第八話の5
イャノバの意識が、どんどん遠くなっていく。レッドカイザーがいくらその名を呼んでも、イャノバは帰ってこない。エーテルが蓋を開けて外へ飛び出そうとしている感覚があった。上位世界へ戻ろうとしているのだ。イャノバの意識がなくなった今、レッドカイザーの自由にできる物質界の器は人形の分しか無い。
ハンバスの近寄る気配があった。光線が背中に突き立てられる。
(まずい、今現界を解こうものなら)
レッドカイザーはなんとかエーテルをつなぎとめ、僅かな時間でも稼ごうとした。イャノバに目を覚まさせ、せめてこの場から離れなければならない。
(待てよ)
レッドカイザーは思い至って、体を動かしてみた。動く。手足を思いのままにできる。イャノバの意識が沈んだ影響かもしれないが、原因の究明をしている場合ではなかった。イャノバの現界が解かれるまで時間がない。
レッドカイザーのしていることは、息を止めながら痛みに耐えているようなものだった。エーテルという空気を肺の外へ逃さないようにしながら、時間に比例して苦痛は増していく。
ハンバスから距離を取ることだけを考えた。背中に光線を照射されながら素早く寝返りをうって立ち上がり、神獣に向かって走った。ハンバスはこれに光線を放ち、アキノバは不自然なほど遠くへ吹き飛ばされる。そして次射を撃たれる前に、その巨体は樹海へと沈んで消えた。
意識の波打ち際で、イャノバが聞いたのは海の音ではなく雨の音だった。いっそ無音にも思え、不気味な静けさの中で自分がただここに要ると知らしめてくれるものは、その体の寒さと全身に打ち付ける無数の水滴だけだった。
においがあった。森の、深い緑のにおいだったが、イャノバの知らないにおいだった。背中が熱を持っていて、常に何かに擦られている感触があった。冷えた体で、背中だけがひりひりと熱を持っていた。
イャノバがまぶたを痙攣させながら開くと、一番にその顔を覗き込んだものがいた。
「イャノバ? イャノバ! エンタリ、家父にイャノバが起きたと伝えて!」
イャノバはウタカの名を短く口にした。反射や白昼夢のようなおぼろげで掠れた発音を、ウタカは聞き逃さなかった。
イャノバは大きな葉に乗せられて、引きずるように移動させられていた。ウタカは慣れた歩調でイャノバの顔を覗き込んで、容態に異変がないかを汲み取ろうとしていた。それから、ウタカはため息をつき、歩きながらイャノバに説明した。
「本当は少し止まってあなたを癒やしてあげたいんだけど、今は里の人全員が動いてるからそうはいかないの。怪我はないから、もう少し横になってたら歩けるようになるはず。ここまでずっとオルカムが引っ張ってくれたの。オルカム、あともう少しだけお願いね」
「ははっ、いいさ、いいさ」
イャノバの目はうつろに天を見ていた。ウタカの言葉はなんでか頭が拒否したがったが、里のみんなが移動していると聞いて少しずつ意識の封が剥がれていく。開いた目に雨粒が一つ落ちて、目尻からこぼれた。
「里は……」
イャノバはそれを聞くのを恐れた。いっそ永遠に口にしたくないとすら思っていたが、ついに聞かずにはいられなかった。イャノバは里を守る戦士で、そのために戦ってきたからだ。ウタカはそれを聞いて、わずかに目を伏てから言った。
「切り刻まれた。光が降ってきて、森を穿ってしまったの。家が二つなくなった。それ以上神獣が里をめちゃくちゃにしてしまう前に、里長は家父に逃避命令を出したの。本当は海に逃げるのが一番だったけど、昨日は嵐だったでしょう。だから、森の奥の方へみんなで動いてる。他の里の領域に触れないよう、注意しながら」
この広大な樹海の一体どこに、いくつの里があるかは誰も知らない。里の北の方には少なくとも一つ、在り処の分かっている里があるが、そこと浜の里は長いこと争い合っている関係にある。里の東には海が広がっていて、神獣は南にいるのだから、この民団は西へ向かっていることになった。全く未知の世界だが、生き延びる唯一の選択だった。
イャノバは呆然と聞きながら、自分が育った“家”とそこにある屋敷、たまに行った浜辺の“家”から臨んだ海を思い浮かべた。そこに神獣の威容が暗い影を落とし、稲妻のような光を瞬かせてすべてが燃え上がる。神獣にもはや立ち向かうものはいない。
イャノバは自分の体をまさぐって、ウタカに聞いた。
「アキノバは……そうだ、おれはどうして無事なんだ」
「あなたのことはかれが守ってくださったの。あなたたちが負けてしまったのを見て、あたし、とても恐ろしかった。でも、かれはひとりで巨人に変わって、神獣の見ている前であなたをあたしたちの元へ運んでくれたの。その後、また大きな戦いが始まった……ひどく一方的な戦いだったけど、もしかしたら、今もまだ戦いは続いているのかも知れない」
その話はイャノバにとって衝撃的なことの連続だった。イャノバは負けたのだと、ウタカにはっきりそう言われたことがまず悔しかった。アキノバはそんなイャノバを置いてひとりで戦っているのだ。イャノバは神獣に受けた攻撃を思い出した。熱く、痛い。あまりの威力に鞭に打たれたときのように体が硬直し、戦場で立ち直るのに必死になって、ついには頭が働かなくなってしまった。イャノバが神獣と相対したのはわずかな時間のはずだったが、アキノバは昨日からずっと戦い続けているかも知れないとウタカは言うのだ。
負けたのは、おれのせいか。
おれが負けたせいで、里のみんなは雨に打たれながらこんな知らない森の中を歩くはめになっているのか。
おれがやらなければいけなかったことのはずなのに、逃げ出してしまったから。
イャノバは肘をついて起き上がろうとした。体が石のようで、呻き声を上げても上体すらまともに起こせなかった。
「イャノバ、だめ。回復するまでじっとしていて」
「でも、おれがやらなくちゃ……! アキノバはきっとおれを待ってる。おれが神獣を倒せば、みんなは里へ帰れる!」
それもこれも全部、おれが負けてしまったから。イャノバがそう言うのを、ウタカは許さなかった。
「だめ。イャノバ、あなたはしっかり休んで、あたしたちを守らなきゃいけない。いつ危険な猛鷲や他の里の人が飛び出してくるか分からないんだから」
イャノバは歯を食いしばって起きようとしたが、体が言うことを聞かなかった。濡れた葉の表面に肘を滑らせて肩から上体を落とす。彼を運ぶオルカムが「あまり動くなよぉ」とのんびりした調子で言った。イャノバは自分の手を見て、震えているのに気がついた。分厚い葉を越して、石や木の根が体をごつごつと叩く。
イャノバは大きく息を漏らして、手で目元を覆った。
「……ウボクたちは」
もう神獣と戦えないと知ったイャノバは、アキノバの体で戦いながら見てしまった光景を精算したがった。林冠を抜けて、あるいは溜まった水に枝葉がしなり落ちてくる水滴が、容赦なくイャノバを打った。
ウタカはしばらく何も言わなかった。前の集団が踏んでぬかるんだ土面に一瞬足を取られたが、踏みとどまった。そしてすぐにイャノバに追いついて、目を合わせないまま雨音に消えるような声で言った。
「死んだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます