第26話 語り継がれた伝説のキス

◆ 12月24日の結納を前に虫垂炎に……


 12月22日、雪子は上機嫌の秋月の出迎えを受けて福岡に戻って来たが、表情は冴えなかった。

「お帰り。どうしたんだ? つまらない顔して、風邪でも引いたのか?」

 抱き寄せようとしたら、「痛い!」と言って右脇腹を押さえ、涙目で痛みを堪えていた。

「痛いのか、いつからだ、痛いのは?」

「1週間ぐらい前からたまに痛くて、だんだん痛くなって、そして、すごく痛くなりました。そのうち治ると思って、バファリンを飲んで……」

「そんなことは電話でひとことも言ってなかったじゃないか、なぜ早く言わない! 京子先生に診てもらうという選択肢もあったはずだ、なぜだ?」

「みんなに心配かけるし、そのうち治ると思って」

 叱られた雪子は子供のようにポロポロと涙を落としたまま、2000GTに運び込まれた。


 雪子を抱き上げて走り込んできた秋月の形相にスタッフは驚いた。

「おい、検査してくれ。右下腹部が痛いと言っている。白血球と赤沈だ。大至急頼む!」

 検査の結果、白血球、赤血球沈降速度に異常が見られ、触診では右下腹部に膨れが認められた。

「開腹してみないと炎症レベルは不明だが、ほぼ虫垂炎だ。抗生物質が効かない雪子は切るしかないだろう。僕が切る。サブは宮本先生にお願いして、万一を想定して福沢先生にも待機をお願いしたい。山川くんも頼む」

 心臓外科チームの医者が3人も手術室に入ったので、何事かと周囲が驚いた。

 

 現在は虫垂炎で開腹手術をすることは少ない。超音波やCT検査、CRP数値によって炎症の程度や周辺器官の症状を確かめ、抗菌薬投与および経過観察で炎症を鎮めることが大半だ。手術の場合でも腹腔鏡手術が主流である。しかし50年前は、ほんの初期を除いては開腹手術が一般的だった。


 全身麻酔の雪子を前に秋月は悩んでいた。本当は体を傷つけたくない、メスを入れたくない、なぜもっと早く医者に診せなかったのか、大バカ野郎! せめて俺が執刀するのが不幸中の幸いだ。可能な限り最小限の傷跡にしてやろう。秋月は決心した。


 開腹した結果、蜂窩織炎性(ほうかしきえんせい)虫垂炎だった。

「あーあ、かなり我慢していたようだ。あと1日遅れていたら腹膜炎だろう。まったく困ったやつだ!」

 難しい手術ではないが、通常4~5センチ開腹するところを、僅か2センチの開腹でやり遂げた。2センチの開腹に宮本と福沢は驚いた。

「悪いが、向こうを向いてくれないか」

 いつものチューだろうと想像して背を向けたが、秋月はヘソ下5センチにメスで小さな穴を開け、ダイヤを埋め込んだ。素振りに不審を抱いた山川は振り向いたが、秋月の涙を見て再び背を向けた。



◆ 正式の結納はキャンセルした。

 

 秋月病院はテレビの『福岡ビジネス最前線』で紹介された影響で来院者が急増し、急患を除いては入院待ちの状態だった。

「雪子さんのベッドが確保できません。特別室も満室です。若先生の部屋に引き取ってください。院長夫人だから当然でしょう。お願いしますよ。ただし1週間は大事にしてください。絶対に守ってくださいよ!」

 山川は雪子をストレッチャーでさっさと秋月の部屋へ運んで来た。


 翌朝、麻酔から覚めた雪子は眼をパチパチした。見慣れた部屋だが、なぜか隣に蒼一さんがいない? 体を伸ばすと、うへっ、気持ち悪ーい。おまけにチクチクと右脇腹が痛い。お腹が痛くて注射されて~ そのあとは思い出せない。眼を凝らして見渡すと、秋月はソファーに不機嫌な顔で横たわっていた。

「私、どうしたのでしょうか?」

「キミは立派に肥大した盲腸を抱えていた。しかも爆発寸前だったが、僕が撤去したから心配ない。痛みは徐々に治るだろう。いいか、もっと早く病院に行っていたら体にメスを入れることはなかった。キミは僕の妻になる人だ。病院嫌い、医者嫌いは直せ! なぜいつも騒動を起こす! 僕は心配で仕方がない!」

