第20話 修羅に堕ちる度に清艶に
◆ 林健太が別れの挨拶に来た。
緩やかに穏やかに季節は春らしくなって行った。クールでシャープなカミソリ秋月の仕事ぶりはますます冴えわたり、チームスタッフは休む暇がないほど多忙な日々が続いた。そんな秋月を支えているのは、1日おきに大きな弁当を抱えて訪れる雪子だった。日によっては「ぼんやりして作り過ぎました」と言って、スタッフの分も持って来る。
雪子の姿を見つけるとオペ中でない限り駆け寄り、部屋に入室禁止のプレートを下げて、思いの丈をぶつけたキスをして雪子を慌てさせた。ふらふらになった雪子を人前に出せるまでに10分。合計20分の入室禁止の意味をスタッフは薄々知っていた。
「若先生は雪子さんを離さないで、倒れるまでチューしているらしいですよ」
「そうでしょうね、若い恋人は離したくありませんよね。最近の若先生の落ち着きよう、そのせいでしょう」
秋月はスタッフの目を気にせず、20分経ったら雪子を連れてスタッフルームで弁当を披露し、旨い、旨いと喜んで食べては診療に戻って行った。そんな土曜日の午後、星野から突然に電話が入った。
「何だ、雪子は来てないが、何か用か?」
秋月が無愛想に応えたとき、慌てた声で、
「すぐ来てください! 親父はゴルフでいません、手当が出来ません。ユッコがヘンです。真っ青になって震えてます」
「何だと! 雪子はどこだ! どこに行けばいいんだ、早く言え!」
「僕の家です。林に会わせました」
「なんだと! バカ野郎!」
あまりの大声に待機中のスタッフが驚いたとき、2000GTはイラついた爆音を残して走り去った。
雪子はベッドに寝かされ、星野の母が付き添っていた。起きているようだが虚ろな視線は天井を見据えていた。
白衣のままの秋月は挨拶する余裕もなく、星野に畳みかけた。
「星野どういうことだ? 見たところ雪子はショック状態だ。恐怖と闘っている、何があったんだ?」
「林から、どうしてもユッコに会って謝りたいと電話がありました。家族全員で小倉に引っ越すので、もうユッコには会えない。最後に会わせてくれと頼まれました。僕の家で僕の立会いのもとで会うならいいと伝えました」
「すると、林が来ると知っていて雪子は来たのか?」
「いや、ユッコは何も知りません」
「それでは騙し討ちではないか。あのとき雪子がどれほど傷ついたのか星野はわかるか? お前がしたことで雪子は再び苦しんでいる」
「すみませんでした。林が土下座して謝ったとき、ユッコは普通の表情で、もう忘れましたと言ってました。そして、元気でねと林を見送った後、急に震え出したんです」
「もういい。時間がない、雪子を運ぶ」
キーィッ、ブレーキを響かせた秋月は、何事かとスタッフが見守る中をまだ震えている雪子を抱いたまま、
「山川くん、スメリングソルトを用意してくれ。薄めて使いたい」
雪子を自分のベッドに寝かせ、
「わかるか、僕だ、蒼一だ。そんなに怖がらなくてもいい、もう大丈夫だ。僕がいるから安心しろ!」
白衣を脱いでベッドに滑り込み、震えている雪子を包み込んで気持ちが鎮まるのを待った。
「若先生、お持ちしました」
山川が部屋に入って来たとき、「しーっ、もう少しで眠ってくれそうだ」と秋月が笑った。
星野は心配で居ても立ってもいられず、秋月を訪れた。
「すみませんでした。僕は軽率でした。ユッコに謝ります。どこですか、ユッコは?」
「俺の部屋だ。やっと落ち着いて眠っている。林にもう忘れましたと言ったのは、雪子の優しさだ。心の奥底にまたひとつ隠しただけだ。あのときの恐怖はまだ鮮明に残っているようだ。そうだろう? あんな大男に押さえ込まれたら男でもおいそれとは逃げ出せない。雪子は絶望して舌を噛んで死のうとした。林はそれで正気に戻った。そのときの絶望と恐怖はそう簡単に拭い去れるものではない。そんなことは林にわかるはずもないだろう。
林は、雪子に謝って心の負担を軽くしたいだけではないか、勝手すぎる。かつて俺も林を許してやりなさいと雪子に言ったことがある。雪子は首を振った。今も林を許してはいない。そして自分を許していない」
