第25話 講演は『心臓外科手術の近未来』

◆ 雪子を利用しようと考えた、晴子の陰謀


 秋月晴子は最愛の息子をさらに有名にしたい、それには雪子を徹底的に利用しようと考えた。『福岡ビジネス最前線』の放映を観て、秀才の蒼一が夢中になるほどだからバカではないようだ。屁理屈で蒼一を騙して法人化させたのか。この怖いもの知らずの小娘を騙してやろう。利用して秋月病院の知名度を上げ、蒼一の名声をさらに高めようと思った。

 蒼一の派手な女性遍歴を思い起こすと、小娘にもそのうち飽きるだろう、その前にせいぜい利用して蒼一の地位を安泰にしよう。まずはそれからだと考えた。


 9月1日(水)、雪子が半東を務める最後の茶道教室に秋月晴子は参加した。もう客人の来訪はないと片付け始めたとき、秋草模様の付下げを纏ったその人は足音を忍ばせて訪れた。雪子は姿勢を正して晴子を迎えた。秀明斎はふたりに背を向けて雪子に任せた。

 火を閉じた茶釜の温度は落ちて、湯相が松風になるまでふたりは無言で対峙した。茶碗に手を伸ばす前に晴子は雪子を見つめた。いつもは面を伏せる雪子だが、晴子の視線を真正面から捉えて僅かに会釈したが、笑顔はなかった。

 

 母が茶道教室を訪れたと知った秋月は、手術着のまま走り込んだが、待ちかねていたのはいつもと同じの丸い笑顔の雪子だった。

「母が立ち寄ったらしいが?」

「はい、お見えになりました。粗忽な茶を差し上げました」

「母は何か言ったか?」

「ふぁい、何もおっしゃいませんでした。お茶を差し上げただけです」

「ふん、そうか。僕はオペが終わったばかりだ。手伝ってくれ」

 秋月は秀明斎の前から雪子を拐って行った。部屋には心許ない行灯の灯りだけが残った。


 いつものように仁王立ちになって雪子に脱がせながら、訊いた。

「東京へいつ行くんだ?」

「はい、9月5日に発ちます。次の週には授業が始まります」

「もうそんなに経ったのか。昨日、雪子を迎えに行ったような気がするが……」

「明日、塾の打ち上げに参加します。今年で古谷さんは講師を卒業されて勉強に専念されると聞きました。5年間も講師をなさったようです。後任は和田くんだと聞きました」

「古谷か、心臓外科医になりたいと言っていたが」

「どうかしました?」

「いや、何でもない。バイトか、僕はバイトも講師もしたことないなあ。バイト講師をやって楽しかったか?」


「えっ、何を言ってるんです? 高校生の私を教えてくれたのはバイトでしょう? 朋友学園では英語の講師だったじゃないですか。忘れたんですか?」

 秋月は退屈しのぎでやっていたことを金銭で考えたことがなく、バイトや講師をしたという感覚が残ってなかった。

「蒼一さん、大丈夫ですか、疲れてませんか?」

 雪子の言葉にカチンと来た秋月は、雪子を抱えてさっさとシャワールームへ入った。

「わ、わっ、私、まだ服着てます」

「だから、どうした、何か問題があるか? 最近は生意気すぎだ、いじめてやる!」

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◆ 甘く切ない別れのディープキス。 


 9月4日(土)、明日のフライトで大学に戻って行く雪子を呼び出した。夕暮れ間近の街には昼間の照り返しの匂いが残っていた。

「もうすぐ東京へ消えるキミのために、スタッフが僕に時間をくれたんだ。どこに行こうか?」

「蒼一さんと普通のデートがしたいです」

「普通のデートとは何だ?」

「ふぁい、大濠公園から須崎に歩いて、そこから戻って天神に寄って中洲に行ってもいいですか? そんな所を蒼一さんと歩きたい」

 秋月は天神でも中洲でもどこでも良かった。明日はいなくなる雪子と一緒にいたいだけだった。ふたりは手をつなぎ肩を寄せ合って、目的もなく福岡と博多の街を彷徨った。

 福岡は舞鶴城と呼ばれた福岡城を中心にした城下町で、那珂川から東を博多と呼び、博多商人の街である。朋友学園の生徒とすれ違っても振り向かれることはなかった。2人が教師と生徒だったときから3年も経っていた。