 雪子を抱きしめたが、雪子は再び幻の世界に呼び戻されて行った。


「さあ、雪子さん起きましょう。ご飯の代わりに輪液の点滴です。しばらくは絶食ですよ。盲腸は腸の一部です。腸が正常に機能しているのを確認してから流動食になります。あっ、それからシャワーは控えてください。安静にしてくださいね」

 山川は否応なく腕を取って点滴を始めた。雪子は起きているのか、眠っているのか頼りない表情で眼を閉じた。

 雪子がこの有様では結納どころではない、秋月はリザーブしていた西鉄グラントホテルをキャンセルし、雪子の母親に事情を告げて陳謝した。母親が見舞いに来たが、病室が確保できなかった詫びを山川に任せて、秋月はオペに向かった。


 本来ならば結納を交わす12月24日。

 大安吉日のこの日、結納を交わす予定であったが、まだ雪子は食事が殆ど摂れない状態だった。トレーに乗せられた流動食を横目で見ただけで、首を左右に振ってイヤイヤしてしまう。

「少しは食べろよ。旨いとは言えないが食べてくれよ。キミがイヤイヤすると僕は勘違いしてしまいそうだ」

 雪子は頰を染めて、毛布に埋もれてしまった。

 

 山川が大きな箱を抱えて入ってきた。

「お母様から差し入れをいただきました」

「母が?」

『ロイヤル』のカツサンドと野菜サンドをテーブルに置いた。空腹の雪子は毛布から眼だけを出して見つめていた。

「気持ちはありがたいが、これは無理だ、まだ食べさせられない。母には内緒でみんなで食べてくれないか。僕は2切れだけもらおう」

「ありがたくいただきます。あとでお見えになられるそうです」

「本当か? ふーん」


 母がなぜ急に見舞いに来るのだろうか、信じられなかった。

 会話を聞いていた雪子は、寝ている場合じゃないと起きて服を着ようとしたが秋月は止めた。

「雪子は僕の患者だ、起きるな! 主治医の言うことが聞けないか? キミには安静が必要だ!」

「違うでしょ、ただの蒼一さんでしょ!」

 雪子はふてくされて横を向いた。


 午後、秋月晴子は予告どおりに、うっすらと微睡んでいる雪子を見舞いに来た。秋月は診療で不在だった。

「申し訳ありません。大事なときに虫垂炎になりました」

 慌てて起きようとする雪子に、

「そのままでいいのよ。禍福はあざなえる縄の如しと云います。いいことの後には悪いことが待っているってことです。盲腸になったのは厄払いだと思ったらいいわ。それより雪子さん聞いてちょうだい。あなたのお陰で病院は大繁盛だし、雰囲気が明るくなりました。誤解しないでね、私は蒼一との結婚を反対はしてないのよ。わかってちょうだい。それではお大事に」

 そう言って一陣の風のように去って行った。


 ふうーっ、深呼吸して、晴子の言葉を辿ってみたがさっぱり真意が理解できなかった。

 予告どおり母が見舞いに来たと聞いて、秋月は心配で駆け込んで来た。

「母から何か言われたか? 辛いことを言われたのか?」

「いいえ、お母様は結婚を反対していないとおっしゃいました」

「そうか、母はそう言ったか、わかってくれたのか!」

 秋月は晴々とした笑顔を見せたが、雪子の不安な表情を見逃した。

 この夜からひとつのベッドで眠ったが、抱き合うだけの静かな夜を過ごした。



◆ 素肌に埋め込まれたダイヤに気づいた。


 12月25日。

 朝から雪子は機嫌が良かった。食事には手をつけないが山川の点滴のお陰で体調が戻りつつあるようだ。

「汗っかきなんです、ベトベトです。ねぇ院長先生、シャワーいいでしょ、お願いです!」

「ちょっと早いがいいだろう。万一ということもあるから洗ってあげるよ」

 気持ち良く洗ってもらっていた雪子が突然怒り出した。

「何をしたんです? これは何です!」

「いや、それはキミが指輪はいらないと言ったから、僕の心を埋め込んだまでだ。誕生石を身につけると魔除けのパワーがあるらしい。雪子がいつも元気でいて欲しいと思ったからだ。内緒にして悪かった」

