10. 労働はホラーのよう ③
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ここ日本国は、思想も言論も職種だって自由だ。金とやる気さえあれば学問に打ち込め、年齢が若ければだいたいどの職にも就ける。生まれてから死ぬまで、全てを自分で決めていくことだって可能だった。
それでもたった3つ、すべての国民に課される義務が存在している。『教育』、『勤労』、『納税』である。大人になれば、これらの義務を果たさなければならない。しかし、俺はそのどれもを果たしていなかった。
確かにニートは義務を果たさずに生きているから、社会的地位も低く誰からも白い目で見られる。和井田さんの言い分ももっともだ。加えて俺は精神的に参っているわけでも、肉体的に働けぬ状態でもなく、働けない特別な事情がない。ただ働きたくないという意思だけでここまできた。それでも反社会的組織よりは世間には迷惑をかけていない、はずだ。
自己を正当化をしながら、庭のベンチに塀を背にして座る。猫背を正そうともせずにテーブルの前に身を乗り出せば、土を弾ませながら大家がやってきた。
「ヨシノから聞いたぞ。おんしがニートなのは知ってるが、一度くらいいいだろう」
「嫌です。僕は1分たりとも働きたくない」
昨日の今日のはずなのに、伊藤さんはもう大家に話しており、事情が知られていた。何を喋ってるんだあの人は。
外壁から埋められようとしている。あれから何度も頼み込んでくる伊藤さんには頑とした態度で断り続けたのに、全く伝わっていないようだった。
「あのな、今はまだいい。でもそのうち、おんしらにもここの手伝いはしてもらうぞ。そんときどうする」
「それは別ですよ。僕が言ってるのは金を得るための労働です」
「はぁ? 何が違うんじゃそれは」
「全然違いますよ!」
生活の手伝いとう労働と社会に属する労働は全然違う。責任、心労、通勤時間、拘束時間、人間関係等、一瞬のうちに展開された別物である理由一覧のおかげで、理論武装で対抗を始める準備は整った。
「例えばそう! 責任とか、労働時間とか、人間関係とか!」
「は、はぁ。でもそういうのは普通我慢してやっとるもんじゃないのか」
出たな、皆我慢してるからお前も我慢して働け理論。よく知りもしない人が、自分基準で働かないニートを攻撃するためのくだらない理論だ。なんと言われようとストレス耐性は人それぞれであり、俺は労働のストレスには耐えられないというのがとっくのとうに出した結論だ。
「我慢できたらニートやってませんよ!」
「ええい偉そうに言うでない! そういうことではない!」
大家の一言に、なんとしても働かないために口調をヒートアップさせていた俺も少しばかり冷静になる。
「働けとは言っておらん。ただヨシノの頼みを聞いてやれんかと言っているだけだ」
「だからそれは一緒なん――」
「もうよい。この話はここで終わりだ。ワシも強制はせん。更生させるだとかそういうののためにおんしらを招いたのではないからな」
俺の言葉は最後まで大家に届くことはなく、強制的に終了させられる。最初に神経を逆なでしたのは大家なのに、これじゃまるで俺が子供のようで、釈然としなかった。
確かに明確にそうしろと頼んだ言葉はなかったけど、開口一番「一度くらいいいだろう」と労働を打診された件について触れられるのは勘違いしてしまうだろう。しかも途中に対ニート理論を取り出してきたのだから、対立するのは明白だった。
俺も久々に労働しろ闘争をしたものだから、いつもならさらっと受け流したはずなのに、今回に限っては我慢ならなかった。和井田さんのは一方的な暴言に近いから別だ。
「ところで、そろそろ戸籍ができる。おんしらには今度いろいろ渡しにいくからの」
「あ、はい」
「ヨシノ、さっきの話はとりあえず部屋でするからついてこい」
「え? 伊藤さん?」
そういえばさっきから大家は「おんし」ではなく「おんしら」と複数形を使っている。またいつぞやのようにベランダに居るのかと思い、自室を見上げた。そこには誰もいない。俺が座ったのはついさっきで、後ろはブロック塀だけだし、まさか伊藤さんがいるわけでもあるまい。入居した時期で纏めているだけだと思ったのに、何故か大家はいるはずのない伊藤さんに話しかけた。
「……はい」
静かに返事がではない言葉が聞こえたと同時、伊藤さんが視界の端からするりと出てくるのが見えた。
ええ!? 俺の後ろにいたのか!? ブロック塀しかないんだぞ!