 明治時代に建てられた日本生命の赤煉瓦ビルを右に折れて、那珂川の川沿いに出た頃、ふたりの会話は途切れた。涙を堪えた雪子に、

「明日の用意は出来ているのか?」

「ふぁい、いつもの赤いバッグだけです」

「戻ろう。雪子、僕の部屋に泊まってくれるか」

「でも、明日の荷物が……」

「また口答えする、いけないやつだ。この唇が悪いのだな」

 雪子の顎を引き寄せて乱暴に唇を重ねた。


 古谷は後輩を誘って川縁の居酒屋で飲んでいたが、川風に当たって酔いを醒まそうと土手を上り、川面を見つめた。大きな柳の木が作った暗がりに男が立っていた。男の首には女の白い手が巻きついている。あのシルエットはもしや秋月さんか? 近づいて確かめようとしたら車が通り過ぎた。ヘッドライトに映された横顔、やはり秋月さんだ。白い手がだらりと下がって、女は気を失ったようだ。


「古谷さん、酔ったのですか」

「しっ、和田、静かにしろ」

 古谷は薄闇の先を指差した。秋月は気を失った雪子をキスしたままずっと抱きしめていた。古谷と和田は息を殺して見つめた。あんなに哀しく切ないキスは見たことがなかった。やがて秋月は気絶した雪子を抱き上げ、大通りへと消えて行った。

「西崎さんが東京へ戻るのでしょうか。古谷さん、あんなロングキスは初めて見ました。秋月さんは泣いていたように見えました」

「カミソリ秋月も恋人の前では普通の男だ。しかし哀しいキスだったなあ、淋しいなあ。あんなにもひとりの女を愛せるものだろうか? ふたりは3年以上の仲だ。なんだか泣けて来た。和田、飲み直そう」

 

 両頬を桜色に染めて泥のように眠っている雪子を見つめていた。抱かれて幸せになったときだけ頰と眼の周りに桜色が漂っている。秋月は最近それを知った。

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 そんな雪子が愛おしくて抱き包んでいたら、眼を閉じたまま首を左右に振ってイヤイヤをした。もっと抱かれたいときに雪子はそうする。

 秋月は“賢者タイム”で安らぐことも出来ず、再び雪子をかき抱いた。

 何度もイヤイヤを繰り返す雪子に、この泣き虫のニューロンはどうなっている? 幾度も発生するニューロンの同時興奮に、嬉しい悲鳴をあげていた。頼む、せめて5分は待ってくれ! 何もわからず無反応で、恐いと嫌がった雪子が1年も経たずに、ねだるようになった。幸せと思う反面、どんなに愛しても埋められない距離と時間に別れてしまうことが辛く、哀しかった。


「起きてください、7時です。スタッフミーティングは8時なんでしょう」

 雪子は紺色のワンピースで、耳には涙の雫があった。

「キミはいつ起きたんだ?」

「さあ早く、顔を洗ってください」

 信じられない思いで雪子を見たが、どこにも痴態の影はない。女子大生らしい聡明さと開花したばかりの華やかさをまとった雪子がいた。

「朝ごはんを持って来ます」


 やるせない思いでぼんやりしていると、朝食を運んで来た。珈琲にスクランブルエッグ、トーストとサラダだったがどこで用意したのだろうか?

「どうしたんです、さあ食べましょう」

「キミはキッチンに行ったのか?」

「はい、8時までキッチンには誰もいないと、山川さんから聞きました。ドキドキしましたが誰も来ませんでした」


「お願いだ、もう一度抱きたい。キミはいなくなってしまう、抱かせてくれ」

「えっ、もう時間が……」

「かまうものか」

 ドアには入室禁止のプレートが掛けられた。

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 午後6時のフライトで雪子は東京へ行ってしまった。

 空港ロビーの片隅でどんなに激しくキスしても、4カ月近くは会えない。結納を実現するまで雪子を我慢しよう。今の俺は幸せすぎる。ふと、不安が湧き上がった。ことさら明るい顔を装って雪子を送り出した。



