその手先の九葉であった。

 おゆいの名を聞いたということもあり、話を聞いてみたかったが、百が話しかける機会をとらえる前に、二人は店を出ていってしまった。

 まもなく運ばれてきた蕎麦をすすりながら、長谷部平内から聞いた話と、おゆいの家で見たもの、そして要の話と先日斬り捨てた怪異を考えあわせる。

 状況から考えて、要に呪詛をかけ、異形の怪異をさしむけたのはおゆいであろう。

 百が斬ったのは怪異であり、おゆい本人ではないが、それでも彼女が命を落としたのは、

かやりの風、だろうな)

 蕎麦をすすりこみながら考えこむ。

 問題は、誰がおゆいに要への呪詛を頼んだのか、ということである。

 磯崎家を訪ね、箱を届けたという下男・惣七に会って問い質すことも考えたが、それは簡単なことではない。

 磯崎家のような武家屋敷への探索というのは、奉行所でさえ何かと面倒な手続きが多いのである。いかに相手が顔見知りとはいえ――顔見知りだからこそ、うかつなことはできない。特に、これは家の存続にも関わることなのだ。

(もう少し、確かな証拠をつかまなくては)

 昼飯のあと、奉行所で平内に報告し、それから百は刈谷村にある維水寺を訪ねた。

 この寺には、今朝から磯崎要が身を寄せている。

 寺の住職。康善は以前、百に依頼をしたことがあり、それ以降、百と康善には親交がある。

 朝、早くに訪ねたことを詫び、

「こちらは私の知り合いなのですが、以前に身体を壊されてしまって、しばらく静養したいとのことで、どうでしょう、お引き受け願えませんでしょうか」

 そう百が頼むと、康善は、

「よろしゅうござる」

 とすぐに承知し、庫裏の一室を貸してくれた。

 百が挨拶に向かうと、康善和尚は

「あの磯崎殿は面白いお方じゃの」

 と上機嫌であった。

 聞けばこの康善和尚、若いときには武術に凝っていたとかで、要と馬が合ったらしい。

 和尚をさばけた面白い人だと思っていたものの、まさかそんな過去があったとはつゆ知らず、百はちょっと目を丸くした。

 その後、要を訪ねると、要もまた機嫌がよかった。そんな要を見て、百も少し頬を緩める。

「どうした?」

「いえ……。要様、ひとつお訊ねしたいのですが、おゆいという女にお心あたりはございませんか?」

「おゆい?」

 しばらく考えていた要が、ああ、と何かを思い出した様子で呟いた。

「昔、屋敷にそんな名前の女中がいたな。確か、あの隠居付きの女中だったか……。だがもうとっくに暇をとっているぞ」

「左様でしたか」

「ああ、だが、暇をとってからも節季には顔を見せていたな。あの隠居もずいぶん気に入っていたようだし。しかし、そのおゆいがどうした?」

「実は一昨日、おゆいは上六町の自分の家で、頭から真っ二つに斬られて死んでいたのだそうです」

「頭から? それはまた妙な死様だが……俺の件とどう関わる?」

「はい、実は……」

 いくらかためらって、百は要が家に来た夜、家に現れた異形の女を頭から叩き斬ったことを打ち明けた。

 百の話を聞くうちに、要は口元を手で隠し、小さく肩を震わせていた――笑っていた。普段はほとんど表情を動かさず、笑うとしてもたいていは口元を歪めるだけの要が、ここまで感情を外にあらわすことはかなり珍しい。

「要様」

「いや……悪い。化生に出会って怖がりもせず、真っ向から斬り捨てるような女はお前くらいじゃないかと……」

 ようやく笑いおさめ、要は思い出したように口を開いた。

「思い出したんだが、そのおゆいという女、上六町に住んでいたのだったな。俺の知っているおゆいも、上六町に住んでいたはずだ。それと……箱を持ってきた惣七、あれはおゆいの叔父だ。ああ、そうだ、おゆいは叔父の世話で屋敷に奉公にあがったと、いつかそう聞いたことがある。叔父と姪の関係なら、箱を託すのも容易いだろう。そうなると……絡んでいたのは、そのおゆいか」

「おそらくは。状況証拠しかないのが歯痒いですが」

「しかしほぼ間違いはないだろう。百、充分気を付けろよ。どうも胸騒ぎがするからな」

 真剣な顔に、百もはい、とうなずきかえした。



 その日の夕刻、百の家を小間物売りの姿の蘇芳が訪れた。どうやら隣家の女房から百のことを聞いたらしい。

「姉さん、何かあって?」

 不安と不審が混ざった顔で、開口一番蘇芳がそう問いかける。百はそれに対し、にこりと笑って何でもないような調子で答えた。

「いや、なんだかおかしなことがあったと聞いたからね。あんたはなんともなかった?」

「ええ、そのせいで忙しくはなってるけど」

「それで、ちょっと聞きたいんだけど、あんた殺されたおゆいさんって人をよく知ってた?」

 茶を淹れながらの百の問いに、蘇芳はすぐには答えず、しばらく言葉を探していたようだった。

「そんなに親しいわけじゃないけど、まあ顔見知りではあったわね。おゆいさんは、そうね……悪い人じゃないと思うんだけど、私はちょっと苦手だった」

「苦手?」

「うん、何と言うか……あの人、嫌な感じがすることがあって。最近でも二週間くらい前から何だか嫌な感じで、こう、なんとなく気味が悪いような」

「二週間前、ね……。そのころに、何か変わったことはなかった?」

「別に見張ってるわけじゃないから……。あ、でもちょうどそのころに、見慣れない人がおゆいさんを訪ねてきたのは見かけたわね。なんでもおゆいさんの叔父さんって話だったけど、本当かどうか……」

 聞いてみると、その客はどうやらどこかの奉公人らしい姿をしていたという。二週間前――要が箱を預かったのもそのころだと聞いている。

(関わりはありそうだけれど)

 帰り際、

「姉さん、気を付けてよ」

「あんたもね」

 そう言葉を交わし、百は蘇芳が帰っていくのを見送っていた。

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