第21話 隠された自然流産
◆ セクトは激化したが、大学は平穏に戻ったように見えた。
早稲田大学では文学部校舎および本学4号館を拠点とする民青と革マル派や中核派が、学内で小規模の闘いを繰り返していた。今年に入って京浜安保共闘の横浜国大生が、銃砲店を襲って散弾銃と散弾を奪った事件や、成田闘争の激化、赤軍派による銀行強盗など、空虚な理論を掲げて一般人を巻き添えにする過激派セクトは、一般学生や民衆の支持を失い、さらにセクト間の対立を深めていった。授業は7割程度が開講されたが、学内のタテカンは並べられたまま朽ちて行った。
「親父から聞いたが、盛大なお披露目だったらしいな。ユッコが紹介されたんだってな。赤いドレスで綺麗だったと言ってた。親父は感激してたぞ。それでオマエは秋月さんの嫁さんになるのか?」
雪子は「うん」と頷いた。
「良かったなあ! プレイボーイで有名な秋月さんが年貢を納めたのか。ユッコ、幸せになれよ」
星野は、雪子が死んだら自分も死ぬつもりだった秋月を思い出した。
雪子は健康を取り戻して2冊の講義ノートを作り続け、星野が許した飲み会や合コンに参加し、秋月が嫉妬する大学生活を過ごしていた。星野は学内では雪子と秋月のことは誰にも喋ってなかった。
6月中旬、山川は1週間の休暇を申請した。
「山川くんは休みも取らずに働き続けだ。好きなだけ休暇を取ってもかまわないよ。ところで何かあったのか? もしよかったら話してくれないか」
「弟がやっと結婚しそうなんです。お相手の方と会ってくれないかと言ってます。それで東京に行きます。半年前から東京の江古田と言う町に住んでいます。雪子さんに会ってもいいでしょうか?」
「雪子に? 会ってどうする?」
「どうもしませんよ。お元気かどうか見てくるだけです。江古田って雪子さんのとこに近いらしいです」
「そうか、いつも僕から逃げ出すやつだ。それでは手紙を預かってくれるか。電話では元気だ、元気だと言うが、まったく信用できないからなあ」
◆ 隠された早期自然流産。
6月23日(水)。
眼が覚めて異変に気づいた。突然に生理が始まって、その出血がいつもより多く、幾度もナプキンを取り替えて、トイレに駆け込んだ。やっとの思いで廊下を拭き、星野に大学を休むと告げた。「何だぁ? また腹でも下したのか」と星野は笑っていた。
これほどの経血は経験がなく不安だったが、どこも痛くないので、静かにしていれば治ると思い、縁側に座って静かにしていたが不安はだんだん膨らんで行った。
「こんにちは。雪子さーん、山川です、いますかあ?」
「はあ? 山川さん?」
秋月病院の山川が立っていた。いつもは婦長のいかめしいナースキャップ姿の山川が、人のいい世話好きな普通のおばさんで立っていた。
「うあ、嬉しいです! えっ、どうしたのですか? まず、どうぞお上がりください」
慌ててナプキンのパッケージを片付けて、居間に上がってもらった。炉に火を入れて茶を点てた。
「まあ、雪子さんのお茶は美味しいこと! 10年寿命が延びた気がするわ。突然お邪魔しても会えないのかなあと思っていたけど、大学は休みなの?」
「いえ、今日はちょっと休んじゃいました。あっ、ちょっとすみません」
雪子は席を外した。山川は雪子の様子がおかしいことに気づいた。1時間足らずのうちに3回もトイレに消えた。腹痛ではなさそうだ。もしかしたら……
「月経なの? いつから?」
「はっ、はい、今朝です」
「何回もトイレに行ってたでしょ、いつもよりすごく量が多いの? 治まりそうな気はしないの? お腹や腰は痛くないの? その前の月経はいつだった?」
「確か4月の中頃でした。でもどこも痛くありません。止まらない感じなので不安なんです」
山川はトイレの隅に置かれたホーロー引きの壺の中を見た。この量は危ない。通常の経血は50~130ccだが、ざっと見て150ccは超えていると判断した。
「雪子さん、出血が止まりそうにないので病院に行きましょう。早く京子さんに電話しなさい」
「いえ、いいです。じっとしてると止まると思います」
「もう、わかんない人ね、死んでもいいの? 死ぬこともあるのよ! 私が電話します!」
日大板橋病院に連れて行かれた雪子は、ベッドに寝かされて止血剤の点滴を受けていた。
処置室の外では星野京子と産科医の内村マサオと山川が額を寄せ合っていた。