◆ 順天堂大学で『心臓外科手術の近未来』を講演した。 


 突然、興奮した秋月から電話をもらった。

「おい、僕に会えるぞ! 10月31の日曜日、東京で講演する。順天堂大学の大ホールだ。夜は雪子の離れに京子先生と内村先生をお招きして、世話になったので一献差し上げたい。両先生は講演に招待させていただいた。旨い物を頼みたい。ただし、僕は古谷を連れて前日に上京する。呼び出すかも知れないぞ、覚悟しておけ。わかったか!」

 まったく蒼一さんは我儘なんだからと、電話をもらった翌日から雪子は、高嶋に教えてもらって秋月の浴衣を縫い始めた。


 前日、秋月は準備のために上京した。

 10月30日土曜日、授業が終って、赤い自転車をぶっ飛ばして戻った雪子を待っていたものは、博多の銘酒『百年蔵』が5本と明太子など数種類の海産物だった。

 明日は高嶋先生のお許しをもらって、魚政さんにお造りをお願いしよう。雪子は、明日の用意にがめ煮の下拵えをしていたところ、

「すぐ来い、ホテルニューオータニだ。フロントに言えばわかるようにした。待っている」

 いつもと変わらない短気な秋月だった。


 慌てて出かけようとした雪子に高嶋は、

「今のは秋月先生ですね。私にも講演会の案内が届いています。雪子さん、この着物を着てお会いしなさい。あなたのために作らせたものです。くれぐれも粗相のないように」

「えっ、このような立派なお着物を私に……」

「今回の講演は秋月先生にとって東京でのお披露目です。私の弟子で茶人であれば洋装では行かせません。明日はしっかりと秋月先生を見届けなさい」

 高嶋は帯を結んでやり、最後に帯の正面をポンと叩いて、珍しく微笑んだ。着物は浅緑の縮緬地に金の流水が描かれ、艶やかな紅葉が歌うように踊っていた。


 ニューオータニのフロントでルームナンバーを聞いた雪子は、ぽっと顔を赤らめた。秋月と初めて結ばれた部屋だった。

 ドアを開けた秋月は、キスすることすら忘れて驚いた。

「その格好はどうしたんだ? Schöne(=綺麗だ)! 古谷くん、早く来てみろ。何だかおかしな雪子がやって来た!」

「そんなこと言わないでください。高嶋先生が私のために誂えてくださったお着物です。明日は蒼一さんの東京での大事なお披露目なので、茶道を志す者は着物で行きなさいと、帯まで結んでくださいました。そして、粗相のないようにしっかりお努めなさいと言われました」

 雪子は頰を染めて俯いた。


 古谷は秋月の表情を見て笑ってしまった。

「やあ、秋月夫人ごきげんよう。僕は失礼します」

「古谷くん、6時に SKY DINING で晩飯にしよう」

 先刻まで原稿を手にして真剣な表情でスピーチの時間を計り、スライドやパネルを挿入するタイミングをリハーサルしていた秋月が、雪子と会った途端に相好を崩してしまう姿に、古谷はただ呆れるしかなかった。

「この部屋は忘れられません」

「そうだ。雪子が本当に僕の人になってくれた部屋だ」

 いつもより激しいキスの嵐が始まった。

「蒼一さん、ヒゲが痛いです!」

「ははっ、キスする相手がいないので伸ばしただけだ。痛いなら剃ってしまおう、嫌われたくないからな」

 秋月はあっさり剃り落とした。

「ヒゲがない蒼一さんの方が好きです」

「そうか、これならいいだろう」

 いつものお決まりのディープキスが始まった。

 SKY DINING で古谷はヒゲがない秋月に気づき、

「剃ったのですか、やっと整って来たのに残念です」

「痛いと嫌がったので剃ってしまった。何とも面倒なやつだ。そうだ、食事の後、ラストの部分だけリハーサルして終わりにしよう」


 部屋に戻り、秋月は古谷とリハーサルを続けた。

「よし、お疲れさん! 完璧だ。講演が終わったら雪子の部屋で飲み会をやる。古谷くんも来ないか、日大病院の女医さんと恋人の先生がお見えになる。ただし、泊まりの飲み会だ。雪子は大きな屋敷の離れに住んでいて、贅沢にも八畳と四畳半の茶室を使っている」