「なぜです? なぜこんなことをしたのです。麻酔で眠らせてこんなことをするなんて卑怯です! 取ってください。許せません!」

 秋月に背を向けて泣きじゃくった。


 ちょうどガーゼ交換に来た山川がドアの前に立ったが、漏れ聴こえてくる会話で、バカ先生は承諾なしであれをやったのか。自分でやったことは責任を持ちなさい。そう思って引き返した。

 なぜ雪子さんは今頃になって気づいたのかしら? 下着を替えたりトイレに行っても気づかなかったの? ダイヤが埋められて3日も経っていた。不思議な人だと呆れてしまった。

「ガーゼを交換します」

 山川がドアを開いたとき、秋月は笑顔で山川を迎えたが、雪子は毛布に顔を埋めてぐずっていた。



◆ 星野は入社試験の資料を雪子に見せた。


「蒼一さん、星野さんに来てもらっていいですか。約束してたんです」

「星野か…… キミは入院患者だ。病院の中だったらかまわない。ロビーか面会室で会いなさい、わかったね」


 雪子は星野に電話した。

「電話しなくてごめんなさい。私、盲腸だったの。蒼一さんに切ってもらって入院中です。だから結納は延期になりました。院長先生に心配していただいたのに、肝心なときに私ってダメですねぇ。ごめんなさい。院長先生は?」

「そっか、オマエが腹が痛いと涙眼だったときに、ウンコが溜まってんだろうと笑ったオレが悪かった、ごめんな。親父は手術中だ、忙しそうだ。秋月病院と提携してから患者さんが激増して満床だ。ユッコが出たテレビの影響って凄いなあ! 驚いたよ。これからは新聞社よりもテレビ局の方がいいのかなあ。オレ、明日オマエんとこへ行くよ。見せたいものもあるからさ。何号室だ?」

「それがね、こっちもベッドの空きがなくて蒼一さんの部屋に居候なの。蒼一さんは診療とオペでほとんどいないし、ヒマでぇーす。呼び出してください。ロビーに行くから」

「うん、わかった」


 翌日、星野はロビーで雪子と会ったが、通りかかる病院関係者全員が雪子に会釈する。星野はどうも居心地が悪かった。

「ユッコ、他に話せる場所はないのか。ここではオマエは院長夫人待遇だ。そして、オレは院長夫人を誘惑に来たカッコいいハンサムなプレイボーイに見られている。どこか話が出来そうな場所はないのか?」

「へへっ、カッコいいハンサムなプレイボーイ? ふーん。それだったら、人があまり行かない小さな裏庭があります。ベンチがあるから、そこにしましょう。チューリップや水仙の球根を育てる庭です」


 星野は入社試験の資料や会社案内のパンフレットをたくさん抱えていた。裏庭で幾つもの会社のパンフレットを見せながら説明した。

「この会社はいいぞ。バカなオマエでも入れそうだ。こっちは無理だな。スチュワーデスは158センチ以上だ。チビでも地上勤務のグランドホステスはセーフらしい。それより新聞社ってのはどうだ。朝日新聞は東大じゃないと無理だが読売や毎日がある。オレは受けるぞ。ユッコも受けるか?」


 裏庭のふたりを院長回診で3階に来た秋月が見つけた。

 星野と会うことは知っていたが、アイツらは何を熱心に見ているのか、何を話しているのか、不愉快だった。あんな吹きさらしでは雪子が風邪引くぞと心配したとき、星野がコートを脱いでふわりと雪子の肩にかけた。くそっ、星野、余計なことをするな! 早く帰れ!