「ユッコに謝らせてください」
「いや、謝らなくていい。触れないことだ。それが思いやりだ。今晩俺は雪子の子守をする。俺さえ跳ね除けて独りで泣くやつだ。雪子の母親に電話してくれないか。星野のところで熱を出したので俺が引き取ったと言ってくれ。
そうだ、来ないか? 雪子が喜ぶ。毎週水曜日にここで茶道教室が開かれている。雪子は助手で手伝っている。アイツの代わりに雑巾掛けまでしてくれたそうだな。高嶋先生からお聞きした。感謝している」
山川が心配していた。
「雪子さんはどうなさったのですか?」
「ああ、恐怖の記憶に打ちのめされてしまった。今日は僕が付き添う。まだまだアイツは子供だ。安心させるしかない」
「しっかりした方なのに、いろいろあるのですね。若先生、頑張ってください。入室禁止にしておきますのでごゆっくり」
何が頑張ってください? 何がごゆっくりだ? 我慢だ、今夜はダメだ、禁欲だ。せめて楽しい夢を見せてあげよう。
「雪子、僕がわかるね」
「わかります。もう平気です。何でもありません。ちょっとクラッとしただけです」
「そうだな、何でもなさそうだ」
「お仕事は終わったのですか?」
「そうではない、ここに大切な患者さんがいるから僕はまだ仕事中だ。クラッとした後は眠るに限る。これは主治医の命令だ」
「ふぁい? 主治医? ただの蒼一さんでしょ」
コイツ、少しは元気になったらしいとほっとした。
「楽しいことをたくさん思い出してごらん」
「はい、波の音をいっぱい聴きました。満天の星空を見ました。1日中波と遊んで…… ああそうだ、ムカデに噛まれました。でも楽しかったぁ! また連れて行ってくれますか?」
ムカデか、今でもムカデと信じているのか。あーあ、隣の大きなムカデに気づいていない。そろそろ気づいてくれよ。そんな雪子が可愛い過ぎて切なかった。抱きたくて抱きたくて、どうしようもない欲望を鎮めるのに苦労した。着替えがない雪子に自分のTシャツを着せてやり、
「10時だ、お子様の就寝タイムだ。寝よう」
灯りが消えた。
翌朝の山川はまたしても……
また同じなの? ノックしても返事がない部屋に入った途端に、またもやシャワールームでふざけあっている声が聞こえた。まあ仲がいいこと! ベッドをチラッと見て、呆れて出て行った。頑張ってくださいと言ったのに! 雪子さんを子供だと言ったがどっちが子供だ!
◆ 修羅に堕ちた茶は、優しく柔らかになるらしい。
3月17日(水)、涼に連れられて星野院長が緊張した面持ちで茶席に参加した。秀明斎は星野院長を正客として3人分の濃茶を点てた。作法を知らない星野院長はドギマギして眼を瞑って飲み、涼に回して秋月へと渡って行った。秀明斎は和かに眺めながら、
「雪子さんに任せましょう。薄茶にしましょう。中級の免状を頂けると聞きました。高嶋先生が僅か1年で免状を出されるのは異例のことです。雪子さんが精進なさったのでしょう」
「はい、かしこまりました」
星野院長は雪子の茶をひとくち含んで「旨い!」と、感嘆した。茶席は一瞬のうちに和やかになった。秀明斎は、
「雪子さん、私にもお願いします」
雪子の茶を味わった秀明斎は、
「なるほど、以前の茶とは違ってます。しっとりとまろやかで、喉を優しく潤します。雪子さんは様々な経験をされて大人になられたのですね。高嶋先生が免状を出されるお気持ちがよくわかりました」
秋月は気づいていた。手前勝手な想像だが、俺に抱かれて修羅に堕ちる毎に雪子が点てる茶は優しく柔らかになっている気がしていた。
「いやあ、緊張しました。雪子さんが茶を点てる姿が見られると涼が唆すのでやって来ましたが、足は痺れて冷や汗は出るやで大変でした。しかし雪子さんの見たことがない姿を拝見できたので満足しました。若先生は実に堂々となさっていましたが、茶道に勤しんでいらっしゃるのですか?」
「いえ、雪子にバカにされないように飲むだけは教わりました」
「若先生、同じ飲むならこっちはどうですか? ご都合がつけばですが」
