ケース1 初恋は美しすぎて

 大川洋介です。あれは中学の入学式でした。

 新しい生活が始まったその日に、あの子に恋に落ちました。色白でおかっぱ頭。目鼻立ちが整った可愛い子でした。 名前を岸谷さやかと言いました。

 同じクラスになったのですが、男子の中で彼女はダントツで一番人気でした。私はその頃、勉強もスポーツもクラスで上位の方でしたし、ルックスも自分で言うのは何ですが、悪くなかったと思います。その頃の写真がこれです。


「へーっ、格好いいなあ。アイドルになれそうじゃないですか」

 弟子が感心した。

「こりやモテるわな」

 師匠も納得だ。


 さやかも私に関心があるようでした。私たちの相思相愛はクラス中の話題となり、冷やかされたものです。 そして周囲から盛り上げられ、かつがれるようにして、私はさやかに告白することになりました。春の連休前のことです。


「ゴールデンウイーク前って、四月ですよ」

「早いな。まだ中一でしょ?」

「まあ、今どきは、そんなもんらしいですけどね」


 放課後にさやかが一人でいるところをつかまえ、ふるえる声で告白しました。つきあって欲しいと言ったのです。


「おーっ!」

「おおーっ!」


 彼女は私の目を見て、こっくりとうなずきました。

「はい」

 それが今の女房です。


 思わずコケる師匠と弟子。

「えーっ」

「はやーっ」


 一緒に手をつないで街を散歩したり、映画を見に行ったり。最初は可愛いものです。そのうち、お互いの自宅を行き来するようになりました。双方の両親とも、私たちを気に入ってくれたようでした。


「すごいですね」

「俺なんか、大学になってからだぞ。そんな思いしたの」

「ぼくもそんなもんです」

「うらやましかったなあ、中学や高校で彼女がおる奴」

 師匠は遠くを見る目をした。


 私とさやかは、いつも一緒でした。学校へ行く時、帰る時。休みの日は遊びに行きましたし、試験前は自宅や図書館で並んで勉強しました。学校では「夫婦」と呼ばれていたぐらいです。

 入学当初、私は卓球部に入り、さやかはブラスバンド部に入りましたが、二人ともすぐにやめてしまいました。部活より二人で一緒にいる方が楽しかったからです。


「入学してすぐに彼女ができる奴って確かにいたけどな。だいたいはそんなに長続きしないものだ。そうだな、夏休み前後で破局するケースが多い。つまらないことで喧嘩するんだけど、二人とも子供だから、折れることを知らん。お互い突っ張るだけだからな」

「なるほど。言われてみれば、そうかもしれないですね」


 さやかとの初体験は中二の春です。場所は私の家。両親は外出中でした。


「えーっ」

「はやーっ」


 それから、ますます彼女と離れられなくなりました。気がつくと、私には男の友達が、彼女には女の友達がほとんどいませんでした。私は中学、高校を通じて、同性の友達と遊んだ記憶がそんなにないのです。放課後や休日は常にさやかと一緒に行動し、二人っきりになれると、彼女とのセックスにのめり込みました。


「すごいな。それも」

「セックスのある中学生って、想像もつかないですよ」

「やりたい盛りには違いないけど、そんな簡単に満たされていいもんだろうか?」

「同性の友達がいないのは、ちょっときついですね」

「まあな。ただ、その頃、男友達といる時は、こんな奴、この世から消えてくれ、俺は今すぐ彼女が欲しいのです!と、神に祈ってたけどな」


 結局、私は女性をさやか一人しか知りません。風俗にも行ったことがありませんから、本当にこの世で一人しか知らないわけです。


「それも珍しいですね」

「何だかんだで、ちょこちょこやっとるもんだけどな」

「そうなんですか、師匠?」

「俺のことはいいから、話を聞け」


 こんな私たちにも危機はあったのです。中学二年の夏頃から二人の成績は急降下しました。ろくに勉強もせずに会えばセックスばかりしていたのですから、当然でしょう。入学当時はトップクラスだったのに、いつしか底辺をさまようようになってしまいました。そのままでは高校進学もおぼつかないほどです。学校で問題となり、親が呼び出される事態になってしまいました。

