第4話 プールへ

 四時限目が終わったお昼休み。

 俺は机に両肘りょうひじをついて頭を押さえた。くぅくぅと腹が空いているのを感じながらも、特別食事をしたい気分になれなかった。


「…………はぁ」


 学校に来て、朝の会が始まる前や休み時間の間に彼女を探したが、全然見つからなかった。「水野瑞帆って人どこにいるか知ってるか?」って誰かに聞こうとすると、必ず邪魔が入る……なぜなのか、俺にもわかっていないが。


「……なんでなんだ?」

「ん? どった、波留人。溜息なんてお前らしくないな」


 親友はちらりと飲み物を飲みながら近づいて来た。

 手のひらサイズのイチゴ牛乳パックのストローから口を離した千種が俺に尋ねる。もう片方の手にはフルーツサンドを握ってこれから食べるところだったのだろう。

 申し訳なさがあったが、いつも変わらないメニューの親友にわざと茶化す。


「お前は今日も変わらずそれだな、女子か?」

「甘い物好きに性別は関係ねーんだよバーカ」

「悪いな。苦手なんだよ、甘いのは」

「はいはいわかってますよーそれくらい」


 苦笑する俺に、千種はへいへいと軽く流した。


「そだ、ハルちゃん今日こそゲーセン行こうぜ? 今日は店員さん情報で、かわいいぬいぐるみが入ってるって言ってたかさー」

「そうだな、どんなのが入ったんだ?」

「イルカのぬいぐるみ、しかもブルー系とピンク系の両方」

「千種は何を取るんだ?」

「男の子が好きな排泄物の形をしたぬいぐるみ」

「お前なぁ」

「ははは、いいだろいいだろぉ?」

「どこがだ……」


 俺の中で一番察しがいい男である千種は話題をわざと変えてくれた。こんな親友を持つことができて嬉しいと思う反面、少し冗談好きなところには困ったものだ。

こんなにも悩んでいる自分に余裕そうに声をかけてくるコイツが羨ましくてたまらない。まあ、こんな状況になることなんてほとんどあり得ないとは思うが。


「なあ、千種」

「ん? 何だ?」

「実は、……」


 一瞬口を開いて、すぐに口をつぐむ。

 千種なら問題ないと思ったが、彼女との約束なのだから守らないといけない。不由美のこともある……ああ、でもこういう言い方をすれば問題はないかもしれない。


「……水野瑞帆みずのみずほって人、知ってるか?」

「珍しいじゃん。お前が女の子のこと気になるなんて。朝から誰か探してんなーって思ったけど、それが理由なのな」


 ……それ? やはり水野瑞帆は同級生じゃない、のか?


「まぁ、ちょっとな」

「もしかして、恋の悩み? お前にもようやく春が来たかハルちゃーん、波留人、だけに春のおとずれってか」

「からかうなよ」

「わりぃわりぃ、確か俺らの後輩で、水泳部のエースだろ?」

「……後輩?」

「おう、海上かいじょうの人魚姫って呼ばれてる。うちではかなりの有名人だぜ。オリンピック選手まっしぐらの期待の新人らしいぞー」


 不由美と一緒にプールにいた時も、夜に出会った時も大人びた印象だったから同級生だとばかり思っていたが、案外予想とは違うものだ。

 愉快そうにからかいにかかる千種は一口イチゴミルクを飲んでから、波留人の質問に答えた。うちの高校の海上を取ったのだろうが、海上の意味は確か水面というのもあったんだったよな……つまり、水面の人魚姫ってことになるか。


「海上の人魚姫、か――——ああ、道理で」


 だからあんなにも泳ぎが綺麗だったわけだ。

 滝から落ちてくる流水の速さのような泳ぎ。インパクトがある泳ぎと精錬された泳ぎっぷりと言う意味を含めて人魚である彼女にはふさわしい異名だ。

 見ている側にとって本当に一瞬で、誰から見てもあの泳ぎはエースを張るだろう。それは人魚だからという理由付けは千種たちにはできないがな。


「? お前知り合いなのか?」

「いいや、中学時代での部活の後輩の顔は全部覚えてる。もしいたなら見た目が変わっている可能性があるかもな……幽霊部員までは流石にわからん」

「そうかよ、でな。しかも成績優秀、才色兼備でスポーツ万能ってスリーワードをリアルで獲得してる女子でおまけに金持ちのお嬢様。他の女子からは尊敬されてる優等生だよ、水野瑞帆って女は」

「スリーワード?」

「ほら、よくあるだろ? 優等生とかマドンナによく聞く単語の三つの羅列。そういう意味だよ……まぁ、うちのマドンナは瑠璃川先輩だけどなー」


 瑠璃川先輩、か。

 確か、俺の記憶では海上高等学校のマドンナ、俺が一年生の頃に瑠璃星るりぼし織姫おりひめと呼ばれているらしい話を千種から聞いたっけな……しかも俺のクラスメイトのある生徒が伝空でんくう灰被姫はいかぶりひめと呼ばれている話も、どっかであった気がする。