「古谷さん、ぜひ来てください。お兄ちゃんも来るし、母屋には秀明斎先生の先生がいらっしゃいます」

 古谷は、東京で一人暮らしをしている女子大生の部屋に興味があった。

「お邪魔でなかったら参加させてください」

「明日の朝食は8時に予約した。じゃあ、お休み」


 雪子を立たせたまま帯〆と帯あげを解き、帯をグイッと引っ張り、くるくると華奢な体を回転させた。秋月は目を細めて一度はやってみたかったと嬉しそうに笑った。

 紅葉散らしが染められた長襦袢の衿元を大きく開き、衣装ぼくろを見せた雪子に欲情して、

「ああ、もうダメだ、我慢できない、ここにおいで。でもイヤイヤしないでくれ。たっぷり優しく愛してあげるから、一度っきりにしてくれ。わかってくれるか、頼む、お願いだ」

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◆ 50年前、秋月が述べたことは全て実現した。


 秋月の講演は午後1時から始まった。難しい手術を必ず成功させる秋月に興味を持った医療関係者や報道各社が押し寄せ、大ホールは立錐の余地がないほどだった。秋月は時々雪子と視線を絡ませ、悠々と講演を進めた。


『心臓血管外科の近未来』というタイトルで、心臓血管外科は急速な発展が望まれている分野だと言及し、BTシャント術や脳潅流法の改良点を述べ、シート式気泡型人工肺の接続時間の長時間化が多くの患者を救えると告げた。

 その当時、賛否両論だった「心臓移植」に関しては、今を生きている命を救うために自分は賛成だとはっきり述べた。

 近未来においては、補助人工心臓(VAD)や人工心筋、人工血管、手術ロボット等に関して自説を展開した。医者個人の職人芸に頼っている現在の心臓外科手術から、全ての患者さんが安全で安心できる手術を受けられる時代が必ず訪れると説いた。これは心臓外科医の技術の向上と言うより、関連医療機器の開発、内科的治療や診断技術の進歩によるものだと、講演を結んだ。約50年前に秋月が述べたことが現在では全て実現している。


 最後に助手を務めた古谷を壇上に呼び戻し、「助手を務めた古谷くんは九州大学の医学生ですが、心臓外科医を目指しています。彼のような心臓外科医のタマゴが成長できる環境を整えることも今後の大きな課題です」と紹介した。壇上の古谷は突然のことで驚き、聴衆に一礼するのがやっとだった。


 講演中の秋月を見た星野京子は、秋月ってああいう顔をしてたか? あんな男だったか? 線が細くて神経質そうに感じた記憶はあるが、鮮明には思い出せなかった。隣で熱心に聴いている涼に、

「秋月ってあんなに堂々とした立派な医者になったのか? こんな偉そうなことを言い切る男なのか?」

「姉ちゃん、うるさいなあ! そうだよ。秋月さんはいい仕事をするたびに顔が変わった。ただユッコの前では違う顔だ。ウソつきでごまかす、信用できない男だ」


「蒼一さん、お疲れ様でした。講演のメモを取りました。何度読み返しても凄いと思います。蒼一さんの考えが実現すればいいなあ、私には想像できない世界です。蒼一さんはやっぱり凄い人です! ホントにそう思いました」

「すごく綺麗だよ! 雪子の応援で無事に講演できた。惚れ直してくれるか? ご褒美が欲しいなあ」

 控室に訪れた雪子を引き寄せて、人目を気にせずディープキスを始めた。周囲は驚いたが本人はまったく馬耳東風だった。顔を赤らめた雪子が、

「お願いです、準備があるので帰らせてください。古谷さん、お先に失礼します」

 恥ずかしそうに帰って行った。


 かつて、古谷は秋月の東京講演の助手に抜擢されて、秋月チームに挨拶に行った。学生の自分が助手に任命されたことをチームスタッフに詫びたとき、

「古谷くん、何か勘違いしていないか? 僕らは院長が不在のときは院長の代理で執刀する。院長の名を汚さないように細心の注意を払って務め上げねばならない。僕らまで留守するわけにはいかない。君はまだ医者ではない。学生の君を連れていく院長の心が読めないのか? 院長は心臓外科の将来を考えている人だ」

 そのとき、秋月は人目を気にせず雪子とキスをすることを教えられた。それは3年ぐらい前からの病気みたいなもので、それさえ出来ればご機嫌だが、雪子さんが拒んだときは、必ず四方八方に雷が落ちるから用心したほうがいいとアドバイスを受けていた。