 二人の交際は知れ渡っていましたから、当然追及はそちらに向かいました。双方の親が私たちを別れさせることまで検討したのです。


「まあ、当然だろう。子供に節度のあるセックスなんて無理だ」

「大人だって無理ですよ」

「しかし、バレバレだったんだな」

「子供が何をしているかなんて、親にはみんなわかっているんですよね。自分だって、かっては子供だったわけだから」


 私たちは泣いて抗議しました。そして必死の交渉の末、次回の定期テストで二人の成績が上位十番以内に入れば交際を続けてよいという条件を引き出したのです。私たちはテストが終わるまで二人で会わないことに決め、それぞれ必死で勉強しました。あの時ほど真剣に頑張ったことはありません。


「ふむふむ」

「で、どうなったんです?」


 結果は、私がクラスで二番、彼女が九番でした。めでたく目標達成です。私の両親はさやかの両親と一緒に私たちを呼んで、節度を保った交際を行うよう注意しました。


「じゃあ、しばらくは我慢しとったわけだね?」


 いえ、その日のうちに公民館の物置でセックスしました。試験が終わったら、あそこでやろうと目をつけていたのです。


「・・・・・・」

「・・・・・・」


 どうしても、話がそっち方面になりがちですが、友人たちと私が違うところは他にもありました。それは趣味です。


「趣味ですか?」


 はい。私とさやかの趣味は似通っているのです。と言いますか、二人が一緒に楽しめるものばかりを選んだと言ってよいでしょう。自然と、漫画、ゲーム、テレビ、音楽、映画と、その時ヒットしているものばかりを楽しむ傾向にありました。

 大学に入ってからですが、ある時、珍しく男友達の家を訪ねる機会がありました。その時、彼の本棚を見て愕然としたのです。私の知らない本ばかりが並んでいたからです。

 その時、あっと思いました。こいつは一人でいる間に趣味の世界をきわめようとしてきたんだなと。私がさやかと、そのへんでチャラチャラ遊んでいる間に、彼は一心不乱に自分の世界を掘り続けてきたのです。彼の本を取り出してペラペラめくっても、私にはさっぱり理解できませんでした。こいつ、こんな物を読めるようになっていたのか。私は思わず嫉妬を感じてしまいました。その友人が到達した深さは、今から私が追いつくには絶望的だと感じてしまうほどだったのです。


「なるほど。そういうこともあるんですね。確かに、異性とずっと一緒にいると、オタクになる暇なんかないですもんね」

「人間、強くなるのは一人でいる時だからな。何かを得れば、逆に何かを失っているってことだ」

「中学や高校の時に始めないと、なかなか一生の趣味にはならないですよね」

「趣味って、お遊びみたいなイメージがあるけど、そうじゃないんだな。若い頃に打ち込んだものは、その後の人生を方向づけることになるからね」


 高校まではさやかと同じ学校でした。だから中学、高校と、ずっと彼女と一緒にいたわけですが、大学になって初めて別々の学校に進みました。私が都内の私大、彼女は近郊の女子大でした。同じ東京にいたわけですが、私は下宿を借りて一人暮らし。さやかは大学の寮に入りました。

 チャンスだと思いましたね。彼女と別れないまでも、少し距離を置いて自分の牙を磨かなきゃと感じていました。このままじゃ、何の特徴もない、つまらない人間になってしまいそうだと危機感を覚えたからです。


「いいぞ」

「目覚めたわけですね」


 入学したのが文学部だったので、まわりに女性はいっぱいいました。と言いますか、男の方が少なかったのです。さやかがいくら美人だと言っても、東京のあか抜けた女学生たちと比べると、ずいぶんイモっぽく見えてしまったことを覚えています。化粧といい、ファッションといい、まるで彼女たちは別の世界に住む人間のようでした。

