第5話 濡れタオルの約束
手すりを伝って上る彼女はそっと床に足を揃える。
タイルに湿った足跡を付けて、無言で彼女は歩いてこちらへとやってくる。
聞きたいことは色々あるが、開口一番に聞こうと思った言葉を差し向けた。
「……君が、水野瑞帆でいいんだな? 水色の君」
唐突に彼女は、自分の後ろ首を何かいじるそぶりを見せる。
プールキャップから彼女の髪の毛が少し見えたと思うとゆっくりとキャップを外して彼女の流れる黒髪が一本一本艶やかに映った。
伏せられた目から零れる水滴から覗く、澄んだ青の瞳は俺を捕らえる。
「……人魚姫、とは呼ばれたことがあっても水色の君なんて純文学の表現にでも出てきそうなキザな言い回しね」
ペタペタと静かに室内に響く足音。
今はタップダンスの靴音よりも、緊張感があった。
「……てっきり、最初の登校の時に会いに来てくれると思ってたんだが」
「それに関しては私も悪いわ、ごめんなさい」
「謝罪は別にいいんだ。理由、聞いてもいいか」
自分が抱いた疑念をはっきり口にすると彼女は間を置いてから答える。
「…………放課後に会いたかったのよ」
「別に問題はなかったんじゃないか?」
「貴方は敬語口調じゃない私を知っているだけじゃなく、私の秘密も知っているのに?」
波留人の胸元に人差し指を差しながら上目遣いで睨んでくる瑞帆。
つまり、つい口を滑らせてしまったらを
彼女の判断は確かに正しいのかもしれない。つまり、夏の時期の今、中学時代に水泳部をしていたから気まぐれで水泳部のプールに来るのは違和感がない、もしくは入ろうと思って部活をしている生徒に声をかけるのもおかしくはない……と言う意味か。
見ただけだったら噂の人物かどうかは合点がいくと限らない。確かに俺が動かなくては彼女に対し他の生徒に疑念を抱かれる可能性もあったろう。
それを回避するための策だった、だから彼女は放課後に会うことにしようと考えたってところか。
「……だからか」
「ええ、そうよ。今日の朝にもし待っていたら、校内で会話を一回もしてない私たちが他の人には奇異の目で向けられるでしょう? ……自然に会話をするなら、貴方がここに来てもらうしかなかったの。海上の人魚姫が気になってプールに来たって結果論がね」
水野の意見ももっともだ。
通り名もある彼女には、ファンクラブもいることは容易に想定できる。
……彼らに敵視されないために、先輩である俺が久しぶりに水泳部に訪れた、体がほしかった……て当たりか。
「それとこれだけは、どうしても聞きたいの」
「なんだ?」
「貴方の名前、
「そうだが……? なぜ、知ってるんだ?」
「幼少期から水泳部に所属していたから貴方の噂は聞き及んでいたわ。貴方の外見を見た時、絶対そうかという確信が持てなかっただけよ」
「……俺のこと、どこまで知ってるんだ?」
「私と共犯者になってくれるなら、考えてあげる」
「共犯者? なんで、」
「……要するに、こういうことよ」
「な、何っ……!?」
水野に俺の左手を掴まれ、彼女自身の胸に触らせられた。
「貴方と恋人になる代わりに私の秘密は誰にも言わないでくれる?」
「なん、で、そうなる!?」
濡れた体、火照った頬。思春期には強烈な刺激だ。
後輩と言えど、色気が出ている気がする。
波留人は一瞬脳の思考回路が渋滞していたが、二、三秒ですぐに冷静になる。普通、殺されたくなければ秘密を守れ、という脅しなら定番だろうに。
水野が俺の恋人になるのは、どちらかと言えば俺の方に利があるように見受けられてしまうのだが。いいや、変な意味じゃなく。決して変な他意もない!! 女子がかっこいい美男子に憧れるように、男子も美少女に憧れることもあると言うか、いいや俺も頭が混乱してる。
っていうか、混乱しない馬鹿がいるか!? ここで!!