星野院長は左手で盃を傾ける仕草をした。
「そうですね。是非、お願いします」
珍しく秋月は深々と頭を下げた。
4人は秋月がちょくちょく顔を出すという近所の小料理屋に入った。
「ヘイ! 若先生いらっしゃい!」
威勢のいい声に迎えられ、小座敷に通された。
「そちらのお嬢さんは? ああ、若先生の恋人さんでしょ。この前、そこの曲がり角で若先生が抱きしめているとこを見ましたよ」
秋月と雪子はポッと赤くなって、顔を見合わせた。
「いや、それは人違いだろう」
「まあ、いいじぁありませんか。今日は春告げ魚のメバルと鮑やサザエのいいものが入ってます。任せてもらえますか」
「ああ、お願いしよう」
料理が運ばれてくると雪子は袂を帯に挟んで、箸や小皿を配り、醤油などを卓上に並べて世話を焼いていた。
「それはいいから、雪子はちゃんと食べて丈夫になりなさい」
口うるさい秋月を星野は眺めていた。秋月さんはいつもユッコを見ていて、酢を取りに席を立ったら「どこへ行く?」と訊き、親父に料理を取り分けたら、自分が最初でなかったから不満そうな顔をした。自分中心で我儘な男らしい。それにしても、ユッコをよく東京へ手放したものだと考えたが、勝手に逃げ出したのか、どうもそうらしい。
姉ちゃんが言っていた。ユッコの前では秋月さんはただの男だと。なるほど、ユッコを見る目はデレデレだ。それは男だからよくわかる。親父でさえ呆れているくらいだ。それに比べてユッコはどこまで秋月さんの気持ちを受け止めているのか、まったく見えない。10歳以上も年下の恋人を持つと男はこうなのか? これは大変だなあ、そんなことを考えていた。
「ユッコ、いつ東京へ戻るんだ? 4月5日から大学が始まる。スカイメイトを予約しとこうか?」
「あ、そうだ。いよいよ専門教科が増えるんですよね。いつにしましょう?」
星野と雪子の会話に秋月が割って入り、
「授業はすぐにはスタートしないだろう。ゆっくりお母さんと過ごしなさい。お母さんは一人娘を東京にやって淋しいはずだ」
「そうですね。私は何も親孝行してません。そっか……」
大人は悪知恵が働くものだ、秋月さんは見事にはぐらかした。自分の手元に置きたいだけなのに。それに気づかないユッコは姉ちゃんが言うように鈍いのか、だから愛されているのか。
秋月さんは親父と将来の医学界や病院経営について話し込んでいる。ユッコは眼を輝かして秋月さんを見つめている。それを意識して秋月さんは熱弁を奮っている。親父は町医者に毛が生えたようなものだから、有難がって聞いている。面白い光景だと思った。
お開きになって帰りのタクシーで、親父はすっかり秋月マジックにかかったかのように、若先生は立派になられた、たいしたものだと唸っていた。
◆ あの波の音を聴きながら……
いつものように大きな弁当を秋月とスタッフに届けたとき、
「26日金曜日の夜、雪子がまた行きたいと言ったあの海辺のコテージに行こう。波の音を聴きたい。泊まりになるがいいだろう?」
返事を聞く前に抱きしめて唇を奪った。こうすれば雪子の思考がしばし停止することを知っていた。
海辺のコテージにて。
金曜日の真夜中に走り出した車は明け方になって、春まだ浅く、目を覚ましたばかりの海に到着した。
穏やかな波だった。春の波はさざめいて緩やかな曲線を描き、暖かな陽射しは地平線をゆらゆらと霞ませていた。雪子は飽きることなく波と戯れ遊んでいた。秋月はBudweiserを楽しんでいた。
「まだ波は冷たいだろう? 雪子、戻っておいで」
その声が聞こえないのか、引き波を追っては沖へ走って行き、大きな波に追いかけられ、拐われて浜辺に投げ出されていた。相変わらずドジなやつだ。秋月は笑っていた。
「たくさん遊んだからもういいだろう、戻って来い。冷えるぞ、風邪引くぞ。もう主治医じゃないから知らないよ。早く戻って来い」
波の冷たさに鳥肌立てた雪子に熱いシャワーを浴びせ、
「心配しなくていい、アレを用意した。約束は守る」
ウソの決めゼリフを並べて、安心して甘えた雪子を抱いた。
♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡。
ふと気づいた。雪子の体の奥で微かな収縮を感じた。これは何か? 脈拍より遅いが規則的に秋月を封じ込め、拡散し、また包んだ。遊び慣れた秋月も初めての経験だった。雪子! 思わず叫んだら、うっすらと眼を開いて笑った。ああ、キミはエクスタシーを知ったのか? もう恐怖の記憶から解放されたのか? 雪子を抱きしめて泣き濡れた。
気だるい昼下がり、ふたりは贅沢な眠りに堕ちて行った。
秋月は雪子を決して離さず、雪子は星野より3日遅れて東京へ行った。
◆ 大学3年生の春はこうして過ぎて行った。
雪子は必修外国語と教養外国語の単位はすでに取得していたが、必修単位ではないが随意外国語にドイツ語を選んだ。秋月のように右肩上がりのドイツ語が書けるようになりたかった。星野はフランス映画を吹き替えなしで観たいとフランス語を選択した。3年生になると専門教科の選択が中心となり、『法と企業会計』、『産業組織論』、『医事法』、『生命倫理と法』、『政治理論演習』などを学ぶことにした。星野とは4講座が同じで、レポート提出科目で共通するのが2講座あった。ふたりは時間が合う限り仲良く受講し、仲がいい兄と妹に見られて周囲からは羨ましがられていた。
4月1日、秋月総合病院は『医療法人 秋月病院』になり、秋月蒼一は33歳の若さで院長に就任して、若先生ではなくなった。父の院長は理事長になった。秋月は地方紙や業界紙、医学雑誌の取材、祝電や訪問客などで時間が取れずに苛立っていた。秋月が待っていたのは、雪子からの体調の変化を告げる報告だったが、大学の状況や勉強の進度を楽しそうに話すだけだった。
雪子のバカ野郎! 俺が密かに待っているのはそんなニュースではない! 俺達の子供は宿っていないのか、それだけが知りたかった。雪子との家庭が切実に欲しかった。妊娠すれば、それが実現する気がした。次に会えるのは早くて7月の終わりだ。秋月は落胆しかけたが、そうだ! 法人化したお披露目をゴールデンウィークに西鉄グランドホテルで開催する。そのときに雪子を婚約者として紹介しよう。そうしたら会える。
まず雪子の母親の承諾を得なければならない。なかなか首を縦に振らない母親に許しを乞うために訪れた。ついに3回目の訪問時に、自分たちは深い仲だと告白してやっと承諾を得た。ただし大学は卒業させること、結婚は卒業後とすること、秋月病院の院長ではなく秋月蒼一個人に婚家させると告げられた。すぐにでも入籍したいと迫ったが拒まれた。
雪子に連絡する前に、高嶋宛てに披露パーティーの招待状と手紙を添えて心情を訴えた。正式に婚約者として、病院スタッフや金融関係、医療関係者など多方面に披露したいので、雪子の帰郷をお許し願いたいと申し出た。高嶋先生は欠席なさっても、この手紙を読めば雪子を口説いてくださると考えた。
秋月から婚約者として列席を促す電話をもらった雪子は、母に電話を入れた。母はこう言った。「秋月先生には何も不満はありません。ただ、雪子が本当に幸せになれるのだろうかと不安なのだ」と。
秋月から命令調の電話をもらったが雪子は迷っていた。顔色が悪いのを見咎められた星野に、披露パーティーへの臨席を相談したが、ユッコの囲い込みをまた始めたかのと軽く受け流した。
「ユッコ、いいじゃないか、婚約者として行けよ。何かの社会勉強になるよ」
簡単にそう答えたが、雪子は考え込んでいた。
星野は、姉の京子に秋月病院の披露パーティーに雪子が婚約者として出席すると報告すると、
「バカな弟よ、なぜ行かした。バカな雪子のお兄ちゃんになって正真正銘のバカになったな! 賽は振られた。後戻りは出来ない、大バカ者!」
電話は切れた。姉が何を言っているのか星野には皆目わからなかった。
◆ 『医療法人 秋月病院』披露パーティーが開催された。
4月29日、西鉄グランドホテルのバンケットルーム「鳳凰の間」は400人以上の招待客を迎えて賑わっていた。