 横に控えている山川に険しい目付きで、

「すぐ部屋に戻って安静にするよう伝えてくれ」

 山川は笑っていた。裏庭の雪子に声をかけた。

「若先生はカンカンです。部屋に戻ってください。抜糸が終わってないので外の風は体に毒ですよ。戻りましょう」

 星野と雪子は病棟を見上げた。腕を組んで睨みつけている秋月の視線とぶつかった。ふたりは顔を見合わせて、ヤバイと肩をすくめた。


 その夜、雪子の隣に疲れた体を投げ出した秋月はひどく不機嫌だった。

 何だか聞き取れないが寝言を言って笑っている雪子が腹立たしかった。自分が入り込めない世界を持っていることが許せなかった。気づいたとき、抜糸前の雪子をかき抱いていた。驚いて目覚めた人は腕の中で痛いと嫌がったが、秋月の怒りの衝動は止まらなかった。

 ♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡。



◆ 人に優しい病院へイメージアップ。


 痛みが少なくなり、傷跡を押さえながらも自由に歩けるようになった雪子は、秋月や山川の目を盗んでは院内着のまま病院内をうろついていた。またあの泣き虫が何か企んでいるようだ。寝てなきゃダメだと何度言っても、いつの間にかベッドはもぬけの殻だ。アイツは何をしているのだ? 不安になって山川に聞くと、散歩でしょと簡単に答えた。


 食べたがらない雪子を前に秋月は思案していた。

「聞いてくれますか? 今日は産婦人科におじゃましました。チャイルドルームと新生児室で気づいたことがあります。話を聞いてくれますか」

「そんなことよりメシを食え、マジメに食え!」

 食事を摂って早く元気になって欲しいと考える秋月は、ぶっきらぼうに問い返した。

「子を産んだことがないキミにわかることがあるのか? あるなら話しなさい」


「チャイルドルームと新生児室を可愛いらしい模様の壁紙や明るいカーテンに変えて、赤ちゃんとお母さんが優しい気持ちで落ち着けるスペースに出来たらなあと思います。自分の家のようにゆったりして安心して欲しいです。それから、産婦人科のナースさんの白衣を淡いピンクに変えるのは絶対に無理でしょうか?」

「はあ? キミは安静を守らないでそんなことをやっていたのか。まったくあきれたヤツだ! 僕にはキミの考えがわからない。少し考えさせてくれ」

「病院って何だか冷たいイメージなんです。それを暖かい色を使って心が安らぐ空間にしたいんです!」


 雪子の主張は、病院に生まれ育った秋月には理解できなかった。病院のイメージは白で、壁やカーテン、シーツ、白衣、全て真っ白だ。それは清潔な医療を表すシンボルだと疑問を感じたことがなかった。

「雪子の考えを先生方やナースに打診してみよう。病院のことはいいから、キミは安静にしろ。絶対に部屋から出るな! 主治医の言うことを聞かないとベッドに縛りつけるぞ、いいんだな!」

「イヤですよーだ。あっ、痛っ! 痛たたっ!」

「ほら、動き回るからだ。傷口が開いたらどうするんだ。僕は知らないぞ。安静にしないと本当に縛ってしまう。いいな!」


「いいですよ。でも山川さんに本当のことを言います。あの~ 山川さんはエッチは抜糸するまでは絶対にいけませんって。蒼一さんが迫って来たらダメって言いなさいって。だから、蒼一さんは静かですよって言いました。もう何度も愛されましたなんて恥ずかしくて言えません」

「何だと? 山川くんにそう言ったのか」

「はい、私はウソをつきました。そしたら、若先生は執刀医だもの、当然よねって信じてくれました」

 何だ、コイツは俺を脅迫している。何てやつだ! 

「よし、わかった。取引しよう。1日に2時間だけ院内の徘徊を許そう。山川くんには何も話すな。わかったか!」

「ふぁい」


 雪子が提案した、チャイルドルームと新生児室を明るいイメージにする提案は、全員の賛同を得た。早速、年末年始の休院中に実現されることになった。

 淡いピンクのユニフォームに関しては様々な意見が噴出し、無記名のアンケートを募った。

 傑作だった回答に、「妻が出産で禁欲中の夫が、ピンクのユニフォームを着用したナースに劣情を起こす可能性があり、断固反対する!」という意見があった。なるほど、確かにそうだなと自分を思い起こして秋月は笑った。