 私はテニスサークルへ入部し、彼女たちとの接点を求めました。また、学業の方では教授が紹介した専門書をすべて買い込み、意味がわからないまま無理矢理読み込みました。やみくもに新しい世界へ踏み込もうとしたのです。


「ふむふむ」

「いい感じですね」


 自然と、さやかとは疎遠になっていきました。私には彼女以外の友人たちと接している方が刺激的だったからです。


「よくある話ですよね」

「普通はだいたい、ここで別れるんだけどな」


 もっとも、彼女と全く会っていないわけではありませんでした。恥ずかしながら、心は冷めていても、体はそうじゃなかったんですよ。おわかりいただけますよね?時々は彼女を部屋に呼びました。

 勝手な話ですが、私はさやかのことを退屈に感じ始めていました。話すこともないし、ことが終わると、早く帰って欲しいと思ったぐらいです。もちろん、そんなことは言えません。下手なりに一生懸命作ってくれる料理は、ありがたく食べました。


「彼の方が暴君だったら、急に彼女を邪険に扱ったりして、ここで終わっているんでしょうね」

「そこがポイントかもな」


 サークルの夏合宿で、私は恋に落ちました。同級生ですが、とても可愛い子です。土屋淳子という名前でした。彼女の方から私に接近してきたのです。あれやこれやと私が誘うようにし向け、合宿後に彼女が見たいという映画を一緒に見に行くことになりました。その後、一緒に飲みに行き、おおいに盛り上がりました。彼女は博識で、私が知らないことをたくさん知っていました。話していて、実に楽しかったです。さやかとの会話では、絶対にこんな刺激は味わえません。

 店を出てから淳子に自分の部屋へ来ないかと誘いましたが、頬を赤らめてまだ早すぎると断られました。わかっていただけるでしょうか?ノーの返事だったのですが、それは私にとって、とても新鮮でした。ちょっと嬉しくさえあったのです。呼べば必ずついて来るさやかと違い、彼女には自分がありました。はっきり自分の意思で断ったのです。


「まあ、わからんでもないけど」

「さやかちゃんが可哀想ですよ」


 部屋に戻って考えました。このまま、さやかとズルズルつき合っていて、何が得られるのか?この先の人生に何が待っているのか?私には、どうしても明るい未来が見えませんでした。

 ここらで仕切り直さねばと思いました。マンネリを打破し、これまでと違う方向に歩んでみたくなったのです。そのためにはまずさやかと別れ、淳子と交際を始めるべきだと決意しました。

 別れたいと言えば、きっと、さやかは泣くでしょう。でもお互いのよりよき人生のため、そこは乗り越えなければならないのです。二人ともまだ若いから、今ならやり直しがきくはずだと決意しました。


「何だか、聞いていてつらいですね」

「うん」


 明日、サークルの練習が終わったら、淳子を呼び出して交際を申し込もうと決意しました。その前にはまず、整理しなくてはならないことがあります。

 私は意を決して、部屋の電話に手を伸ばしました。その頃はまだ、携帯電話なんかありません。固定電話で、さやかに長すぎた交際の終了を告げようとしたのです。そして呼び出し音が三回聞こえた時、ドアのチャイムが鳴りました。

 また新聞の勧誘かと思い、ため息をつきながらドアを開けると、さやかがいました。

 彼女は泣いていました。その瞬間、私が思ったことは、別れ話を察して、やってきたのかということでした。後から考えると、そんな馬鹿なという話ですが、その時は心底からゾクッとしたのです。

 彼女は泣きながら、自分が妊娠したことを告げました。


「あちゃー」

「うわー」


 一瞬で、すべてが終わりました。この世は真っ暗になり、地面がぐるぐる回るのを感じました。気がつくと私はさやかを抱きしめ、ただ「大丈夫、大丈夫」と言い続けておりました。