雪子は、成人式で袖を通した漆黒の綸子地に大輪の白百合が咲き乱れた大振袖で、来賓に笑みを浮かべ、丁寧に頭を下げていた。秋月はダークスーツに身を包み、緊張した面持ちで雪子を見つめていた。あそこに冬眠前のリスが座っている限り、俺は何とかこのパーティーを乗り切れるだろうと安堵した。打ち合わせ等の雑事に追われ、帰福した雪子とは殆ど話は出来なかったが、少し頰がふっくらしたようだと感じた。
秋月の挨拶から始まったパーティーは順調に進んで行った。宴半ばに再び秋月が壇上に現れ、雪子を紹介した。
「皆様にご紹介させていただきます。この人はこれから私を支えてくれる伴侶で、雪子と申します。まだ大学の3年生ですが、宜しく御引回しのほどお願い申し上げます」
ひときわ大きな拍手が秋月蒼一チームから沸き上がった。雪子は深々と一礼を返した。秀明斎は穏やかな笑みを浮かべていた。
『志免古谷病院』の院長代理で出席した古谷は驚いた。紹介されて中央に立った雪子は、バイト講師の白衣姿とかけ離れた存在感と艶麗さを放っていて、古谷は眼を見張った。星野院長と朋友学園の篠崎も同じ思いだった。今日の西崎は本気モードに入っていると篠崎は舌打ちした。
秋月はタキシード、雪子は真紅のバックレスドレスに着替えて、来賓のテーブルに挨拶に回った。まるでそれは結婚式の披露宴のようであり、古谷は見とれてしまった。
「西崎さん、どうしたんだ。すごく綺麗だよ」と古谷が言ったら、「馬子にも衣装でしょ」と応えた雪子につられて古谷も笑った。「今年もバイト講師をするのか?」と聞くと、「はい、もちろんです」、いつもの雪子の顔で答えた。
すべてのセレモニーが無事に終了したのは午後10時。秋月は朝から続いた忙しさと緊張に不機嫌で、雪子は見知らぬ人々からの質問攻めに疲れ切っていた。最後のゲストを送り出して、控室でやっとふたりだけになった。
「よく来てくれたね。ありがとう。僕は雪子のお陰で今日は頑張れた。ありがとう!」
「お疲れさまでした。とってもお疲れでしょう?」
「あーあホントに疲れた。今日はここに泊まろう、もう家に帰る気力がない」
「ふふっ、甘えてませんか、飲みすぎたのでしょう? でも、蒼一さんは素敵でした。カッコよかったです。見直しました」
「こら、大人をからかって生意気なことを言うな。その赤いドレスはよく似合ってるが、背中どころか尻まで見えそうじゃないか、それは雪子が選んだのか? 許せないドレスだ! 背中を向けて立ってごらん。渡そうと思っていつも忘れていたものがある」
「ふぁい?」
背後から雪子にイヤリングを付けてやった。振り向いた雪子は鏡に映った真珠のイヤリングを見て、にっこり笑った。
「これは『Teardrop』だ。どうだ、泣き虫の雪子にはぴったりだろう?」
「えっ、涙の雫、CHANEL! こんな高価な物をいただいたら、私はどうしたらいいのでしょう。ネクタイをたくさん贈らなくては」
「やめてくれ、そんなに僕の首を絞めたいのか、このヤキモチやき!」
雪子を抱きしめてディープキスを始めたら、
「院長先生、本日はおめでとうございます。お部屋のご用意が出来ました」
支配人は微笑みながらルームキーを置いて行った。
用意された部屋は13階のスウィートルームだった。中洲や天神の街はおろか博多湾が一望に眺められ、湾入り口の灯台や夜釣りに出港する漁船の灯りが線を描いては、暗闇の水平線に消えて行った。
ふたりは窓際に立ち、それぞれの想いを抱いて墨を流したように静まりかえった海を眺めていた。
俺たちはいくつもの季節を通り過ぎた。ガキの雪子に腹を立てた日、合格の知らせに落胆した日、気を失った雪子をいつまでも抱いていた日、違法な薬を使って命を繋いだ夜、successのハンコをもらった日、たった1行のラブレターを書いた日、やっと同じ夢を見た夜。思い出はこの空の星の数よりも多い。俺の気持ちを雪子はわかってくれている、俺はなんと幸せなんだろう。雪子を公に紹介したことで秋月の心はようやく安らいでいた。
「僕にお祝いをくれないのかい?」
「ごめんなさい、何も用意してなくて。何をあげればいいのでしょう?」