 誰かまでは覚えていないが。学校の女子に通り名を付ける神経がよくわからん。俺だったら悪くないと思えるが、彼女たちはそうとは限らない。

 まぁ、許可されているならいいのだろうが。だがどことなく悪友の言い回しの中にわずかな棘を感じた波留人は恐る恐る千種に尋ねてみる。


「……千種は嫌いなのか? その、水野さんのこと」

「お前みたいに素直クール系男子ならぬ女子だったらいいなとは思ってるよ……実際は知らねえがな」


 悪友の言葉に少し嫌味がこもっている気がした。

 俺は笑うこともからかうこともせず、そうか、と返事をしてから千種が苛立ってストローを強く吸うのを見てから、ふと湧いた疑問を彼に投げかける。


「ちなみに、素直クールってなんだ」

「クールにスキだよって平気で言えちゃうような属性ってこと」

「属性? 俺、ゲームのキャラじゃないんだぞ?」

「天然と言うキャラでもありましたなー? そこんとこブレないよなぁお前ー」


 俺の肩を大げさに千種は叩く。

 苦笑いを浮かべながらも俺は親友に苦言をていす。


「少しくらい手加減をしろ」

「ごめんごめん。あ、そうそうちなみに聞いた話だと瑞帆嬢は今日部活に出るらしいぞ。昨日は体調が悪かったらしいから休みって聞いてる」

「本当に詳しいな千種は」

「俺の情報網舐めてんのか己は」

「そんなことない。いつもすごいって思ってる、お前が俺の親友でよかったと思ってるよ……ありがとな」


 波留人はいつも無表情の中に口角を小さく上げて笑う。目を見開いて思い溜息を一度吐く千種は重々し気に波留人に聞こえない声で呟いた。

 

「……それが素直クールだっつうの」

「何か言ったか?」

「なんでもねぇよ、バーカ」


 急にイチゴミルクを一気飲みした後に紙パックを握り潰す千種。零れるんじゃないか? と心配したところ、平気だっつーの、と返された。

 ……耳が少し赤くなっているのは照れているからだろうが、そこまで恥ずかしくなる台詞を言った覚えがないので波留人は気にしないことにした。


「とりあえず、まだ昼休みだし腹に入れられる分だけ入れとけよ。腹空かせてたら、妹さん心配させちゃうかもだろ?」

「……それもそうだな」


 千種に言われ、ようやく鞄から自分の弁当箱を取り出す。机に置いて弁当の包みをゆっくり広げて、コバルトブルーの弁当箱の蓋を取る。

 今日も豪勢だなぁ、と呟く親友はあえてスルーする。

 今回のメニューは梅干しおにぎり、コーンサラダ、ミニチーズハンバーグ、漬物、うさぎりんごに水筒に入った麦茶だ。

 おにぎりは弁当箱に入りきらなかったので、包んでおいたアルミホイルを剥がしてから口に頬張る。冷たくなっても甘いおにぎりは腹持ちがいいので中学の頃もよく作っていたっけ。

 うん、今日もほどよく握れてるな。


「なあハルちゃーん、りんごちょーだい」

「いいぞ、今回の情報料だ」

「サンキュー」


 千種は弁当箱からフルーツピックが刺さったうさぎりんごを口に放り込む。

 しゃりしゃりと小気味いい音を鳴らせる親友を見てから俺は食事を本格的に開始した。後は、黒板の上の壁に立てかけられた時計を確認しながら今日の昼食を済ませにかかる。

 親友とのささやかな会話を終わると昼休みも終了した。六時間目が終って放課後になり、上履きを外靴に履き替え玄関を出ると親友が壁にもたれているのを確認して、親友の千種に玄関で待ってもらうことにした。

 グランド近くにあるプールの方へ歩き出す。親友の言っていた情報を信じ、彼女がいるであろう屋内プールの入り口に踏み入った。

 靴と靴下を脱ぎ、玄関の靴箱の中にしまってからガラス扉を通り抜けて、タイルの濡れた感覚が足に伝う。


「…………懐かしいな」


 視界に広がる光景に、俺は苦笑いが零れた。

 高校のプールは授業の時にしか入っていない。それでも市民プールよりも環境がいい学校のプールをしっかり見たのは、中学の時以来だ。

 水飛沫の音が聞こえる。

 息継ぎの音と、水が弾く音がプール内で反響している。

 左側の2番目のレーンに誰かが泳いでいるのが見えた。誰かが泳いでいるのは明白だ、しかしその音が聞こえるのは一つだけ。

 いや一人の人物だけが奏でている音だった。

 壁に手をついて水面から顔を出すと、息継ぎをする少女はこちらを見る。

 水中ゴーグルをそっと外して、彼女は俺を見ながらこう言った。


「……来てくれたのね」


 彼女は、小綺麗な笑みを浮かべていた。

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