 ユニフォームの案件が採用されたのは秋月病院の激震がようやく収まった翌年の5月だった。

 今日では医療従事者のユニフォームは淡いカラーのほかに、濃紺や濃い緑、男女兼用のデザインなど多様化しているが、50年前の九州の病院で、白衣の天使と云われていたユニフォームが淡いピンクになったことは画期的な出来事だった。


 

◆ 心温まる結納の儀が行われた。


 雪子が普通食になったのは術後5日目だったが、ほんの少し箸をつけては涙目になって、イヤイヤを繰り返すばかりだった。

「なぜ食べない? 病院食は体調や必要な栄養を考えて調理されたものだ。どれだけ食べれたか、医者が患者さんの状態を判断する目安になるものだ。雪子が食べないから献立を考えた栄養士さんが悩んでいるそうだ。食べなさい、食べろ!」

「そんなに怒らないでください。食べれません。でも、それは……」

「理由があるならはっきり言いなさい!」


「この樹脂の食器が給食を思い出して、いつも給食が食べられなくて……」

 雪子はわっと泣いて秋月の胸にとりすがった。最初は何のことなのか理解できなかったが、そうか、いつも給食を残す雪子に代わって食べてくれた林を思い出すのか。

「わかった、もういい。食べなくていい。何も思い出すな、病院食は卒業だ。朝はパンを焼いてあげる。もう泣くな」

 12月29日、抜糸して雪子は退院した。やっと家に戻って結納が出来なかったことを母親に詫びた。


 気になる雪子が退院して淋しくなった翌日、暗くなって雪子が姿を現した。

「どうした? また来たのか、しょうがないやつだな。痛いのか?」

 痛ければすぐ身柄を確保できる。痛くなれ、痛くなれと願ったが、返事は違った。

「いいえ、忘年会に呼ばれました。宮本先生が迎えに来てくださいました」

「そう言えば今日は仕事納めで、ロビーで忘年会とか言ってたなあ。だが酒は飲むな、倒れるぞ。今宵は泊まれ」


 秋月チームの宮本が呼びに来た。

「院長、雪子さん、早くロビーに来てください。みなさんがお待ちかねです」

 その声に急がされてロビーへ行くと、割れんばかりの拍手で迎えられた。壁には「結納の儀」と達筆で大書された紙が貼られていた。

「何だこれは? 何の真似だ?」

「そこにご着席ください。本日はお日柄もよく、ただ今から院長と雪子さんの結納の儀をみんなで始めます。

 秋月蒼一くん、あなたはこの病院をそっくり西崎雪子さんにあげますか?」

「はあ? キミたちは何をふざけているのだ?」

 秋月の不機嫌な声にロビーは静まりかえった。


 何のことだ? なぜロビーで結納の儀? やっと腑に落ちた!

 固唾を呑んで、秋月の言葉を待ち受けるみんなの気持ちが伝わった。

「あー、あげる、あげる。みーんなあげる。スタッフも付けて雪子にみんなあげる」

「西崎雪子さん、あなたはこの病院とスタッフをもらいますか?」

「えーっ、ごめんなさい。せっかくですが病院やスタッフの皆さんはいりません。蒼一さんだけでいいです」

 わーっと全員が拍手してどよめいた。


「この場にいる全員が秋月蒼一院長と西崎雪子さんの結納を見届けました。これでおふたりの結納の儀はめでたく終了します。おふたりは見届け人の前で盛大にチューしてください」

「いいのか、本当に? しかし恥ずかしいなあ。みんなが見てるじゃないか」

「何を言ってるんですか、いつもやってるじゃありませんか。僕ら慣れっこですよ」

「雪子、いいか、覚悟しろ」

 秋月は雪子を抱きしめてディープキスをした。さすがに気絶させることはなかったが、あまりにも哀しく燃えるキスで、若いナースは泣いていた。これは伝説のキスとして現在も伝えられている。

 ふたりの頭上に紙吹雪が舞い散った。

 雪子は大粒の涙が頬を流れ落ち、秋月の眼も真っ赤になった。


 虫垂炎を患って結納が中止になったので、みんなで慰めてくれたのだろう。その気遣いが秋月にはたまらなく嬉しかった。親の跡を継いだだけの若造の俺のために、ほとんど全員に近いナースや年配の先生方、秀明斎先生まで参加されている。いつも俺から怒鳴られている事務職員や警備員、調理の人たちも、俺たちを祝福してくれている。確かに病院は変わった。こんな集まりが出来るとは、変えたのは雪子ではないかと思った。