「僕がいちばん欲しいもの、それは雪子のすべてだ。心も体も全部欲しい! そして雪子の時間もだ!」
「えっ、時間って?」
「今日は雪子をみんなに紹介できた。僕はとても嬉しかった。これで雪子は僕の妻として誰もが認めてくれた。これからは雪子が傍にいてくれる、そうだな? 僕は仕事だけに専心できる。ただ、雪子が卒業するまであと2年ある。それを考えた。僕は我儘で欲張りだ。それは自分でもよく知っている。何より雪子の時間が欲しい!」
「だから、時間って何でしょうか?」
雪子の唇を塞ぎ、深紅のドレスを剥ぎ取ってバスルームへ運び、貝のフォルムを模ったバスタブに沈めた。
「時間が欲しいと言ったのはこれだ。早く僕の子供を産んでくれ」
「で、でも、私は学生です。な、なぜですか? 急にそんな」
「うるさい! 僕は我慢できない、東京で雪子は僕と関係なく学生生活を送っているなんて。いったい誰が東京の大学に合格できるように教えたのだ? 僕は教え過ぎたと後悔した。そのあとはキミが知っている通りだ。雪子の時間をくれ、お願いだ」
雪子は、あーあ、また蒼一さんの我儘が始まったと思った。
抱かれても雪子は何かを考えて、心と体はチグハグだった。怒った秋月は雪子を投げ出し、諦めた。
「蒼一さんにとって私はそれだけの女なのですか? 蒼一さんの子を産みたいと思っても、今の私にはその用意はありません。蒼一さんは私を子を産んで家庭を守るだけの女と思っているのですか? 私は蒼一さんの足を引っ張らないように、少しでも支えられるように、そうなりたいと思っているのに…… わかってくれなくて悲しいです」
「そうではない、そうじゃない。なぜわかってくれない。こんなに愛しているのに、愛していれば当然だ。僕と雪子の子が欲しい。今すぐにでも欲しい。それは普通のことだろう? 男なら誰だってそう思う。そうなれば雪子はいつも僕の傍にいてくれる。早く雪子と暮らしたいんだ、わかってくれるか?」
「なぜ私を信じてくれないのです。私は蒼一さんから愛されて幸せです、そう思っています。そうではないのですか? 必ず戻ってくると約束して東京へ行きました。そして蒼一さんの胸に戻って、抱かれました。私はウソを言ってません。わかってください。この前は妊娠したかも知れないと不安でいっぱいでした。そのとき私はいろんなことを考えました。私はまだママにはなれません。わかってください。蒼一さんを愛しています。それは信じてください」
「やめろ! 何も言うな!」
ふたりは初めて背中を向けてベッドに横たわった。こんな記念すべき日に雪子は俺をきっぱり否定した。そんな我儘にはついて行けないと言った。ふたりは眠ったような、眠れないような、薄い微睡みの中で朝を迎えようとした。
「起きてますか? 起きてください。さっきは言い過ぎました。ごめんなさい」
泣き腫らした眼で雪子は抱きついた。腕の中で泣き続ける雪子に、俺の我儘を許してくれと心の中で詫びていた。
離れて僅かひと月で雪子は清艶になっていた。片手で二房掴めた乳房は一房しか掴めないまでに成長し、背中をなぞった指が吸いつく肌に驚いた。俺の束縛から逃れるたびに女になっていく。悔しくてたまらず、腹を立てた。夢中で雪子を貪った。声をあげそうになっては口を閉じる雪子をこじ開け、踏みにじった。寄せては引く波のしじまに仰け反り、秋月の胸に戻っては波間に漂っていた。雪子はひとつの波が過ぎ去ると、潤んだ眼ですり寄ってくる。秋月は何度も抱いて儚い夢を追っていた。
♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡。
ようやく目覚めたふたりは満ち足りた幸せに包まれていた。再び雪子を求めた。俺は昨日から雪子を何度抱いたのだろう。数えようとしたが、途中でわからなくなった。
♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡。
