第32話 文化祭二日目、デートと後夜祭 −後−
今夜はいつもと比べると、少しだけ星が綺麗に見えた。桜子はそっと先輩に寄りかかって、上目遣いで彼を見る。
「ねえ、お兄ちゃん」
「なに、桜子ちゃん」
「今は、〝妹〟でいたくないなぁ。……〝桜子〟に戻ったら、駄目?」
なんとなく今は、〝妹〟を演じていたい気分ではなかった。演技なんて捨て去って、本当の私で先輩と話したかった。先輩が、微笑みとともに頷く。
「じゃあ、ちっちゃい声で話そうか。〝お嫁さん〟の、桜子ちゃん」
「はい。ありがとうございます、先輩」
小さな小さなこしょこしょ声で、桜子は彼を「花泥棒先輩」と呼んだ。桜子はいつも彼のことを、「花泥棒先輩」か「先輩」か「お兄ちゃん」と呼ぶことになっている。けれど本当は、彼の名前を呼んでみたかった。「薫先輩」でも「薫くん」でもどっちでも良いから、彼の名を呼ぶことを許されたい。
けれどどんなに桜子が願っても、先輩が前の彼女さんのことを吹っ切れない限り、名を呼ぶことは許されないのだろう。先輩の大切な人を蔑ろにはできないから、早く忘れてくれ、とも言えない。
薫先輩。と、心のなかで彼を呼んでみる。ふいに目頭が熱くなって、涙が頬を伝っていった。雫がぽろぽろと瞳から零れていく。
「どうしたの、桜子ちゃん」
「あのね、先輩」
「うん」
「文化祭なんかでこんな感傷に浸っちゃって、馬鹿みたいって思われるかもしれないですけど。私……生きてて良かったなって、今日思いました。紗衣ちゃんと彩奈ちゃんと仲良くなれて、先輩とデートもできて、すごく楽しくて。……やっと、先輩と文化祭デートできたから。ほんとに……ほんとに、嬉しいの」
涙を流しながら先輩を見上げると、彼の瞳からも涙が落ちていた。どうして彼が泣いているのだろう。また、前の彼女さんのことを思い出しちゃったのかな。そう考えて切なくなりながら、桜子は先輩の頬に触れた。指先が、彼の涙で濡れる。
「来年も、もっと楽しいよ。……だから、死なないでね、桜子ちゃん」
「……はい、死にません」
花泥棒先輩は、毎日、桜子が死ぬことを心配する。なぜこんなに心配するのだろうと、出会ったばかりの頃は疑問を抱いてばかりいたが、最近はわかってしまったような気がする。
前の彼女さんが自殺したから、きっと先輩は、私を信じてくれないのだ。占い師が「死にやすい」と言ったことのほうが、私の言葉よりも重要なのだ。
きっと常に桜子には、前の彼女さんの影が重ねられている。彼女はまるで呪いのように、彼に不安を植えつけた。呪い、なんて言ったら、怒られてしまうかもしれないけれど。
花泥棒先輩はきっと、桜子を通して、いつも前の彼女さんの姿を見ている。だからあんなにも毎日、「死なないで」と言うのだ。
彼は、前の彼女さんに生きていてほしかったはずなのだ。彼は本当は、前の彼女さんと一緒にいたかったはずだ。
先輩の顔が、ゆっくりとこちらに近づく。どうせ唇にはキスしてくれないんだろうな、と思った。一瞬だけ、ほんの軽く、彼の唇が頬に触れる。触れたと言いきっていいのか、わからない、きわどいキスだった。
「桜子ちゃん。大好き」
「先輩……――んっ」
今度は先輩の唇が目尻に落ちて、舌先で涙を掬われた。くすぐったくて、恥ずかしくて、思わず声を上げそうになる。どうかこの姿を、誰にも見られていませんように――と願った。桜子の涙を
「私にも、ください」
桜子も彼の目尻に唇をつけ、彼の涙を舐めた。あたたかくて、ほんのりしょっぱい。生きている味だな、と思った。
文化祭が終われば、あっという間に十月になる。十月になれば、先輩と半年の期間を一緒に過ごしたことになる。彼との一年契約は年度終わりの三月三十一日に終わることになっているから、ちょうど折り返し地点になるのだ。
一年契約が終われば、本当にお別れになるのだろうか。先輩は桜子が死ななければ、安心して桜子をあの家から追い出すだろうか。『来年の四月に、桜子ちゃんとお花見に行く』と、以前先輩が言っていた夢は、どうなるのだろう。お花見に行ったら、お別れになるのだろうか。
――花泥棒先輩。どうか教えてほしいんです。どうして私のことだけ抱かないの。どうして他の女ばかり抱くの。私は、本当は貴方の「何」なの。
そう思っても、唇から紡がれる言葉にはならない。勇気が出なくて、声を出せない。
「花泥棒、先輩」
「ん?」
「大好き」
――だから、愛だけを伝えるの。私はね、貴方のことが大好き。来年の四月から、貴方が一緒にいてくれなくても、きっと大好き。私が死んでも、きっと、大好きです。
「俺も、大好きだよ。桜子ちゃん」
今日はいつもより、星が綺麗に見える。星に願いを伝えれば、叶うだろうか。どうかこの先も、来年の四月を過ぎても、何度も何度も、薫くんと一緒に生きていたいです。と。
彼の名前を、また呼びたい。彼と、またキスをしたい。それから。それから。
おかしな願いと思いを心のなかに抱えていることに気づいたけれど、今はそれを見ないことにする。桜子は彼の体を抱きしめた。彼の心臓の音がよく聞こえる。今日も桜子は、花泥棒先輩と一緒に、生きることができた。
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