「これから忘年会を始めます。院長からひとこと、お願いします」

「ひとことでいいんだな。みんな、ありがとう、本当にありがとう! そしてこの1年間よく頑張ってくれた。よくやってくれた。お疲れさまでした。以上!」

「院長夫人になられる雪子さんからもひとこと、お願いします」

「えーっ、私ですか? あの~ あの~ 心温まる結納の儀を開催していただきまして、本当にありがとうございました。とっても嬉しくて泣いちゃいました。これからも蒼一さんを助けてください。お願いします。そして、患者さんと皆さんの病院を作ってください。私は皆さんのお気持ちを決して忘れません。本日は本当にありがとうございました」


 大きな拍手の輪が広がった。

「雪子の方が挨拶が上手いなあ。あーあ、すっかり僕は形無しだ」

 秋月がヘソを曲げたら、会場の全員がつい大声で笑ってしまった。

 母の晴子はあの騒ぎは何だろうとロビーを覗いたが、見つめ合っている蒼一と雪子の涙で潤んだ眼、集まった病院スタッフの笑顔と拍手、蒼一はどうかしていると腹を立て引き上げた。

 抜糸後まもない雪子を部屋に戻して、秋月は気持ちよく酒を飲んだ。秋月総合病院という温室で育った俺をみんなが助けてくれている。外科手術しか出来ない俺を盛り立てて、一緒に働いてくれるスタッフや仲間がこんなにいる。秋月は法人にして良かったと心から思った。


「雪子、戻ったぞ」

 返事はなかった。雪子は枕を抱いて晴れやかな表情で眠っていた。

「こら、雪子、それは枕だ。僕ではない、放せ、放すんだ!」

 枕をもぎ取ったら、ようやく薄眼を開けて「ふぁい」と呟いた。

 ああ、寒くて酔いが冷めそうだ、まったくどうしようもないやつだ。雪子の隣に潜り込んだ。

「起きろ、僕だ、目を覚ませ! 早く温めてくれ!」

「ふぁい?」

 ♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡。



◆ 秋月のアドバイスは中国を学べ。


 大晦日の朝日は眩しい輝きを窓辺に浮かべ、イヤイヤを繰り返した雪子の両頬にはうっすらと薄紅色が残っていた。それをなぞっていたら雪子が眼を覚ました。

「いつ東京だ? どうせ行くんだろう? あと1年か、僕は待てるだろうか、自信がない」

「どうしてですか? 1月10日から大学は始まります。学年末試験が終わったら戻ります。だって3年も待ってくださったんですもの、あと1年待ってください」

「もう待ちくたびれた……」

 秋月は哀しい眼をして、黙ってしまった。


 その3日後、今まで雪子が受講する講座に興味を示したことがない秋月が突然、

「4年生になったら、中国を学んだ方がいい」

「えっ、中国ですか? 古代からの中国史? 中華思想? 激動中の中国でしょうか?」

「僕は門外漢だが社会科学を学んでいるキミは、これからの日本にとって無視できない大きな国になって行く中国を勉強することは不可欠だと思う。多分、年内か来年には中国と国交が開かれるだろう。経済力を持った中華思想は日本にとって脅威になるかも知れない。キミは僕のアドバイザーとして、グローバルな視野と幅広い知識を持って欲しい」

「そうなったら、台湾との国交はどうなるのでしょうか?」

「そうだね、残念だが国交は終焉するだろう。休みが取れたら国交があるうちに台湾に行こう。連れて行ってあげるよ。楽しみだ」

「???」

 なぜ急に蒼一さんはカリキュラムに興味を示したのだろう。雪子は驚いた。


 秋月が推測したとおり、この年(1972年)の7月、田中角栄首相が日中正常化調印のため中国へ渡った。そのとき、娘で早稲田大学OBの田中眞紀子さんを同伴した。

 調印後、大学内はお祭り騒ぎとなり、「中国文明論」と「近代中国総論」を受講した雪子はレポート提出だけで優の評価をもらえた。日本は台湾と断交した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る