9. 労働はホラーのよう ②

3

 何もしていないのに時が経つのは早いもので、入居から丸2週間後の10月11日。本日も快晴。

 午前をゴロゴロして過ごしたら、お昼に季節遅れのそうめんを口にした。つるつると喉を通るそうめんをつい食べ過ぎてしまい、牛のように昼寝をしてしまったものの、起きればまだ14時で全然時間がある。

 急ぐことなくペットボトルに水を入れて、洗面所に行き置いたままのフェイスタオルを手に取る。ついでに顔を洗おうとして鏡を見れば、少し前まではなかった変化に目が留まった。後ろ髪を左右に分け、前で相澤さんから貰った髪ゴムで纏める。いわゆるおさげというやつだ。肩甲骨あたりまである髪を纏めるにあたり、他にも1つ結びやポニーテールなどいろいろ試した結果、部屋で寝ころんでばかりの俺は後頭部に髪がない方が都合がよく、最も邪魔にならず楽なのがこれだった。ただ、顔を洗う場合に限っては前にあると長い髪は邪魔だ。


 タオルを首にかけ、ペットボトルを手に持てば準備は万端。いざ散歩へ。

 今日は東側路線沿いを歩いてみようか。連日の散策により、付近一帯はかなり知り尽くしていた。腰を据えて探索していないのは駅南の人通りが多そうな場所と、東西方面だ。東西へ行く線路沿いの道は途中で途切れて曲がらなければならない場所もあるので、帰路の記憶のためにできるだけ避けていた。それが最近になって東側の線路は南下、西側の線路は北上し、そうなったらずっと線路沿いに道があるという情報を掴んだ。となれば、行ってみるのが吉だ。


 サイズの合わない靴を履いて靴紐を結ぶ。目に映る伊藤さんの靴は明らかに新調されていた。彼女は一体どこにそんなお金があったのか、いつの間にか布団やカーテンを購入して、靴も買い替えていた。羨ましい限りだ。

 立ち上がって玄関扉の取手に手をかける。


「っ!」


 突然背中を引っ張られる。背中をつままれたような、明らかな人の指によるものだった。いきなりの出来事に心臓が跳ねて、慌てて振り返った。

 そこにいたのは金髪金目が特徴の小柄な女、伊藤芳乃だった。安堵に胸を撫でおろせば、遅れて冷や汗が湧いてきた。冷静になればすぐにわかる。この部屋には俺以外には伊藤さんしかいない。

 

「い、伊藤さん……」

「……」


 何か用事でもあるのだろうか。一の字に口を結び、眉一つ動かさない無表情からは何も読み取れない。それを期待しているのなら、諦めてくれ。

 

「なんか用ですか? あ、もしかしてゴミの分別ですか? あれなら――」

「あの!」

「っ!」


 だいぶ声量の調整をミスった声に慄く。ここまで強い声が彼女から出るなど想像もしたことなかった。

 伊藤さんは所在なさげに手首をさすっている。口元を見れば、何か言いたげに唇がわなわなと震えていた。俺は音を発することも出来ず、彼女の口から言葉が紡がれるのをひたすらに待った。一体何を言おうとしているんだ。何かよくないことが起ころうとしているのか?


「……散歩!」


 やがて硬直する体に、散歩という言葉が耳に届いた。

 ……え? 散歩?


「……い、一緒に行ってもいいです……か?」

「……ッす」


 あまりにも予想外過ぎて、つい伊藤さんのような返答をしてしまった。






 反射で承諾してしまい、散歩は伊藤さんが同伴ということになった。今日は線路沿いを歩くと決めていたので問題はないが、これが少し前のように気ままに歩くだけだったら俺も対応に困っているところだ。外を出て駅へ向かう途中も伊藤さんは一切話さず、本当にただただ散歩に付いて来ただけなのか、それとも別の意図があるのか測りかねていた。まぁでも、もし本当の目的が別にあるとしても、こういうのは俺から聞くものじゃないだろう。


 駅へついたら、南側の改札に行き、すぐ右の道へ入ればそこが線路沿いの道だった。スタート地点に立ったところで先を見れば、視界の範囲ないでもう道は途切れている。歩いて前回引き返した曲がり角まで行くと、今度は戻らずに曲がった。今日はもっと遠くまで行こう。

 うねうねと蛇のように曲がり、執念深く線路沿いを進めば酷いことに川へと突き当たった。線路の橋はあるのに歩道はない。駅から丁度下っていったあたりにある橋には車が通っていて、思わず顔を覆った。俺が川の向こうに行くには、一度引き返してあの橋を渡るしかない。


