第2章 血流

 渕山美化の朝は「ドヴォルザーク交響曲第9番『新世界より』第4楽章の旋律と共に始まる。


 時刻は6時。


 スマホから流れるドヴォルザークは普段より長めに鳴って……止まった。


 なかなかベッドから起き上がれない。気合いを入れて起きてみる。


 睡眠不足特有の気だるさが美化を襲う。


「きもちわる……」


 昨晩はレアレトロゲーム『残酷のネル・フィード』を深夜の3時までプレイし、その後、興奮した脳みそを睡眠にいざなうまでに1時間を要した。


つまり、2時間しか寝ていない事となる。


 とりあえず、冷たい水で洗顔をして、顔面の気だるさだけでも取ろうと洗面所へ向かう。



 ひどい顔が鏡に映った。


「ひぇ〜えへへっ!」


 驚きと笑いが混じった声が出てしまった。


 バッシャ、バッシャと、それもまたダルそうに洗顔を終えると部屋に戻り、テーブルの上のルービックキューブを手に取る。


 カシャ、カシャカシャ、カシャ。


 6面揃えるのに3分以上かかった。


「はっ……」


 呆れて声が出た。


 そしてキューブをそのまま元のテーブルの上に戻した。


「あっ、歯磨いてなかた……」


 また洗面所に向かう。歯ブラシに歯磨き粉をいつもの倍以上出してしまったが、そのまま口に突っ込んで歯を磨く。


 シャカシャカ、シャカ……


 暫くするとその手が止まり、1分程、美化は立ったまま寝た。


「うおっとぉ……!」


 さすがにそれには自分でもびっくりした。


 歯磨きを終え部屋に戻る。


 将棋盤の上にかかったディープマリンブルーのスカーフを片手でスッと取り、将棋盤を部屋のやや中心に移動させる。


 盤の上には昨日使わなかった駒たちが、そのまま並んでいる。


「う〜ん……あたいを許してね。残酷のネル・フィードをクリアするまで待ってておくれ」


 そう小さく呟いて、もう1回将棋盤を部屋の片隅に戻してスカーフをかけた。


 そしてテレビをつけ、情報番組を聞きながら……美化はベッドに潜り……


 寝た。




 いつもの時間を30分過ぎても降りてこない美化を心配した祖母が様子を見にきた。


「美化、大丈夫なの? 起きなくてもいいの?」


「…………起きる」


 そう答えた瞬間、美化は昨日お風呂に入ってなかった事を思い出した。


「やばっ! シャワー浴びるっ!!」


 美化は慌ててベッドから飛び出し、階段を降りていった。


 祖母が美化の部屋をぐるりと見回す。


「これね」


 祖母の視線がZERO WORLDとそれにささった赤い残酷のネル・フィードのカセットで止まった。


「そんなに面白いんなら今度私もやらせてもらおうかしら」


 祖母もちょっとだけゲームに興味が湧いたみたいだった。


 美化がシャワーから出ると、仕事が休みの母が起きていた。


「おはよう、まみー」


「おはよう、美化。遅くまでゲームやってた顔だね、そりゃあ」


「やっちったよ。……それより腰の具合はどうなの?」


「昨日よりはマシだよ。なんとか整骨院行けそうだよ。はりもやってもらおうかな」


「はり? 痛そ……」


 そう言いながら美化は祖母の作ってくれた朝ご飯に手をつけた。


(今朝の味噌汁は……玉ねぎとじゃがいもか。おいしいけど冷めちゃったな)


 もう、チンしてる暇もないのでそのまま食べた。


 身支度を整え、祖母と母に


「いってきます」


 と言って、美化は慌ただしく出て行った。


「さーて、予約の電話しなきゃ」


 母は今日、休みなので早速教えてもらった整骨院に電話をする事にした。


 その整骨院の名前は


 『あまてらす鍼灸しんきゅう整骨院せいこついん』。


 半年程前に開院したばかりで院長と3人の施術師は男性。受付には女性が2人いるらしい。


 評判はすこぶる良いらしく、母も長年の腰痛をなんとかしたかったので期待していた。


「あっ、もしもし、あの〜私、今日初めてそちらにうかがおうと思っているんですけど、予約のほうをお願いしたいのですが……」


 その頃、美化は自転車をこぎながら影山映莉の事を考えていた。


(あいつはこれに懲りずにまた恋をするわけ? どんな気分で学校に行くのさ。まじクラスメイトとかキツいと思うわ。あー、目が半開きだし風が目にしみる! 最悪な気分……)