一体何時からいたというのだ。そしてどこにそんなに空間があったのかと慌てて振り返っても、やはりそこには1m弱の空間しかない。
あまりにも恐ろしい伊藤さんに、俺はただ絶句するばかり。硬直している間に大家とどこかへ行ってしまった。
「あの! もう何度も言ってるんですけど、俺は働かないです! 手順が面倒くさいとかじゃなくて労働をしたくないんです!」
労働を誘われてから4日目に突入した。伊藤さんも一人で仕事をすればいいのに、本当にしつこく俺を誘ってくる。俺に何を見出しているのかしらないが、働きたくないと言ってるんだから、構わずにいて欲しかった。
「……一日だけお願いします」
「そう言われてもやりません」
畳の上に差し出されたタウンジョブに掲載されている丸の付けられた求人を見れば、履歴書不要で日給8千からと記載されている。その隣の、名前の欄に東白優と書かれた紙は、どうやら俺の履歴書らしかった。
2つに1つを選べということか。俺が頑なに断り続ける理由を準備の面倒さだと勘違いされて、気が付けばこんなものが用意されていた。
残念なことに、俺が働かない理由は働きたくないという気持ち以外にない。
「だいたい、一人でやればいいじゃないですか。どうして俺を巻き込むんですか」
「……」
恨みを込めて伊藤さんを睨みつければ、バツの悪そうな顔をしている。少しだけ斜め下に向けて顔を向け、視線は泳いている。迷惑をかけていると感じているのか、あるいはまだどこかにチャンスがあると思っているのか、何かを言いたげに口元を動かしていた。
「……交通費も、全部出すので」
「ですから、そうじゃなくて……」
話は平行線だ。お膳立てをすれば動くと、簡単な人間だと、そう思われているわけだ。お生憎様、そこまでチョロくはない。
俺がタウンジョブと履歴書を押し返せば、畳の上を気持ちよくスライドしてスーっと音が鳴る。それに反応するように伊藤さんの口元が結ばれていった。
「交通費がないからとか、準備がダルいからとかじゃなくて、単純に働きたくないんです。分かってください」
「……」
書類を突き返しても、伊藤さんは怖気ずに見つめてきた。諦めないと言いたげな眼差しだった。
脳裏によぎるのは先日の大家の言葉。伊藤さんはここ数日で急に口数が増えたこともあり、その真摯な頼みを断る俺の方が悪いんじゃないかという思いがわずかに芽生えてしまって、逆に先に目をそらした。
そこから数秒経つと、伊藤さんは引き下がり、自室へ戻ってふすまを閉じた。
緊張の空気から一転、聖域に戻った自室で寝転がる。隣の部屋からごそごそと音がするが、聞こえなかったことにして毛布を体にかけて目を閉じた。
流石に11月も近くなれば気温もぐっと下がってきて、夜はもちろん昼でも日差しがなければ冷え込むようになってきている。未だに毛布だけで自分を騙しているのにも限界がきていて、布団の購入を面倒くさがっている場合ではなかった。
いやでも、まだいけるはず。耐え忍ぶことは得意だ。お金はもうあと一万円しかないんだ。急な出費もあるかもしれないし、あと一か月は持たせたかった。
そんな狡いことを考えていると、再び伊藤さんがふすまを開けて戻ってきた。またかと、うんざりして見れば先ほどとは違い、何かの機材を抱えている。ゆっくりと腰を下ろして、畳に機材を置けばそれが何だったのかがわかった。
ノートパソコンだ。それとケーブル類。
「……差し上げます」
「え……え?」
開いた口がふさがらない。
とりあえずノートパソコンを見てみれば、全体はA4サイズほどであり、マットな質感の黒色の天板でなかなかに高級そうだ。しかも汚れなどもあまりなく、かなり良い状態であることがわかった。安くて10万、下手すれば余裕で30万を超えていそうだ。
ノートパソコン自体は、たいした娯楽もなくこのまま時が過ぎていくだけの生活を考えれば喉から手が出そうなほど欲しい代物だった。
間違いない。きっとこれと交換条件に労働をさせられるのであろう。確信した俺は、一度首を横に振ってから毅然とした態度で突っぱねる。
「俺は、モノではつられませんよ」
「……」
無言の睨みあいが続く。今度は目を逸らさずひたすらに睨み続けた。
やがて観念したのか、伊藤さんはノートパソコンを手に取って立ち上がる。よし凌いだと、俺はほっと一息ついた。そして彼女は何故かノートパソコンを俺の部屋の隅に置いて出ていった。
わけがわからない。これはもう貰ったということなのだろうか。いや、もしやこれは、俺に使わせて、罪悪感を植え付けさせようという手口だな? 見くびるなよ。
その手には乗るまいと、すぐさまノートパソコンにタオルをかけて封印を施した。
誘惑と戦いつつ、毛布を羽織って寝ころんでいれば、嵐の一日は過ぎ去っていった。
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