「重たい話だな」

「きついですね。大学に入ったばかりですよ」


  確かに若かったし、ろくに予防もせずに行為におよんだことが何回もありました。いつかはそんな日が来てもおかしくなかったのです。まさに自業自得でした。まあ、中学や高校でそうならなかったぶん、まだましだったと言えるでしょう。


「それはそうですけど」


 さやかを自分の部屋に置いたまま、私は何日か呆然としていました。当然、大学へ行く気になどなりませんでした。部屋にはクラスやサークルの友人からひっきりなしに電話がきましたが、出る気になりませんでした。だって、何を話せばいいかわからないじゃないですか。

 こんな時、男の親友がいれば、まず相談したのでしょう。でも、私にはそういう存在がいませんでした。一人で悶々と考えるしかなかったのです。さやかは落ち込んで口もきけない状態でした。


「どうしたの?その後は」


 子供を堕ろすなんてことは全く考えませんでした。しゃがみこんで自分のお腹を抱え込み、泣き続けるさやかを見ると、そんなことができるはずがなかったのです。

 学生結婚という考えも浮かびましたが、それは現実的とは思えませんでした。子供を産むとなると、さやかは大学を辞めざるをえないでしょう。彼女を実家において、自分だけ大学に行く気にはなれません。


「うーん」

「難しいところだね」


 男として、さやかの両親に迷惑をかけるのも避けるべきだと思いました。しかしながら、私自身の実家もあてにできません。まあ、そのまま大学にいても、学費は何とかなったはずです。裕福な家庭ではありませんでしたが、母が学費はきちんと積み立ててくれていましたから。でも、女房と子供の生活費まで、甘える気にはなりませんでした。私にはまだ、高校生の弟もいたのです。あいつまで巻き込むことはできませんでした。


「自分だったら、どうするだろうと考えても、答えが見つかりませんね」

「いろんな要素があるからな。当事者じゃないと、何とも言えんね」


 私とさやかは大学をきっぱり辞めました。これも運命だと思ったのです。退学届を出してから、両親に事実を告げました。父は激怒し、私は勘当同然となりました。さやかの実家でも同じです。

 クラスやサークルの連中には挨拶すらしませんでした。何も告げずに一切の連絡を絶ちました。きっぱりと彼らのことは思い切るべきだと考えたからです。


「なるほどねえ」


 それから一年ほど後の話です。仕事の帰りにバッタリ淳子と会いました。男と一緒でした。ボーイフレンドでしょう。相変わらずきれいでした。そして、明るい色の、とてもおしゃれな服装をしていました。こちらは作業着です。思わず隠れたくなりましたが、そこは道の真ん中で、どこにもそんな場所はありませんでした。彼女は私に気づくと、汚物でも見るような目で私をチラッと見て、声もかけずに去って行きました。


「しょうがないなあ、それは」

「つらいですね」


 私は新聞広告で見つけたメーカーの求人に応募しました。もちろん中小企業です。面接に出た社長には、自分の境遇を正直に伝えました。それが気に入ってもらえたのか、単に人手不足だったのかわかりませんが、採用してもらうことができました。

 私はいったん入った大学をあきらめ、十八歳で社会人として、女房・子供を養うことになったのです。配属された工場では、最初は怒鳴られっぱなしでしたし、仕事はきつく、給料も安かったです。でも、これが自分の運命だと思って、受け入れました。私はただ、ただ、懸命に働きました。


「何だ、美談じゃないですか」

「そう思うだろ?」

「えっ、違うんですか?」

「まだ、続きがあるんだって」


 それから長い月日が流れました。その時生まれた娘は社会人です。その下にもう一人、大学生の男の子がいます。さやかは、すっかり太ってしまい、学生の頃の面影など全くありません。