「影山いないかにゃぁ……」


 影山映莉とは、毎朝特に待ち合わせをしている訳ではない。昨日はたまたま一緒になったのだった。


 昨日より冷たい風が吹いている。


 3つ目の信号の赤で今日も止まった。右を見ると遠くに影山映莉が見えた。向こうも美化に気づいて立ちこぎになった。


「お〜、グッタイミングだったやん」


 影山映莉が笑顔でやって来た。


「おっはよう。みーちゃん。LINE見てくれた?」


「すまん! ゲームに夢中になりすぎて見たのが夜中の3時でさぁ……」


「3時?! こないだ言ってた……残酷のなんとか?」


「そう、昨日来てさ。まじハマっちったよ」


「じゃあ寝不足だね」


「んだね。あはは」


 信号が青に変わった。


 2人ともこの青で渡るつもりはなさそうだ。


「まぁ、私の話は置いといてだ〜。影山君」


「はい……」


「ちみは〜……まだ恋をするつもりかね?」


「たぶん……」


「あたいはね、影山を見てたら恋なんてする気がまったくもってなくなっちゃったわけよ」


「嘘ぉ〜?」


「ほんと。ほんと」


 信号が赤に変わる。


「ちみの恋に対する『積極さ』ってやつを少なからずも見習うべきなのかと心揺らいでいたけども、たいして好きになる人もいないし、できたとしても告白なんて絶対に無理だと思ったね。振られるなんてやっぱりムカつく!」


「……別にムカつかないよ」


 影山映莉が割と無表情で言った。


 今までに見た事のないその顔に、美化は少し驚いたが見惚みとれてしまった。


「でも、みーちゃんが恋をしないって決めたのなら、それはそれでいいと思う!」


 そう言うと影山映莉はいつもの笑顔に戻っていた。


「ああ。私は将棋とキューブとレトロゲームがあればそれでいいのさっ!」


 美化はやっぱり影山映莉の笑顔が落ち着いた。


「でも、みーちゃんはモテると思うんだけどな……」


 ボソっと影山映莉が呟いたその言葉は、2月の冷たい強い風にかき消された。


 そして信号が青に変わった。


「よし! 行くか! でも……ねむっ!」


「みーちゃん、授業中、絶対寝るね」


「あははっ。足ピクだけは気をつけないとなっ! あ〜早く帰って残ネルやりた〜いっ!」


「はいはい。(笑)」













この1人の少女をとりこにする

『残酷のネル・フィード』というレトロゲームが渕山美化の、そして影山映莉の運命の歯車をギシギシと動かし始めたのだった。












「もう4時?……過ぎてる?」


 美化は帰宅してから食事と風呂をサクッと済ませ、あとはずっと残酷のネル・フィードをやっていた。


 物語はすでに終盤にさしかかっており、美化は分かっていても先が気になって、なかなかやめられずにいたのだ。


「今日学校キツかったのに、またやっちゃった……残ネル、恐るべし……」


 美化はセーブして電源を切り、ベッドに飛び込んで寝た。


 さすがに今夜は5秒で夢の中だった。






 そして、2時間後。ドヴォルザークの新世界が部屋に響き渡る。


(あースマホ持って来てなかった……)


 机の上に置いたままのスマホは悪気わるぎなく、ずっと起きられない美化に新世界の調べを奏で続けていた。


 そこそこの音量だったが、今の美化にはそれすらも子守唄と化していた。



 何分経っただろうか……


 部屋に誰かが入ってきたような気配を感じた……瞬間!



ブワサッ!


 自分を包みこんでいた最高で完璧なあったか空間が一瞬で消え、暖房は効いているものの、それまでとは比べものにならないくらい冷たい空気が重だるい体に一気に流れこみ、美化を震えあがらせた。




 母である。




 母が起きてこない美化に腹を立てて

布団をひっぺがえしたのである。


「さみーよー死ぬよー……」


 か細い声で美化は言った。


「あんた、もう7時半だよっ。起きなっ!」


……「休む……」


 美化は怒られるの覚悟で言ってみた。


「はぁ……。まったく。ちゃんと連絡しなさいよ」


 そう言うと母は1階へ降りていった。


 (まじかっ♪)


 美化は少しだけ眠気がとんだ。そして思った。


(あれ? さっき結構勢いよく布団ひっぺがえしたよね? 腰、良くなったのかな……?)