マサオが山川に説明した。
「検査は陽性でした。山川さんが持参された検体から出血量を推定すると、おそらく10週前後の自然流産と考えられます。凝血塊を組織検査したところ受胎産物が認められたので、不完全流産の恐れはないと思います。今は止血剤を投与しています。内診の必要はないでしょう。2日ぐらい安静にすれば若いから大丈夫でしょう。通院の必要もありません。
かつて秋月先生には、雪子さんはまだ体が出来ていないので、無茶したら母子ともに危ないと、くれぐれも申し上げましたが、残念です。守って欲しかったと思います。山川さんが連れて来なかったら、雪子さんはどうなっていたか考えるとぞっとします。二度とこのようなことにならないよう、医者の秋月先生には自重していただきたいです」
「まったく、しょうがない、秋月め! ところでマサオ、雪子に本当のことを言う必要があるか? 結婚もしてない学生なのに流産だなんて、私は言いたくないし、言えないよ! アイツのことだからシクシク泣いて秋月に謝るんだろう。そんな辛いことをさせたくない! それが心の傷になって残るかも知れない。出来れば月経過多で治療したことで済ましたいが、どうだ?」
「京子先生、それでお願い出来ますか、お願いいたします。私は雪子さんが好きなんです、娘のように心配なんです。秋月院長には本当のことを言います。本当に申し訳ありません。雪子さんに付き添いますので、何かあったらお願いします。秋月に代わってお詫び申し上げます。本当に申し訳ありません」
「いいよ、いいよ。山川さんが悪いわけじゃない、これは秋月が悪い。秋月は家庭や子供を欲しがっていると聞いた。多分、確信犯だ。私は雪子が可愛いから秋月が嫌いなだけだ。雪子のパートナーがいきなり秋月じゃ可哀想だと思っているのさ。バカで不憫なヤツ……」
雪子と離れに戻って、秋月の手紙を渡してなかったことを思い出した。
「雪子さん、たいしたことでなくて良かったですね。もうすぐ出血は止まります。これを預かって来ました」
手紙を開いた途端に雪子は笑い出して山川に抱きついた。
そこには大きな相合傘が描かれ、蒼一と雪子の名前の下にたった1行、ich liebe dichと書かれていた。雪子は山川に抱きついたまま泣き出した。
「ホントは福岡に戻りたい」
そう呟いた。山川は雪子をしっかり抱き止めて、もらい泣きしていた。
山川は離れに泊まった。
雪子が安心して眠った後、山川は秋月に電話した。
「ああ、山川くんか。こんな時間にどうした? 雪子に会えたか?」
「雪子さんが流産しました。日大病院に行きました」
「はっ? 今、何と言ったか?」
「雪子さんが流産したと言いました」
「本当か? 雪子が流産! 雪子が……」
沈黙が流れた。雪子! 雪子! 秋月の絶叫が聞こえた。
「雪子はどこにいる? 大丈夫か? 話は出来るか?」
「雪子さんは家にいます。私の隣で若先生のラブレターを抱いて眠ってます。すごく喜んでました。私に飛びついて、本当は福岡に戻りたいと泣いてました。若先生、聞こえますか?」
「ああ、聴いている。山川くん、迷惑かけて申し訳なかった。悪いのは僕だ」
産科医の内村マサオの診断結果を告げ、星野京子の考えを説明した。そして雪子に真実を伝えないと決めたことも話した。経血が止まらない場合は貧血になるので、点滴で経血を止めたと説明するしかなかったと言った。
秋月は、このタイミングで山川が雪子を介抱したことが信じられなかった。考えたくないが、山川が訪れなければ、知識がない雪子は病院に行かず、出血多量で気を失っていたことだろう。死んでいたかもしれない。
「山川くん、本当に申し訳ない。ありがとう。お願いだ、明日も雪子に付き添ってくれるか?」
「頼まれなくてもそうします。ここはいい所ですねぇ。雪子さんとここで暮らしたくなりました。そして、時々やって来る若先生をふたりで虐めるのも面白そうです」
「わかった、もう許してくれ」
「それは雪子さんに言うべきでしょう。ただ、本当のことは絶対に言わないでくださいよ。心に傷が残って、行為そのものを嫌悪して拒否する症例もあるそうです。ひとつだけいいことがあります。流産したということは、排卵があって着床したということです。若先生、雪子さんに優しくしてください」