「……死にたくないのなら、はいと頷きなさい。青崎波留人」
「こい、びとにならなくても、俺は君のヒミツを話さない……っ、自分の気持ちも恋心も、自分の体だって大事にしろっ、こんな奴にそんなものかけなくていい!」
「なら、他の細かい話は別の時に。本格的な話は、ここではできないから」
「……あ、あぁ。わかった」
俺よりも頭が回るんだなと感嘆すると、そんなことないわ、と彼女は軽やかに流した。
「それにしても、暑いな」
屋内プールで制服でいるからか、それとも炎天下の太陽の紫外線がわずかに窓から差し込んでくるせいなのか。
俺は襟元を掴んで風を入れると、彼女は急に顔を両手で隠してから慌てるように後ろに向いた。
急な彼女の行動に、俺は一旦体に風を送るのをやめた。
「……どうした?」
「な、なんでもないわ」
彼女はこちらを振り向て、俺が言おうと思っていたことを先に言われてしまった。優等生だからか、勘も鋭いんだな。
「ああ、悪い。わざとじゃないんだ。女の子の物をじろじろ見るのはいけないのは爺ちゃんから教えられたんだが……ごめん」
「い、いいえ、気にしないで」
「ああ、それから水野さんって呼んでもいいか?」
「水野、でいいわ。私もその……青崎くんと呼んでもいいかしら」
「ああ、構わない。これからよろしく頼む。水野」
「……ええ」
水野は濡れた髪の水滴を頬に伝わせながら、そっと微笑む。
……水に滴るいい女、とはよく言ったものだ。
「……それより、暑いんでしょう? タオルとかで体を少し拭いたらいいんじゃないかしら。濡れタオルで体を拭くと涼しくなりやすいのだけど」
「さすがに部員でもないのにプールのシャワー室とか使う気にはなれない、親友も待ってるしな……今日は妹とプールに行く予定はなかったから、タオルは持ってきてないぞ」
「じゃあ私の予備のタオルがあるから、私がシャワー室で濡らしてくるわ。さっと体を拭くくらいは問題ないと思う」
「悪い、頼んでもいいか」
「え、ええ。少し待っていて」
彼女はそういうと、着替え室に足早に行ってしまった。
……女の子の前で、制服のシャツのボタンを取ったり、風を体に送る行為は、何か女子にとってはあまりしてはいけないことだったのだろうか。
でも夏だからと言ってしまえば自然な行動だとは思うんだが……うん、見苦しい物を見せてしまったのかもしれない。
確かに、女子はそういうのが機敏だと千種が言っていたはずだ。
それが、今のかまではわからないが、次からは気を付けよう。
「お待たせ――――はい、どうぞ」
「ああ、ありがとう……なんか悪いな」
彼女は、女子側の入り口から片手に濡れたタオルを持ってきてくれた。
水野は俺に濡れタオルを手渡してくれた。
俺はすぐに首周りを拭うと、すぐに拭った部分が冷えていくの感じた。
これなら、千種に会いに行く前にサイダーを買う必要もないな。
「気にしないで、明日にでも返してもらえればいいから」
「ありがとう。助かるよ。水野は将来、気遣い上手ないい奥さんになると思うぞ」
「……からかわないで。それから今日の夜、海上海岸で話をしましょう。学校は人の目があるし、噂好きな子がいたらすぐに広められてしまうわ。ここで話すのは危険よ」
「……わかった、それじゃあ俺はもう帰るな」
「ええ」
俺は必要以上に水野を咎めず、すっと引く。
慎重そうな彼女に、少しの違和感を抱くが表に出さないことにした。
俺は水野に背を向け、中央の入り口である扉を少し開けてから、横目で彼女を見る。
「……水野、今後はお前に会ったから水野って他の奴の前で呼ぶことは問題ないか?」
「? 別にないと思うけど……」
「そっか、よかった。友達にさん付けして呼ぶのは、どうも苦手なんだ」
「……まだ、会ったばかりのようなものよ?」
「お前の秘密を共有してるなら、もう友達でも間違いじゃないだろ? 言えば方便、って奴だ」
「――——貴方、」
「それじゃあな」
俺は水野の言葉を最後まで聞かずに扉を閉める。
本来なら、彼女の言葉を最後まで聞かなくては行かない気がしたが、彼女にかけた言葉が少しだけ恥ずかしくなった自分としては早々に親友の元に向かいたかった、というわけだ。
波留人は一度、プールから出ると、プールよりも暑い日差しが体に当たる。
「……? 千種、いないな」
学校の校門の前で待っているとばかり思っていたのになぜかアイツはいない。俺の親友様はどこにいったんだ?
即座にスマホを取り出して、ラインで千種に尋ねた。
内容はもちろん、今どこにいる? と確認のメッセージである。
「……来ないな、しかたない。探しに行ってやるか」
数分待っても来ないのでグランドの方へと歩みを進める。
グランドには夏の日差しを耐えながら真面目に部活動を行っている陸上部の誰かに千種がいないか確認することにした。
一人の女子が、膝に手をついて呼吸を整えている姿が見える。
汗を流す健康的な肌は健康的で、そのダイレクトなダイナマイトボディを誇る巨乳には、一年生の中でも目立っているのだとかなんとか。
走るのに邪魔にならないようにの配慮なのか、焦げ茶色のショートカットの彼女には見覚えたがあった。
彼女は
「鈴村ー、ちょっといいか?」
「え? ……あ! 青崎先輩! どうしたんですか?」
顔を上げる鈴村は明るい琥珀色の瞳を俺に向ける。
部活で忙しいはずの彼女は、どんな相手にも優しく接するいい子である。
野原の犬姫、という通り名があるのだとか。陸上部だからなのだろうか。犬っぽいから犬姫、というあだ名かもしれないという説が出ているが……まあ、一部では昔の偉人織田信長の妹からも来ているらしい。
まあ、純粋に鈴村は犬っぽくてかわいいとは思う。
恋愛対象的な意味じゃなく彼女の人格を評価してという意味で、だ。
「ああ、千種を探してるんだが、どこにいるか知らないか?」
「千種先輩ならさっき学校の中に戻っていくのを見ましたよー!」
「アイツめ……わかった、ありがとう。部活頑張れよ」
「はい!」
満面の笑みでブイサインする鈴村に軽く手を上げて俺は彼女のいるグランドから去る。千種も千種だ、たぶんトイレとかそんな理由なんだろうけど、とにかく一度学校に戻って、玄関近くのトイレへと歩いた。
扉がないから、普通に親友様がトイレで手を洗っている姿を目撃して、思わずため息が出てくる。
「千種……こんなところにいたのか」
「お、ハルちゃん。どうした?」
「お前が校門の前で待ってるって言ったのに、いなかったから探しに来たんだろ?」
「おー、そっか。悪ぃ、悪ぃ……っとと」
千種は水で洗った手を、シャツで拭きながら慌てて俺のもとまでやってくる。
「よっしゃ! 行こうぜ! 波留人!」
「……ああ、行くか」
飛行機雲が水彩画に見えるあの青空に伸びていくのを見ながら、俺は親友と一緒にゲームセンターまで向かった。
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