 昨日帰宅してから、その話題をする事なく残ネルタイムに突入してしまった自分を少し恥じた。


 そして、布団を元に戻してまた美化は寝た。







 再び目が開いたのは午前11時を過ぎた頃だった。


 まだ頭はボーっとしている。……というか頭がフラフラする。


「なんだこれ……? めまいがする」


 軽い吐き気もおぼえた。


 今までに経験した事のない感覚に不安を感じた。


「さすがにやりすぎたかぁ……」


 残ネルのBGMが頭の中で鳴っていた。


 1階に降りると今日も休みなのか母がいた。


「学校には連絡しといたよ」


「ありがと、ごめん。……腰、良くなったの?」


 美化がそう聞くと母の表情がとたんに変わった。


「そうなのよっ! 昨日行って帰ってきた時はそんなじゃなかったんだけどさぁ、今朝起きたらなんにも痛くなくなってたのよっ!」


 母はとても嬉しそうな顔で言った。


「そ、そうなんだ……よかったね……てゆうか……自分、今……とても具合が悪く……頭がおかしい……フラフラする……めまいがする……病院行きたい……」


「えぇぇえっ!?」


 いつもの美化との違いにただ事ではないとすぐに感じた母は、美化を自分が定期的に腰を診てもらっているペインクリニックへ連れて行く事にした。


「もうっ! ゲームのしすぎで具合が悪くなるなんて恥ずかしいったらありゃしないよっ!」


「右に……同じだよぉ……」


 美化は力なく母に同意した。












 今、美化にはめまいが良くなる点滴がされている。


 午前中の受付ギリギリに滑り込んだ為、ベッドのカーテン越しに母が看護師に謝っている声が聞こえた。


「すみませんホントに……」


「いいえ〜大丈夫ですよ」


 美化は無事に治る事を祈りながら再び眠った。






「はい、点滴終わりますね〜」


 看護師のその言葉で目を覚ました。


 30分ぐらい爆睡していた。


「ありがと、ござ、いま、す……」

(あれ? なんか呂律ろれつが回りにくいぞ……これって脳がヤバいんじゃ……!)


 ただの寝不足の症状に美化は勝手にビビってしまっていた。


 ベッドから降りて診察室へ向かって歩くと、さっきまでの頭のふらつきは嘘みたいになくなっていた。


(おっ、治ってる! 点滴すご〜! やったぁ〜)


 さっきまでの不安が消えた。そして院長の前の椅子に座り、


「ありがとうございました。だいぶいいです」


 美化が頭を下げてそう言うと、院長はしかめっ面で切り出した。


「う〜んとねぇ……ちょっと後ろを向いてくれる?」


「あっ、はい……」

(えっ? なに? どゆこと? よくないの?)


 美化はまた不安になりつつ後ろを向いた。院長が美化の肩を親指で押した。


「いったぁいっ! いてててっ……」


 あまりの痛さに声が出た。


 看護師が笑顔で見ている。


「こういう事なんだよ」


「えっ……?」


「君の肩と首、あと肩甲骨まわり。筋肉がり固まっているんだよ。そのせいで脳への血流も、もちろん悪くなってる。だから頭がフラフラしてめまいが起きたんだよ。お母さんから話は聞いたけど、ここんとこ夜中までゲームを続けざまにやってるみたいだね」


「はい……」


「だいぶ力が入ってしまっていたみたいだね。少し控えて」


「はい……」


「で、今点滴してめまいはだいぶ落ち着いたとは思うけど、この凝りを取らないとまたなるからね」


「そ、そうなんですか……」


 美化はガクっときた。


(あとちょっとで残ネルをクリアできるとこまで来てるのにっ! ちくそー!)


 すると側にいた母が院長に尋ねた。


「整骨院なんかで診てもらったらよろしいでしょうか?」


「あっ、そうですね。この凝りを取ってもらえばめまいの症状もなくなると思いますので、行って診てもらって下さい」


「分かりました。ありがとうございました。ホントにギリギリですみませんでした〜」


(まみー、私を例の整骨院に連れてく気だな。まぁ、残ネルのエンディングも早くみたいし……仕方ないっすな)


「じゃあ、一旦帰るよ」


「はぁ〜い」


 そして母は車に乗るとスマホを取り出し、電話をし始めた。


「あっ、こんにちは〜。先日診て頂いた渕山です〜。今日なんですけど、娘を診て頂きたくてですね、はい。予約をお願いしたいのですが、はい。午後の3時とか4時とか……ええ。そのへんでいてます?」


 結局美化は、3時30分の予約で整骨院に行く事になった。



帰宅し、

少し遅めの

昼食をとりながら

整骨院について

母に聞いてみた。


「まみーは院長に診てもらったの?」


「違ったよ。院長は指名してる人が多いみたいでね。受付に予約表があったけど、院長はほぼ全部の時間が埋まってたね。電話で予約はできるみたいだけど、それだと指名はできないんだって。指名するには1回整骨院に行って直接、予約表の希望時間の枠に、自分の名前と指名する先生の名前を書かなきゃいけないんだって」


「そりゃ、面倒だね」


「だから、だいたいの人は電話で予約してるみたい。先生は誰になるか分からないけど」


「結局まみーは何先生に当たったわけ?」


「え〜と、佐藤先生!マジでイケメンだったわぁ♡」


「イケメンで、神の手の持ち主かぁ。へぇ。さぁて、私は誰に当たるのかなぁ〜。誰でもいいからサクッと治してちょうだいよ〜!」



まさか

その整骨院に……



運命の出会いが

待ち受けているとは……

この時の美化は

まーったく

考えてもいなかった。

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