「……やっぱ、地図欲しいな」


 橋へ向かうために振り返れば、伊藤さんいた。まずい、完全に忘れていた。なんとなく会釈をすれば、向こうも返してくれる。今の独り言の後だと完全に道を間違えて引き返しているようで、少し恥ずかしい。だから言い訳をして橋へと向かった。


「間違ったんじゃありません。こういうものです散歩は」


 

 川を越えて、大通りをそのまま進んでいけば、線路の方がこちらと隣接してきた。見える限りではそれがずっと続いている。どうやらあの情報は本当だったようだ。情報提供者のテツさんに感謝しながら、俺たちはひたすら進んだ。

 以降の道は左は畑か線路、右には山なのか林なのかわからんとにかく沢山の木。あとはぽつりと建つ住宅と、時折工場のような場所が現れるだけだった。そんな光景をずっと眺めていて、ふと電柱の広告を読んだら渋宮町から別の町へと変わっているのが見えた。

 これはかなり遠くまで来たかもしれないと、一度立ち止まる。時計を見れば16時に近くになっており、推定で6km前後は歩いていた。ここいらで帰るのが晩飯にも間に合うし体力的にも正解だ。無事に帰宅するまでが散歩である。

 俺は人通りのない歩道に立ったままペットボトルの水を半分ほど一気に飲んで、フェイスタオルで口元を拭った。最近はめっきり冷え込んできているとい言っても、歩けば汗は出る程度の温度なので、この運動で汗ばんだ体には温くても水がよく効く。


 そうしてから、引き返そうとしたとき再び伊藤さんと目が合った。


「……あ、えと」

「……」


 また忘れていた。

 伊藤さんは見るからに疲れている。今更ながらにマジマジと彼女を見れば、ゆったりした黄色のシャツは熱が籠りそうだし、スカートもロングで風通しがいいようには見えず、長時間散歩をするにはどう考えても適した服装ではなかったた。対して俺の服装は薄手の長袖Tシャツにジーパン、どちらが動くに適しているかなど一目瞭然だ。しかもあのまますぐ出たから水を入れたペットボトルもタオルもなく、おまけに財布もなさそうだった。

 これは俺のミスだな。水くらいは用意させるべきだった。


「その、水飲みますか?」

「……ッす」


 申し訳なくなりペットボトルを渡せば、伊藤さんは遠慮なしに飲み始めた。ごくごくと飲むたびに動く喉が見えている。やがて水が無くなって、飲み干したことに気が付いた彼女は、小さく謝りながらペットボトルを返してきた。

 そりゃそうだよな。暑そうな服を着て2時間ぶっ続けで歩いて、途中水分補給もなかったんだ。喉だってメチャクチャ乾いただろう。存分に飲んでいい。水を持たせなかった件に関しては俺が悪い。


「じゃあ、帰りますか」

「……ッす」





 

 次の日。午前中はあまり外にでることもないので、畳に横たわりながら、午後は何しようかと考えを巡らせる。伊藤さんのことを思い出せば、なんとなく今日は散歩をする気が起きなかったので、これは除外だ。となればもう昼寝しかないが、部屋で寝るにはもったいないほどいい天気だ。

 俺はベランダに立って庭を見る。入口から最も遠いこの部屋からは丁度目線を下げたところに木が一本生えていた。その下には無骨な木製のベンチとテーブルがあり、たまに大家が使っているのを知っている。もし午後に誰も使っていなかったら、今日はベンチで寝てみよう。


 昼食を食べたら庭に行く。柔らかい土はサクサクという小気味のいい音を出して、俺を歓迎してくれた。早速ベンチに座りテーブルに突っ伏してみれば、腹八分の満足感と食後の眠気に加えて、木陰故の涼しい風がマッチして、俺はすぐに夢の世界へと旅立った。


 夢の内容も思い出せぬまま目を覚ませば、テーブルの木目が目に入っていた。何か幸せな夢を見ていた気がする。


「ん~~」

「おんし何してるんじゃ」

「ウォッ!?!?」


 幸せな気持ちに身を委ね背伸びをしようとしたら突然話しかけられて、驚きのあまり慌てて立ち上がる。背伸びせずとも背筋が伸びて心臓が高速で動き始め、全身に血液をみなぎらせていく。