朝食は、大名の杜と大きな滝が眺められるフレンチダイニングで摂った。秋月は体が重く、朝から疲れを感じた。今の俺はsamen(ザーメン=精液)なんて1滴も残ってないだろう。多分、空っぽだ。それに比べると雪子は元気そうだ。どうしてだ? あんなにいくつもの波に漂っていたのに、早足で追って来て、見失いそうになると本気で駆け出す。なんてやつだ、癪に障った。
ガラス越しに滝の水滴が弾け、煌めき砕けていく。ああ、あの極快感が俺を襲って来る。どんなに激しく抱いても腕の中で哀しく喘いでも、大学に戻って行くだろう。雪子の時間が欲しいとせがんだ俺の身勝手さに呆れて。訊きたいことを聞いていない。いつ訊こうか……
「何を見てるのでしょう?」
「何でもない。僕だって物想いに耽ることがあるんだ」
「いけない! 8時だ。遅れるわけにはいかない、急ごう!」
「はい、でも病院は9時に始まるのでしょう?」
「いつも僕は8時にはスタッフルームに入っている。今日は遅刻したくなかった、笑われそうだ。とにかく寝過ぎたなんて言い訳は出来ない。あーあ、仕方ないか。雪子が悪い、そうだ、みんな雪子のせいだ!」
「????」
雪子を連れて病院に帰ると、職員やスタッフは口々に「おめでとうございます」と祝福した。「何がめでたい?」と聞いたら、「雪子さんを正式にご紹介なさったでしょう。そのことです」。ああ、そうか、自分の思い違いが恥ずかしかった。
オリーブグリーンのワンピースに『Teardrop』のイヤリングを付けた雪子を迎えた山川は、
「おめでとうございます。若奥様と呼ばなければいけないのかしら。昨日は大変お疲れさまでした。とってもお綺麗でしたよ。違う人かと思いました」
「山川くん、それは雪子に失礼だ。雪子はいつだって綺麗だ。腕の中の……」
秋月は慌てて次の言葉を呑み込んだ。
「ふふっ、違う人だったんですよ。私は若奥様ではありません。雪子のままです」
「雪子は明日は東京へ行く。山川くん、心配だから点滴を頼めるか」
雪子は、
「えーっ、点滴はいいです。私はとっても元気です。心配しないでください」
「ダメだ。僕の言うことを聞きなさい。いいか、何ひとつ僕の言うことを聞かないで、東京へ行くつもりか? 雪子は本当は僕が嫌いなのか?」
チームスタッフ全員が、院長の子供っぽい癇癪癖が始まったと聴き耳を立てた。
「ふぁい、言い出したら聞かないんだから、ちっとも言うことを聞いてくれないのは蒼一さんです。でも、お願いしてもいいですか、傍にいてくれますか」
「もちろんだ。話したいことがある」
秋月はとても優しい顔で頷いた。チームスタッフは呆れて微笑んだ。点滴が必要なのは若先生の方でしょう、頑張り過ぎていますと言いたかった。山川にとって、院長になった秋月は今でも若先生であった。
点滴室で、
「だいぶ点滴にも慣れたようだな。少し太ったか? 乳房と尻が大きくなっていた」
雪子は儚い夢を描いたのか、瞼を薄っすらと染めて布団にもぐり込み眼だけを出して、
「えっ、そうでしょうか? 恥ずかしいです」
何が恥ずかしい? 雪子の心と体と頭を育てたのは俺だ。可愛くて愛おしくて抱きたくなったが、朝っぱらから何を妄想しているのかと、自分に呆れた。
「聞いてくれ。雪子を抱くときはちゃんとアレを付けたはずだが、万一ということもある。体調がおかしくなったり、月経がなかったらすぐ戻って来い。お願いだ。雪子は何も心配することはない。僕の婚約者なのだから」
「はい……」
秋月はマサオの言葉を脳裏に引き出した。専門医から無茶するなと指摘されたが、なぜ狂ったように雪子を抱きたくなるのか、どんなことがあっても守る人なのに……
「はい、蒼一さんが気遣ってくださったので大丈夫です、不安はありません」
雪子は東京へ行った。幾度も空港へ送って行ったが、これほど哀しい別れはなかった。雪子の心はすでに大学生活へ想いを馳せているのか涼やかに笑っている。ディープキスして殺意に燃えた。首を絞めたくなった。何度こんな別れを繰り返せばいいのか、思い通りにならない恋人を恨んだ。
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