第49話 三月一日 灰かぶり姫の魔法が解ける

 バラバラだったものが、ゆっくりと繋がっていく。白雪姫が王子様のキスで目覚めるように、は目覚めた。


 魔法のキスで記憶を消した代償に、然るべきときには過去のすべてを思い出すことになっていたのかもしれない。灰かぶり姫の魔法が解ける。幸せな魔法が解けて、汚く血みどろの自分を思い出す。


 痛い「  」痛い花咲先輩苦しいさようなら痛い薫先輩痛い助けて痛い薫くん熱いいやだ死にたくないたすけて、かおるくん。最後に――声が、聞きたい。


 スマホで彼に電話をかける。ストラップの銀のイルカが、電信柱の光に照らされて、微かに光る。


 睡眠導入剤のせいで、起きてくれないかもしれない。でも、それでもいいやと思う。前だって、彼への電話は繋がらなかったから。ぽろぽろと涙が落ちる。アスファルトに、血の雫がぽたぽたと落ちている。


 血を見るのは、嫌いだ。嫌なことをされたときには、いつも血を見てきた。犯されたときも、殺されたときも。


 こういうとき、私はいつも彼の名を呼んでしまう。ずっとずっと好きだった、彼の名前を。


「かおる、くん」


 そう呟いた瞬間、奇跡のように電話が繋がった。半ば信じられない、夢のなかのような思いで、スマホを耳元に当てる。


「……もしもし、先輩?」

『桜子ちゃん! 今、どこに――いるかは、わかってる。……大丈夫?』


 大丈夫なわけない。この馬鹿野郎。そう罵りたくても、そんな言葉は出なかった。今はただ、彼に助けを求めたい。本当に、それだけだった。


「助けて、薫くん」


 彼が息を呑む音がスマホの向こうから聞こえた。まるで禁断の果実をかじってしまったかのような心地。この言葉は、言ってはいけない言葉だった。


 私の意思で、彼の名を呼ぶこと。彼に助けを求めること。呼びたくて仕方なかった名前だ。死にたくなくて、どうしても助けてほしかったんだ。けれど彼に助けを求めた先のことを、今の私は覚えている。また死ぬのかな、と思った。


 幸せが壊れる音がする。死が忍び寄る音がする。


 死。その可能性に気づいたら、にわかに重い恐怖を覚えた。体に力が入らなくなって、アスファルトの上にへたり込む。もう動けなくなる。自分の腕から滴った血でコートが汚れた。血と涙が流れ続ける。


「薫くん……私、まだ死にたくないよ」

『うん。俺も死なせるつもりない』

「でもね、血がいっぱい出てて……おっきい刃物持った男に、追いかけられてるの。また殺されちゃうかも」

『なら、逃げて。桜子ちゃん』

「怖くて、動けないの。……助けて、薫くん。痛い。たすけて」


 完全なるわがままだ。きっと彼を困らせている。自分で動かないとと思っても、立つことすらもできない。このままでは、あいつが追いついたときに、バラバラに殺されてしまうだろう。それなのに動けない。焦っても動けない。何度死んでも、死ぬのは怖い。


『桜子ちゃん。俺の名前、呼んで』


 呼んではいけない名前なのに。と心が思っても、口はためらいなく開かれた。心はいつだって、本当の彼を求めている。

 

「……薫くん。薫くん。大好き」

『俺も、大好き。俺の名前を、もう、最後の言葉になんてさせないから。桜子ちゃん。俺は――桜子ちゃんに、生きててほしい。でも、わがまま言うなら、俺も一緒に生きたい』

「……うん」

『中学三年生の桜子ちゃんと高校一年生の俺が、初めて会った公園。そこで待ち合わせしよう。そこまで逃げてきて。ふたりで頑張ろう』

「レモン味のキスした、公園?」

『そう。桜子ちゃん、愛してる。今年の四月……一緒に、お花見行こうね』

「はい。――先輩。私も愛してます。……もう、約束は破りません」


『愛してる』って言われたせいか、ようやく立ち上がることができた。愛の力ってすごいんだな。なんて、メルヘンチックなことを考える。


 くらりと目眩を覚えるも、どうにか持ちこたえて公園に向かった。狂った男の声が背後から聞こえるのをBGMに、私は走る。


 私がかつて死んだことを、彼はどこまで知っていたのだろう。あの様子から考えれば、まったく知らないなんてことはないだろう。紫月 桜子の死を、彼はどうやって見ていたのだろう。


 走る。ひた走る。あの公園が見えはじめる。あとちょっと。公園のなかに入ろうとして、ガクンとバランスを崩して転びそうになる。


 背中に変な感覚が走ったが、痛みはない。どうやらコートだけを切られたらしい。でも次に斬りかかられたら、死んでしまうのかもしれない。


 彼がいない。待ち合わせなのに、彼がいない。また間に合わないのかもしれない。背を蹴られて転んで、そのまま上に乗られる。嫌な感覚だった。


 あいつの様子が見えない。いつ切られるかわからない。ガシャンと大きな音がして、そのあと男の「ぐえっ」という潰れた蛙みたいな声が聞こえた。


 重みが退いて、私は慌ててそこから離れる。また捕まってはたまらない――と振り返ると、あいつは足元に転がっていた。そして愛しいひとが、立っていた。


 花咲先輩。薫先輩。薫くん。花泥棒先輩。いろいろな呼び方をしてきたせいで、なんと呼べば良いのかよくわからない。今の私が呼び慣れているのは「先輩」だから、私は彼を「先輩」と呼んだ。


 先輩が、にこりと笑って――ぐらりと倒れる。彼のお腹には、あの刃物が刺さっていた。紺色のパジャマを着ているせいでよくわからないけれど、きっと大量の血に濡れているのだろう。


「先輩……先輩っ!」


 倒れた彼に駆け寄って、曖昧な知識で彼の傷口を止血しようとする。先輩の表情が、苦痛のせいか歪んだ。まだ息はある。まだ意識もある。先輩が、掠れた声で私を呼んだ。


「桜子ちゃん……」

「先輩、血が……。どうしよう。先輩、なんで?」

「俺は、大丈夫だから……桜子ちゃん、は、四月一日までは……絶対、ひとりに、ならないで」

「なんで。今、私の心配なんて、してる場合じゃない! 先輩が、血、いっぱい出てて。お腹に、穴あいてる。私のせい? 私が家出したせい?」

「……桜子ちゃん。これ」


 先輩は震える手で、自分の髪につけている桜のヘアピンを外すと、私の手にそれを握らせた。なぜ、今こんなものを。そう思って数秒後、このヘアピンに妙な既視感を覚える。


「……最後の、一枚。大事に、して……」

「先輩。これって――」

「桜子ちゃん。俺は…………」

「先、輩?」


 先輩は目を瞑って、腕をだらんと下げて、まるで眠ったようになってしまった。頬を叩いても反応がない。何度も彼を呼んだ。いろんな呼び方で呼んだ。けれどもそのどれにも、先輩は返事をくれなかった。


 警察が来て、あいつは捕まって、私と先輩は救急搬送された。切られた左腕を縫合されていたときも、痛みはまったく感じなかった。麻酔薬のおかげなのか、精神的なショックで感覚が麻痺してしまっていたからなのかはわからない。


 先輩は刃物がお腹を貫通してしまっていて、内臓まで傷ついていて、大きな手術をされた。手術は成功したらしいが、彼の意識は戻らなかった。

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