「それは仕方ないだろう」


 私が就職したメーカーは大手のIT企業に吸収合併されました。今、私はその会社の営業部で課長として働いています。上司の部長は私より年下ですが、大卒です。彼は年上の私がうっとうしいのか、やたらとつらく当たってきます。大学さえ出ていれば、こんな奴に文句を言われなかったのにと思うこともあります。だけど、そんなことを言っても始まりません。黙々と働くのみです。


「でも、そのぐらいの年齢になると、大学を出ていても、上司が年下なんて、いくらでもありますよねえ。あんまり学歴は関係ない気がしますが」

「どうしても、思いがそっちに向かってしまうんだろうな」


 会社のことはいいとして、現在の私の一日について、お話しましょう。

 朝、起きると身支度をして、食卓に向かいます。前の晩にスーパーで買ってきた食パンを一枚自分で焼いて食べます。


「えっ?奥さんはどうされているんですか?」


 まだ寝てます。


「なるほど、奥さんも働いてるわけだね?」


 いいえ、専業主婦です。女房は一度も外で働いたことがありません。

 で、パンの話に戻りますと、子供が小さくて、今よりもっと金がなかった時は八枚切りを一枚しか食べられませんでした。昼飯まで、たいそうお腹が減ったものですが、今は六枚切りだから大丈夫です。牛乳も飲むことができますから、それなりに栄養も取れます。


「八枚切りと六枚切りの差って、そんなに大きいか?」

「牛乳も飲むことがって、昔はどうされていたんですか?」


 水道の水を飲んでいました。


「パンと水道水」


 食べ終わると食器を洗ってから玄関に向かいます。下駄箱の上には、私の一日分の小遣いが置いてあります。それだけは、女房が前夜に必ず準備してくれるのです。


「まさか千円札とか?」


 いいえ、五百円玉です。そのお金は私の昼食代です。会社の隣にある定食屋で四百八十円の弁当を買います。毎日同じ弁当です。お茶は会社の給湯器で作ります。自宅からティーバックを持ってきていますから。ディスカウントショップでまとめ買いしたやつです。

 一度、忙しくて部下の女の子に私の弁当を買いに行かせたことがありました。後でお金は払うからって言いましてね。そうしたら、彼女、気をきかせて缶のお茶も一緒に買ってきちゃったんですよ。

 冗談じゃありません。後にも先にも、会社で大声を出したのは、その時だけです。『誰が、こんなもの頼んだ!』と怒鳴りつけました。お茶は百二十円でしたから、弁当と合わせて六百円じゃないですか。百円足りないんですよ。

 あまりの私の剣幕に、女の子は泣き出してしまいました。私もやばいと気づき、すぐになだめましたが、もう手遅れです。オフィスの空気は最悪になりました。

 翌日、女房にもらった百円をその女の子に払いましたが、もう口もきいてくれませんでした。


「あたりまえだ」


 それ以来、私は弁当を必ず自分で買っています。


「最低だな」

「無茶苦茶ですね」


 私は煙草を吸いませんから、金を使うのは昼飯の時ぐらいです。自分の買い物でコンビニに行ったことは、もう何年もありません。何か買う時は、必ず近所のディスカウントショップでまとめ買いするようにしています。

 あと、会社の飲み会がある時は一週間前までに女房に申請します。無事決裁がおりると出席しますし、今月は苦しいと言われたら我慢します。


「そりゃ出世できないわ。自分で働いた金でしょ?」

「奥さんは昼間、何をされているんですか?」


 習い事をいくつかしているみたいです。結構飽きっぽいので、三日坊主が多いですね。最近ではカルチャーセンターでフラメンコを習っています。先週の日曜日は発表会だったので、ビデオカメラを持って撮影に来いと言われ、行ってきました。

 私だって、理不尽だと感じることはあります。俺が毎日冷えきった幕の内弁当食っているのに、なんで女房が習い事の帰りに友達とフレンチ食ってるんだと。

 若い頃はよく喧嘩しました。でも女房が、私の青春はあなたのおかげで台無しだった、私だって、もっともっとおしゃれしたり、旅行に行ったりしたかったのにと言われると、返す言葉がありません。