「……大家さん……。なんですかもう」

「いやなに、窓を開けたら寝とる姿が見えたものでな」

「本当にびっくりしましたよ……」

「それはすまんな」


 俺の寝起きを襲った声は大家だった。テーブルをはさんで向かいのベンチに座り、肘をたて頭を支えている。その隣には綺麗に背筋を伸ばす和井田さんもいて、なんだか三者面談を思い出す。一体なんの用だろうか。


「なんか用ですか?」

「別に何もないが、強いて言うなら昼間っから何しておるのかとな」

「そうですか」

「なんじゃ、用がなければ話しかけてはいかんとでも言うのか?」

「そういうわけじゃないですけど……」


 そりゃいいけど。寝起きにいきなり話かけられたら誰だってビビる。しかも大家とは別に友達のような関係でも親密な中でもなく、一方的に俺がお世話になりまくっているのだから、そういう人が気楽に話かけてくるのは多少の恐れ多さを感じて更にだ。


「寝てるおんしを見て思ったのじゃがな、おんしらワシの上の部屋じゃろう?」

「そうですね」

「音も聞こえてこんし、何しとるのか気になっての。ほら、この前雨の日はどうしてるって話をしたじゃろ」

「しましたね~そういえば。昼寝したり散歩したり」


 富豪ニートはともかく、金無しニートはやれることが少ない。自分の今持っている資産だけでなんとかするのが基本だ。無一文でやれることとあれば、昼寝に散歩と運動など、この身一つでやれることくらいで道具を用いるものは選択肢にも入らない。


「あれマジじゃったのか……。まぁよい。そんでどうじゃったこの辺は?」

「なんというか、のどかでいいですね」

「そうか! それはよかった。生活にもずいぶんと慣れてきたようじゃのう」

「ええまあ」

「もう半月か。色々あったじゃろうし、暇ならワシらとここでお茶でもするか?」

「そういうことなら、是非」


 断る理由もないし、暇つぶしになるならどんとこいだ。あまり話すのは得意じゃないけど、そういうのは無言になってからが本番。大家は自分からグイグイくるタイプだしそこは問題ではない。メンタル的には和井田さんのニート蔑みが来なければ安定する。

 件の和井田さんは何時の間にか席を立ち、おぼんに湯飲みとお茶菓子を乗せて戻ってきていた。彼女は4つの湯飲みをテーブルに移してからお茶菓子を中央に置いた。俺は恐る恐る礼をしてから湯飲みを手に取る。暖かい感触に怯えつつ一口飲んでみれば、程よい熱さと濃さの美味しいお茶だった。


「おーい! ヨシノも暇ならお茶でもせんかー?」

「えっ?」


 意味不明の背後への呼びかけに反射的に声を出して振り向く。大家の見間違いだろうか、伊藤さんはここにはいない。いやしかし、今のは確かに確信を持って呼びかけていた。

 まさかと、俺は視線を1階から2階へと上げた。何も干していないベランダには、金色金目の女がいた。コチラを無表情で眺めている。一体何時から。

 昨日と同じ状況に心臓が掴まれたように締め付けられた。


 おいおい。こりゃいよいよただ事じゃないかもしれないぞ。完全に何かがある。


 ベランダを去る伊藤さんを見送れば、すぐにベンチにやってきた。じっくりと顔を観察しても何もわからない。


「あーーんで、おんしらの戸籍は11月までにはできるそうじゃ」

「そ、そうですか」

「……」

「楽しみにしておけ! んはは! で、おんしらは映画とか見るか?」

「多少は」


 4人もいるのに主に会話をするのは俺と大家だけ。笑う大家に対し俺は伊藤さんのせいで気が気でなく、申し訳ないが以降の会話はまるで頭に入ってこなかった。






 2度あることは3度ある。そして実際は3度どころではなく、最初に事が起こってから今日までの10日間毎日だった。

 伊藤さん行動はどんどんエスカレートしていった。ホラーめいた挙動はさらに強まり、散歩に出れば無言でついてくるばかりか俺の水やタオルまで持つようになり、部屋で寝ころんでいれば時々ふすまの隙間から見つめてくるようになった。俺を怖がらせることが目的ならもう十分に成功している。散歩も自室で寝ころぶという聖域での休息も、安定行動でなくなったのにストレスも貯まる一方だ。ここまでされているのに、俺は真意の一端も掴めていない。唯一の救いは庭でベンチに座っていると、たまに大家が話相手になってくれることだった。