受話器を置いて、俺が悪い、許してくれと東の夜空に向かって謝った。おそらく、4月29日から30日にかけての行為で着床したのだろう。常軌を逸した回数の交歓を思い浮かべた。流産しても雪子には非はない。
この段階では母体の過激なスポーツや不適切な飲食は胎児とは無関係だ。そして12週を過ぎれば流産の確率は格段に少なくなる。早期自然流産の原因の大部分は染色体異常や遺伝子の病気だ。やはり内村先生の指摘を守らなかったからか。とにかく雪子に辛い負担をかけたのは事実だ。雪子、許してくれ。
秋月は声を殺して泣き続けた。雪子に詫びた。真実を伝えないと決めた人たちの思いやりに泣いた。そして、原因を作っただけで何も出来ない自分があまりにも情けなくて泣いた。
6月24日(木)朝8時、星野が駆け込んできた。
「ユッコ~ 起きてるか~ 腹イタだって? 姉ちゃんから聞いた。オマエが生きてるかどうか見て来いってさ。ヘソ出して寝てるから腹イタになったんだ。腹イタぐらいで病院に行ったなんて、まったく世話がやけるヤツだ」
星野はさっさと離れに上がり込んで来た。
「誰? このおばさん」
雪子の傍で寝ていた山川は驚いて起きたが、雪子はまだ眠っていた。
「おい、ユッコ、起きろよ、どうしたんだ? 腹イタだろ、だいたいオマエは大袈裟でしょっちゅう倒れる。なんとかしろ!」
「しーっ、雪子さんは疲れてます。眠らせてください、あなたは誰ですか? えっと、見たような」
「人に誰だと問う前に自分から名乗るのが礼儀だろう。おばさんは誰だ?」
「私は秋月病院の心臓外科、秋月蒼一チームで婦長を務める山川です。院長の用件で東京に来ました」
「へーっ、あの超有名な心臓オペチームの婦長さん? これは失礼しました。僕は星野涼、早稲田の3年生でユッコの兄です」
「ああ、あの京子先生の弟さんでしょ? 雪子さんのニセお兄さんをやってるという。この前、雪子さんと一緒に帰って来た、そうでしょう? そして若先生に意見したでしょ。でも、京子先生には似てませんねぇ。そうね、どちらかと言えば雪子さんに似てる」
「そう、ユッコも僕も色が白くて眼が大きい、そして顔の中心に造作が集まっているでしょう。だから兄と妹だと信用してくれるんです。そうそう、ユッコに食べさせようと『うろん』を4人分持って来ました。待っていてください。作ります」
まもなく3つの丼に「うろん」を作って持って来た。
「ユッコ、起きろ! 腹イタぐらいでいつまで寝てんだよ! ウンコ出せば終わるだろっ!」
雪子の頬をペタペタ叩いて起こした。
「あら、星野さん? どうして?」
「バーカ、姉ちゃんが腹イタのユッコを見て来いってさ。早く顔を洗って、食べろ。これは腹にいいぞ。『魚政』のニイちゃんが作ってくれたダシ汁だ。心配してたぞ。アイツ、ユッコに気があるんじゃないか」
わー、美味しそう! 雪子は眼を輝かした。
本当の兄と妹のように見えるが、この男の子は雪子さんが好きなのかも知れないと山川は思った。小ネギを散らした「うろん」は、アゴダシが効いてとても美味しかった。
「ユッコ、今日はさしたる講義はない、ちょろいもんだ。『政治理論演習』の大谷は、ユッコがいないとがっかりするだろうが、さぼろう。大谷が納得する言訳は後で考えようぜ。さあ、遊んでやるぞ! この前の続きだ」
ボール紙で作った碁盤と碁石を出してきた。
「あれっ、これは何だ?」
「やだぁ、返してよ!」
「いやだねー 何だこれは?」
星野が見つけたのは秋月のラブレターだった。開いた途端に星野は大声で笑い出し、
「あーあ、オマエみたいなバカを恋人に持つと、秀才の秋月さんも小学生レベルになったみたいだ。こりゃあ、おかしい!」
「早く返してよ!」
ふたりは部屋中をドタバタと追いかけっこした。随分と楽しそうだこと、大学生ってこんなものなの? だから、若先生は雪子さんを東京に行かせたくないのだと、山川はよくわかった。
帰福した山川はすぐ秋月に報告した。
秋月の瞼は腫れあがり眼の下に隈を作り、憔悴しきっていた。それに引き換え、真実を知らない雪子さんはすっかり回復しただろう。山川は複雑な思いに沈んだ。
山川の眼の前で秋月は星野京子に電話を入れた。
秋月は謝りっぱなしだった。
雪子は秋月の都合のいい道具ではない、なぜ避妊をしないのか。避妊をしないなんて、本当に雪子を愛しているとは思えない。勝手すぎる。雪子を普通の大学生として卒業させろ。妊娠させて自分の手元に取り戻そうなんて、姑息な策を考えるな。雪子の人格を否定するのかと、歯に衣を着せぬ口調で攻められた。