 ふたりは地下鉄で銀座四丁目の交差点に出た。

「古谷くん、東京は初めてか?」

「修学旅行で来ましたが、どこへ行ったか覚えてません」

「そうか、今日はご苦労さまだった。ちょっと付き合ってくれないか」

 ふたりは四丁目の『和光』に入った。

「僕の助手を完璧にやってくれて感謝している。キミに必要になるときがあるはずだ」

 秋月は小さなハートを形どったタイピンを手に取り、

「このハートはキミの心臓ではない、患者さんのだ。これを贈らせてもらおう。いつかキミが心臓外科医として独り立ちをしたときに着けて欲しい」

 古谷はこれを貰う資格が自分にはまだないと辞退したが、秋月は古谷の手にタイピンを握らせた。


「雪子にも何か贈りたいが、いつも何もいらないと言う。僕はがっかりだ。アイツの誕生石はダイヤだ。engage ring は欲しくないかと訊いたら、ふーんと軽蔑されて恥ずかしく思った」

「秋月さん、どうでしょうか。ダイヤを体に埋めるんです。誕生石を体に埋めると魔除けになると聞きました」

「どういうことか?」

「指輪がいらないと言う人なら、眠っているときに、そっと、そうですね、ヘソの下や人目につかない場所に埋め込むんです。秋月さんならすぐ出来るでしょう」

「そうか、そういうのもいいなあ、僕だけが知ってるダイヤか。古谷くんは詳しいなあ」

 秋月はダイヤを1粒買ってポケットにしまった。ふたりは顔を見合わせてニタリと笑った。


 それから、3カ月前に三越デパート銀座店にオープンしたばかりの『マクドナルド』に入り、200円のハンバーガーを食べ、酒のつまみにマックフライポテトをテイクアウトした。ここが日本でのマクドナルド1号店だった。



◆ 雪子の離れで飲み会が始まった。


 高嶋邸を訪れたとき、星野、京子とマサオはすでに百年蔵を飲っていたが、秋月はまず高嶋に挨拶に伺い、雪子への厚意に感謝した。

「雪子さんは粗相なく先生に尽くしましたか」と真正面から問われ、

「はい、十分に……」

 さすがに秋月は恥ずかしくて下を向いて応えた。


 本日、サポートしてくれた心臓外科医のタマゴだと古谷を紹介した。高嶋はしばらく古谷を眺めて、

「古谷さん、あなたは雪子さんと同じ眼をしています。必ず、ご自分の意思を貫かれる方でしょう。秋月先生、良い方に巡り会えましたね」

 そう言って古谷に優しい眼を向けたあと、秋月に視線を移し、

「秋月先生、茶の道は人の生き様と同じです。悩み、苦しみ、もがき、そして何かを見い出したときに茶の味は変わります。雪子さんはまだ迷いと不安が残っています。なぜでしょうか? それは先生がだらしないからです。本当に雪子さんを幸せに出来るのですか?

 先生が雪子さんを愛されていることはわかっています。それでも雪子さんは何か吹っ切れない思いを抱いています。私は毎朝雪子さんの茶をいただいています、だからわかります。雪子さんの迷いと不安を消すことが出来るのは先生だけです。雪子さんの心をわかってください」

 秋月は無言で頭を垂れていた。それは、古谷が見た哀しいディープキスの秋月と同じ姿だった。


 秋月は母屋から戻ると京子と内村の正面に正座をして頭を下げた。内村は、雪子は真実を知らない、まして涼や客人がいることを考えて、

「ご高名な秋月先生とお会い出来て光栄です。先生、どうぞ頭をお上げください。素晴らしい講演で感銘いたしました。まず一献お願いします」

 内村は気遣った。

「お帰りなさい! 待ちくたびれて先に飲んでます。古谷さん、今日は蒼一さんを助けてくださってありがとうございました」

 雪子は礼を述べ、古谷に酒を勧めた。


 室内を見渡した古谷は驚いた。これが女子大生の部屋か? ぬいぐるみや女性の人気雑誌『an・an』はなく、小さな文机と電気スタンドがあるだけで、無駄なものは一切なかった。まるで寺の宿坊のようだと感じた。