 ともかく、意図の見えない行動は多大な恐怖を俺に与えており、最近はトイレに籠る時間が増えている。やはりトイレは友達だった。


 しかし何事にも飽きはくる。トイレは伊藤さんも使うし、寝ころぶことも歩くこともできないから限界が来るのは早い。今日も籠るのに飽きて部屋に向かった。

 部屋へ戻るとまずふすまの開閉を確認する。開いていない。ほんの少しだけ安堵して、タオルとバスタオルを取り出した。バスタオルは丸めて枕にして、タオルは顔に被せる。こうすることで関わらないでくれの意思を見せつけていかなければ、安心して眠れない。


 うまく意識が消えず横たわること数十分後、スーっと音を立ててふすまが開いた。この耳障りな音をもう何度も経験したから俺には分かる。また伊藤さんがこちらを見ているのだ。今にまた音がして締まって、そしてまた数時間後に同じことを繰り返す。


 こんなことをして、伊藤さんは一体どういうつもりなんだろうか。あまりにも意図が読めない。せめて一言、服を買いに行った時とか、自己紹介のときとか、トイレ行きたいと言ったときとか、そういうのが欲しい。


 緊張感が漂う中、俺はひたすらに待った。28年間何もせずに待ちに待ち続けて、今もゴロゴロしたり昼寝をして飯の時間を待ち続ける日々なのだ。こと待つことに関しては一級品の自信がある。と、いうのに、今日に限っていつまでたってもふすまが閉まる様子はなく、静寂に包まれる201号室には呼吸音だけがわずかに響いていた。

 早く閉まれと願ってもこれっぽっちも締まる様子はない。時間が経つにつれて、嫌でも意識せざる得なくなり存在感はどんどん増してきた。寝息の呼吸を続け、寝ていると思わせるのもこれだと厳しい。


 ここまでくると、ふすまの間から覗いているのは、伊藤さんじゃなくて幽霊なんじゃないかと思い始めてくる。大家は妖怪だし、幽霊だっていたっておかしくないだろう。

 俺は真実を確かめるべく寝がえりをうったていで、体をふすまへと向ける。薄目にし、なるべくゆっくり、それでいてタオルのヴェールは自然と落ちるようにして、視界が開けるのを待った。微妙に首を振ってタオルを落としていけば、徐々に左目の視界が広がっていきタオルの向こう側にいた人物がクッキリと映った。

 

 そこには幽霊はおらず、伊藤さんが佇むだけだった。


 やっぱり幽霊なんかじゃなく、彼女だったのかと思わず気が抜ける。それが良くなかった。脱力とともに瞼が開いてバチリと俺と伊藤さんの視線が交わってしまった。やってしまった動揺で体が動くと、タオルはもう顔面を1mmも覆わず滝のように流れていった。

 一度完全に目が合ったのに、どうして逃げられよう。しかしそれでもと、あきらめの悪い俺は再び逆方向に振り返って顔にタオルをかけた。


「あ、あの!」


 やはり見逃してくれないようで、全てをなかったことにして寝ようとする俺を呼びとめた。それも、最初に散歩に付いて来たときと同じくらい大きな声だ。これはとうとうこの数日の異変に解決がされるなと、観念して上体を起こした。


「なんですか」


 俺が伊藤さんを見つめる中、彼女は一度唇を軽く噛むと口を開いた。


「その……一緒にネット回線、契約しませんか? お金なくて」

「え? ネット回線? それはその、かまいませんけど……。俺もお金ないですよ?」


 ネット回線を契約するためにここまで付きまとったのか? それがこの連日の異変の元凶なのか?

 以前雨の日はパソコンを使用していると聞いた。あまり会話をしないので、伊藤さんの発言は割と覚えている。確かにパソコンはインターネットがあれば利便さは爆発的に跳ね上がる。俺の場合、回線契約など二の次だし、そもそもネットに接続できる機器など何一つ持っていないから思考から完全に外していた。でも伊藤さんはスマホを持っていたはずだ。それではダメなのだろうか。

 なんとなく、合点が出来てきた。スマホのみの生活に窮屈さを感じて、パソコンを使おうと思い立った。しかし思い切って契約しようにもお金がなく、金銭が絡む問題を相談するのは、出会って数週間の間柄だとなかなか厳しいものがある。伊藤さんもコミュニケーションが得意な方ではない。ゆえに話を切り出すのが不安で、これほどまで時間がかかってしまった、という訳か。


 だとしても、これは異常だ。ただネット回線を契約したいと切り出すにしては、大げさすぎる。


「だから――一緒に働きませんか?」

「嫌です」


 考えている内に飛び出てきた言葉は、俺の最も嫌なことへの提案だった。俺はすぐさまふすまを閉じた。

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