どれほど雪子を愛しているかを話しても、それとこれは違う。雪子の自由を奪うな、卒業までつきまとうなと言われたとき、秋月は憤怒をあらわにし爆発寸前であったが、うなだれて自重した。
山川はドキドキしながら聞いていた。やがて、秋月はふーっと大きなため息を吐き、礼を述べて受話器を置いた。
秋月は額に手を当て眼を閉じて考え込んでいた。
「そうだな、ああ言われても仕方がないことをした。雪子の人格を否定するのかと言われても何も言い返せなかった。僕は避妊していると雪子には言っていた。騙していた」
「京子先生は乱暴な表現をなさいますが、腹はまっさらな人です。雪子さんの将来を考えてウソをついてくれました。弟さんには腹痛ということにして、見て来いと言われたようです。京子先生がカルテを書き直すのを見ました」
「そうか、悪いことをしたな」
秋月は元気なくポツリと言った。
そのとき、電話が鳴った。
「はい、秋月病院 院長室です。どちらさまで?」
「私です、雪子です。山川さんでしょ、ありがとうございました」
「元気になりましたか? もう止まったの?」
「はい、ほとんど大丈夫になりました。本当にお世話になりました。廊下の雑巾掛けまでしてくださって、ありがとうございました」
「お陰で私は筋肉痛です。あれを毎日やると間違いなく立派なお母さんになれます。もうお兄さんは帰りましたか?」
「はい、夕飯を食べて8時頃に帰りました」
何だと! 星野は8時までいたのか……
「おい、僕だ。元気になったか?」
「蒼一さん、いたんですか」
「雪子、悪かった。あんなに約束したのに騙していた。すまない」
「???? 何の話でしょうか?」
山川が慌てて白衣の袖を引いた。
「うっ、何でもない。雪子が元気になってくれて、僕は何か勘違いしたみたいだ」
「????」
「僕はいつも雪子を待っている。どんなに雪子を愛しているかわかっているか? 早く戻って来なさい。いつ戻って来るのか? この前の披露パーティの写真を見せたい。早く戻って来い!」
秋月は、あっちへ行けと言うように掌をヒラヒラさせて山川を追い払おうとした。これじゃあ、若先生はまた同じことをやりそうだ。まったくおぼっちゃまなんだからと、本当に怒って出て行った。
古谷からたくさんの写真が同封された手紙が届いた。
…………………………………
西崎雪子 様
秋月さんを置いて東京へ戻った君だ、元気で頑張ってると思う。
遅くなったが披露パーティーの写真を同封する。僕は高校のとき写真部だった。世界中を飛び回って報道写真を撮りたいと真剣に考えたときもあったが、あっさりと現実に負けて夢は放棄した。
僕のオススメの写真は、赤いセクシードレスの君だ。あのドレスは腰椎まで見事に晒していた。君の腰と背中を見せたくなくて、秋月さんが涙ぐましくカバーしていたが、カバーすればする程、人の視線はそこへ集中する。それがおかしくて連写した。この写真は面白いだろう?
次は君と秋月さんの視線がクロスしているシーンだ。姉は、こんなに優しい眼の秋月さんは見たことがないと口を閉ざした。
秋月さんが大きな手術に成功して、塾の前で君を抱きしめていたのを思い出した。あのとき僕は、姉のように捨てられる女を見たくないと目を閉じた。あれから季節をいくつ越えたのだろうか。昨日のようにも思える。
ひとつ報告することがある。君が服を血だらけにして介抱した高校生は、九大医学部に合格した。彼が欲しがったので君の写真を1枚渡した。
最後にもうひとつ報告する。塾は今年も君に講師をお願いすることを決めた。近日中に書類が届くはずだ。中学部・高校部を任せたいらしいが、君は今までのように幼稚園クラスと小学生クラスに向いていると僕は思っている。子供は子供を教える方がいいだろう。
僕のイメージに生きる君は、スニーカーを履いて首からポシェットをぶら下げ、着物の裾を摘んで脇目も振らずに疾走するシーンだ。あれは強烈に記憶に残っている。
先日、秋月さんに医師国家試験のことで教えてもらったが、僕は君以下だと言われた。あの人の教示は厳しい。君はよく頑張ったものだと見直した。今年も会おう。楽しみだ。
古谷 潤
…………………………………
◆ 雪子は秋月から創られたのか、天性か?