 古谷の視線に気づいた星野は、

「ユッコは、起きて半畳、寝て1畳とかバカなことを言っているヤツです。ああ、僕はユッコの兄ですがニセモノです。これは秘密なのでご容赦ください」


 古谷は3年前の夏を思い出した。オレの妹に何か用かと遮った男だ。

「ニセモノというと?」

「秋月さんの密命を帯びてユッコを守っているだけです、気にしないでください。それよりも姉と恋人を紹介します」

 密命? 秋月さんはこの男に見張らせているのか? こんな男がいては余計に心配ではないか? 古谷は不思議に思った。


「蒼一さん、お風呂沸いてまぁーす。講演でお疲れでしょう、早く汗を流してください。飲み過ぎないうちに入りましょう。浴衣を縫いました。着てくださーい」

「そうか、悪いなあ。古谷くんもどうだ。男ふたりで入っても十分だぞ」

「いや、僕は後で使わせてもらいます。秋月さんどうぞお先に」


 秋月は双眸(そうぼう)を崩して雪子と浴室へ消えた。「はい、どうぞ」と雪子の声がして、秋月が風呂に入った気配がした。雪子は外で待っているようだ。

 ふーん、京子は呆れ過ぎて酒が進まなかった。秋月が医者として想像以上に成長していたこと、我儘な秋月に雪子が従順すぎること、このふたつが気に入らなかった。多分、風呂上りの秋月は雪子から拭いてもらうだろう。面白くなかった。


 雪子が縫った浴衣は行きも丈もぴったりだった。浴衣の上に半纏を着せてもらい、ご満悦の表情で酒席に戻った。古谷にも着替えの浴衣と半纏が用意され、広々とした気持ちのいい風呂を楽しんだ。ここはまるで宿坊か民宿みたいだ。秋月さんは変わった人だが、こんな部屋に住んでいる西崎さんの方がもっと風変わりな人かも知れないと思った。


「さあ、いつ酔いつぶれても平気です。じゃんじゃん飲りましょう! マクドナルドのマックフライポテトもありまーす」

 トースターでカリカリにしたポテトが珍しく、これがアメリカの味かとみんなで食べた。

 母屋から布団を運んで部屋の端に積み上げ、星野は陽気に音頭を取った。

 博多の銘酒 百年蔵は雪子が用意した“がめ煮”や魚政の江戸前のお造りを引き立て、食べては飲み、飲んでは食べ、夜が更けるにつれて話が弾んで行った。


 秋月は故意に雪子に酒を勧め、「あふっ」と呟いて眼を白黒させた雪子を隣の茶室へ運び、寝かしつけてしまった。

 戻るなり正座して、京子と内村に「雪子が大変お世話になりました。申し訳ありませんでした」と、深々と頭を下げた。星野は何かあったなと察したが、

「秋月さん、子供は寝たことだし、どうしたんです。もっと飲みましょうよ」

 酒を注いだ。

 古谷は話を聞いているうちに、誠実で飾らない人柄の内村にすっかり魅かれてしまった。内村を中心に座は和み、秋月もよく喋り、よく飲んだ。なぜか京子は静かだった。心のどこかに秋月を男として意識している自分に気づき、えっ、これは? 面食らっていた。全員に酔いが回った午前2時、宴はお開きとなった。


 京子の隣で内村が熟睡していたが、珍しく京子は眠れずに悶々としていた。隣室は物音ひとつしない。秋月はおとなしく寝たのかと思ったそのとき、ささやき声が聞こえ、京子はつい耳を澄ました。

 雪子の声が漏れ聞こえたが、恐らく唇を塞がれたのだろう、静かになった。その後リズミカルな衣擦れの音が伝わって来た。それは、終わったかと思うとまた続き、いつまでも続いていた。

 ♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡。

 京子はやるせない思いでマサオに抱きついたが、マサオは目を覚まさなかった。星野と古谷は気持ち良く酔っぱらって爆睡していた。


 翌朝、雀の癇にさわる鳴声と、星野と雪子が雑巾掛けで競争している騒ぎで京子は起こされた。

 涼はいったい何してるんだ! 雪子が秋月に抱かれていたことも知らずに、バカな弟は雪子とふざけあって廊下を拭いている。

 隣室の襖を静かに開くと、秋月は満ち足りた幸せな表情で眠っていた。30過ぎた男の顔ではなかった。理由もなく腹が立ち、眠っているマサオを起こそうとしたら、

「しっ、静かに。秋月さんは眠らせておこう。病院に戻れば院長だ。心が休まることもないだろう。せめてもの救いが雪子さんらしい。甘えてねだっていた。あれが秋月さんの素顔だ。しばらく会えないのだから大目に見てやれよ。男とは悲しい生者(せいじゃ)だ。女とやりたくてたまらないときがある。しばらく会えないと知ったらなおさらだ。わかってやれよ」