 私は十八歳のあの日以来ずっと、彼女への償いを続けているのです。


「うーん」

「まあ、わかるけど」


 会社では、できるだけ毎日残業するようにしています。もちろん残業代も欲しいですが、それだけではありません。自宅より会社の方が、居心地がいいのです。

 終電近くの電車で帰ると、女房と子供たちは、もう寝ています。私はやつらを起こさないように家へ入ると、服を脱いで台所へ行きます。冷蔵庫には、五割の確率で晩飯の残り物があります。あった時は、それを電子レンジで暖めて食べます。


「五割?」


 女房、子供が食べてしまった時は、残り物がないわけです。


「わかりますけど、普通はお父さんのために残しておきませんか?」


 子供が食べ盛りですから、仕方がないんです。


「そういう問題じゃないと思うけど」


 残り物がない時は例のディスカウントショップでまとめ買いしておいたカップラーメンか、食パンを食べます。


「壮絶ですね」

「そのうち死ぬぞ」


 そして風呂に入り、居間のソファにシーツと毛布をかけて寝ます。


「居間?」

「ソファ?」


 ずいぶん前から、女房とは別に寝ています。私のいびきがうるさいと言っては、しょっちゅう夜中に蹴って、起こされていたんですよ。それで寝不足になると、仕事に差し支えるじゃないですか。寝るのを邪魔されるぐらいなら俺が寝室を出る!と、その時はビシッと言ってやりまして。


「・・・・・・」

「・・・・・・」


 たまに早く家に帰っても、私の居場所などありません。子供部屋はありますが、私の書斎などないのです。居間では子供がテレビゲームをやっているか、女房がくだらないドラマをだらだら見ています。それが終わらないと、ソファが空かないので寝れません。

 そんな時は仕方なく、リビングのテーブルで朝に読み終えた新聞をもう一度読み返すか、持ち帰った会社の書類を見ながら、家族が寝るのをじっと待つことになります。

 まあ、さすがにそういうのは馬鹿らしいので、できるだけ会社にいるようにしているわけです。


「そこだけ取り出して馬鹿らしいと言われても」

「今の生活をどう思われているんですか?」


 まったく不満がないわけじゃないですけど、もう慣れました。私がちょっとだけ我慢して、家庭がうまくまわるなら、それでいいじゃないですか。女房と子供が気持ちよく暮らしていければ、私は何も望むことはありません。自分の人生には、とても満足しております。

 では、そろそろ目が覚める頃ですので、あちらへ帰ります。ありがとうございました。


 大川は一礼すると、部屋を出て行った。寝ている自分の体へと戻るのだ。目が覚めた後のいつもの日常へ戻るために。


「師匠」

「ん?」

「いつも思うんですけど、みんなこうやって毎晩天国へ来ているのに、死んだら来れなくなる人が多いって理不尽ですよね」

「まあ、そこは平等。人生の課題をクリアして天国に戻ってくるも、失敗して地獄に落ちるも本人次第だ」

「大川さん、戻ってこれますかね?」

「ニコニコしていたな」

「くもりのない笑顔でした」

「強烈だろ?」

「中学一年から現在に至るまで、まさに一直線。ミサイルみたいな人生ですね」

「最後は大爆発じゃなくて、不発弾っぽいけどな」

「この人生、ぼくは生きたくないですけど、ご本人は受け入れてらっしゃいますね」

「うん」

「奥さんも満足されているんじゃないですか? 自由気ままな生活を楽しんでいるみたいだし」

「それはどうかな?」

「えーっ、違うんですか?」

「聞いてみようか」

「えっ、来ていらっしゃるんですか?」

「どうぞ、お入りください!」


 中年女性が部屋へ入ってきた。確かに少し太ってはいるが、顔立ちは整っており、今でも十分、美人の部類に入る。彼女は夫の大川が座っていた椅子に腰掛けて、自分の人生を語り始めた。

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