あの件が薬になったのか雪子が傍にいなくても、秋月は穏やかな表情を浮かべ、落ち着いた態度で仕事に集中していた。唯一の息抜きは雪子とのシンデレラタイムの電話だった。
「ふぁい、雪子です」
「何だ、頼りない返事だなあ。元気か? 僕のカンでは京子先生とマサオ先生が近日中に離れへ来ると思うがどうだ?」
「どうしてわかるのでしょう? 3日の土曜日に私を脅かしに行くと電話がありました」
「おふたりには雪子のことでお世話になりっぱなしだ。酒豪だとお聞きしたので博多の酒を送る。思う存分宴会をやってくれ。僕も仲間に入りたいがそうもいかない」
「はい、そのときは美味しいおつまみを作ってもいいですか?」
「いいとも、特別に許そう」
「京子先生のこと怒ってませんか? 私がいろいろとお世話かけた後、蒼一さんにキツイことを言ったのかなあと心配しました」
「お礼の電話をしたが、特に何もおっしゃらなかった。星野はどうだ、キミのお兄ちゃんは元気にしてるか?」
「お兄ちゃんはものすごい美人に振られて元気ありません。バイトもやる気がなくて、私が代わりに取材に行きました。どうしたんでしょうか?」
「ふーん、どんな人なのか? 星野を振った女性は」
「えーと、パートナー校のトンジョ(東京女子大学)の人で、星野さんより背が高くて、エキゾチックでグラマーな人です。あんなすごい美人に生まれたかったと羨ましく思いました」
「星野は僕と同じぐらいだ。175センチはあるだろう。それ以上に大きい人なのか?」
「そういうミス・ユニバースみたいな人ばっかり追いかけて、いつもうまく行かないようです。振られると私に八つ当たりするんですよ。ノートの文字が薄くて読めないとか、ミニスカートはやめろとか、そうだ、イヤリングなんて似合わないって、完全にトバッチリです」
星野は雪子の影を消そうと無理している、秋月にはわかった。
7月3日(土)、離れで宴会が開かれた。
秋月は博多の蔵元「石倉酒造」の『百年蔵』の一升瓶を3本と玄海ふぐの珍味漬けを送って来た。雪子は昼過ぎから酒の肴を用意していたが、星野はデートで遅くなると電話が入った。
京子とマサオが高嶋に挨拶して離れを訪れた。
「なんだ、バカな弟がいないじゃないか。どうしたんだ? 姉と会うのが恐ろしくて逃げ出したのか?」
「ふふっ、デートで遅くなるそうです」
「ヘェ~ まっいいか! これか、秋月が送って来たという酒は。マサオ、この『百年蔵』は博多を代表する地元の酒だ。粋なことをするなあ。秋月は飲むのか?」
「たくさん飲まれたのを見たことはありません。急患が入った場合や緊急オペを考えて、夜はブランデーですが飲み過ぎることはありません。休暇の昼間は Budweiser でしょうか」
面白くないヤツだと京子とマサオは顔を見合わせたが、大学病院の勤務医と病院の全責任を担い、しかも心臓オペのチームリーダーである秋月とは違う。ふたりは秋月に同情した。
「酔っ払う前に雪子に言っておくことがある」
「はい、何でしょう」
「アンタに男のエチケットについて教えたことがある。覚えているか?」
「はい、覚えています」
「だったら秋月に抱かれるとき、あいつが本当にエチケットを守っているか、確認したことはあるか? 見たことがあるか? ああいう男はウソをつくことがある。これからはその大きな眼でしっかり確認することだ。わかったか。バカをみるのは雪子だ」
確認したことがない雪子は恥ずかしくて返事が出来なかった。
「さあ、マサオ、飲も、飲も!」
日本酒は米どころの北国の酒がいちばん旨いと主張するマサオに、清浄な水と温暖な気候が育てる九州の酒は、北国より芳醇だと引き下がらない京子。呑兵衛談義が佳境に入り、2本目の瓶の口を切ったときに星野がやって来た。
「ごめん、遅くなって。ユッコ、飲む前に何か食わしてくれ。腹減ったぁ!」
「どうしたんですか、デートは?」
「ん、まあな…… まあまあだ」