◆ ジェネレーションギャップとは言えなかった。


「7時でーす、起きてくださ~い。蒼一さんも起きましょう。私たちは学校に行きます。お風呂は沸かしました、すぐ入れます。朝ごはんは茶粥でーす。お酒の後は茶粥がいちばんです」

 元気な雪子の声で起こされた。


 何だもう朝かぁ、なぜ朝なんだ? 思考をまったく放棄した秋月はふーっと微睡んでいた。

 どんなに虐めても跳ね返してくる泣き虫には、このところ負けっぱなしだ。俺を残してさっさと大学に行くんだと? 見送って涙のひとつも零すのが恋人だろう。何だ、アイツは! 腹を立てた秋月は顔も洗わず、台所にいた雪子を捕まえてディープキスに挑んだが、「うわっ! お酒臭いです!」と逃げられてしまった。

 歯を磨こうと洗面所にいた古谷は、その光景をまともに見てしまった。帰りの飛行機で雷が落ちると覚悟した。


「おい、僕を置いて大学へ行くのか?」

「だって、今日は試験なんです、遅刻できません。これを落とすと大変なことになります。そうですよね、星野さん」

「そうです。教授の都合でこんな時期に試験になったのです。受けないと単位が消滅します。とにかく僕らは出かけます。行こう、ユッコ」

 赤い自転車に仲良く相乗りしてふたりは遠ざかった。

 くそっ、何だ、アイツらは! 秋月はくっきりと青筋を浮かべて怒っていた。京子と内村はバイクで走り去った。勤務医の仕事が待っているのだろう。布団を畳んで古谷は庭に出た。

 いい庭だ。野鳥が来て何かをついばんでいた。陽光は余すところなく辺りに満ち溢れ、木々の上には巣箱が設えてあった。あの巣箱はニセの兄が作ったものだろう。こんな所に住んでいると、秋月さんに会っていくら口説かれても、ここに戻ると全てが別世界の出来事に思えるかも知れない。秋月の苛立ちがよくわかった。

 古谷が茶粥を秋月に出すと、

「雪子が作るお粥は旨いぞ。生米から炊くらしい」

 秋月は淋しそうに小さく笑った。


 福岡に戻る機内で古谷が怖れていた癇癪や八つ当たりはなかった。

 秋月はイヤホンで音楽を聴きながら穏やかだった。イヤホンを外して古谷に言った。

「古谷くん、僕のような恋、いや、恋ではなくて愛だ。そんな苦しい愛はするな! 僕はいつも雪子がわからなくなる。腹が立って首を絞めたくなったときもあった。どんなに抱いても古谷くんが見た通りの結末だ。僕を弄んでいるのかと疑うと、アイツはそうではないと泣く。その繰り返しだ。雪子と僕は何度この距離を往復したのだろう。縮められたかと思うとそうではない」


「僕は秋月さんみたいにひとりの女性をそんなに激しく愛したことがありません。ただ、思うことは……」

「ただ、思うことは?」

「すみません、わかりません」

 それはジェネレーションギャップではないかと言いたかったが、言葉を呑み込んだ。秋月の悩みをひとつ増やす気がして、古谷は黙った。


 ふたりは秋月病院に戻った。

 病院に古谷を伴なって帰還した瞬間から、秋月の表情は院長に変わった。フクニチ新聞に秋月の東京講演が詳しく報じられ、スタッフの笑顔と拍手に迎えられた。

「留守して迷惑をかけた。何か問題はなかったか? スタッフ全員に感謝する、ありがとう。ご苦労さまだった。日誌を見せてくれ」

 いつものカミソリ秋月に戻っていた。古谷はスタッフから労いの言葉を受けながら、ポケットにある秋月から贈られたタイピンを握りしめた。秋月さん、西崎さんと暮らせる日までどうか踏ん張ってくださいと願った。

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