どっと3人は笑った。雪子が作ったつまみが旨くて酒が進んだ。
「雪子も飲めよ。どうせ飲んでないんだろう。秋月さんの酒だ。飲んでやれよ」
じゃあ少しだけと盃を出した。
「あれっ苦くない、すっきりして美味しい」
注がれた酒をにっこり笑って飲み干し、「はい」と言って盃を差し出し、また飲み干した。どれほど飲んだのか、ほんのり瞼を染めてコトンと盃を置き、「ああ……」と呻いて後ろに倒れそうになった。心配顔で控えていた星野が抱き支えると「うふっ」と笑い、やるせなく喘いで星野の腕の中に崩れ堕ちた。
「見たか、マサオ。雪子のあの色っぽさを。女の私がゾクッとしたほどだ。秋月が教え込んだのか?」
「俺なんかムラッとしましたよ。あれは天性でしょう。教えたってどうにもならないでしょう。秋月さんは最後のドアを開けたら、そういう素性(そせい)の人と出会って夢中になった、そうでしょう」
「そういうことか、秋月がどうしてあんなに雪子にご執心なのかよくわかった。無茶するなと言われても暴走した理由がさ」
「多分、そうでしょうね。雪子さんは気づいてないようですね」
「姉ちゃん、何を言ってるんだ? ユッコはどうしよう?」
「酔っ払った子供は寝かしてやれ。大人だけで酒盛りしよう」
「秋月さんはどうしてユッコに夢中になったんだ? 何か言ってたけどわかんないよ」
「オマエは雪子を見てわからなかったか? 別人のように艶っぽい雪子を。バカな弟よ。オマエも子供だな。雪子のお守りでもしてろ」
風は雨戸を叩き、締め切った部屋は生暖かく気だるい空気が充満していた。星野は眠っている雪子の隣に寝転び、時々雪子を気遣っていた。隣室では京子とマサオが抱き合って眠っていた。
雪子は汗をかいて額に髪の毛がべっとり貼りついていた。額の汗を拭いてやった星野を、眠ったままの雪子は手を伸ばして引き寄せた。星野は初めて雪子とキスした。
布団に体を半分引きずり込まれて、迷いながらおずおずと雪子を抱いている星野に、雪子はぴたりと体を寄せて離れようとしない。眼は閉じたままで何かを呟き、星野の顔を撫でていた。
コイツはいつの間にこんなに女になったんだろう、うろたえた。星野は下半身の膨張に負けそうになり、このままではマズイ! そっと抜け出して庭に出た。アイツは秋月さんにああやって抱かれているのかと思うと、理由もなくやるせなかった。
庭に出て行く弟を気になって目覚めた京子が呆れて見ていた。涼はいつからあんなフヌケ男になったのか。
畳に転がった星野が目覚めたとき雪子はいなかったが、肌がけ布団が掛けられていた。台所からいい匂いが漂っていた。
「おはよ~ お兄ちゃん。酔っ払って寝ちゃってごめんなさい。朝ご飯がもうすぐです。しっかり食べてください。五目雑炊を作ってます。もうすぐ炊けます」
あのエッチな雪子は夢だったのか? 星野は釈然としない思いだったが、あんなのを痴夢というのかと自分を納得させた。オレも相当アレが溜まってる、ヤバイなあと嘆いた。
「姉ちゃん、いちゃついてないで起きろよ、朝めしだ。オレさ、夜中にユッコとキスしてたか?」
「うるさいなあ、そんなの知らないよう。私にはノゾキ趣味はない! んっ? 旨そうな匂いだ。雪子はもう起きてるのか?」
「朝飯作ってるよ。そら。起きろ、起きろ」
「マサオ、雪子は朝飯作ってるってさ、けろっとしてるみたいだ」
「朝は違う顔ですか。秋月さんが羨ましい」
「何言ってんのさ、ぼけ!」
マサオは苦笑した。
五目雑炊と冷奴とワカメの清汁だけの朝食だったが、飲みすぎた体を優しく包み込み、旨かった。
「マサオ先生には味噌汁がなくてすみません。博多の朝は、清汁とおきゅうとで始まるんです」
「そうだ、そうだ。アサリやシジミもちょっと前までは箱崎の浜からリヤカーで売りに来てたなあ。それにしてもユッコが作る汁は懐かしい味だ。東京のはしょっぱいよな」
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