第10話
私はアリスに案内されて、駅前の通りから一本入ったところにある、寂れた雑居ビルの前に来ていた。
「ここにボスさんがいるの……?」
「そうだよ。このビルに、ボスやヤマネさんがいる〈観測所〉があるんだ」
「か、観測所?」
「そう、観測所!」
説明を求めて問い返したものの、アリスの口からそれ以上の言葉は特にないようだった。アリスは慣れた様子ですたすたとビルに入っていく。私もそれを追いかけた。
そのビルは、駅前の狭い敷地に無理矢理押し込んだみたいに、窮屈そうだった。長細い六階建てだ。実際に建物の中に入ってみると、すぐにエレベータがあって、一階はそれで全部みたいだった。
エレベータの隣には、各フロアに入っているテナントの名前が書いてある。二三階が英会話教室で、四階が楽器店、五階が探偵事務所。六階は、店名からしてバーか何かだろうか。それ以外の表示は何もない。
ビルの中は薄暗くて、少し気味が悪かった。一人で来るような場所じゃない。
エレベータはすぐにやってきて、私たちはそれに乗り込んだ。エレベータの中も狭い。アリスは操作盤の前に立って、私はその後ろになった。
「観測所」なんて名前のフロアはなかったけれどな、と思ってアリスの手元に目をやる。
あろうことか、アリスは一階から順に全部の階のボタンを押していた。
「ちょ、ちょっとアリス、いたずらしちゃダメだよ」
もし五階とかで扉が開いて探偵さんと目が合ったら、どんな顔をして閉ボタンを押せばいいのだろうか。
「うーうん、これで良いんだよ!」
アリスは私の静止を意に介することなく、今度は上から順に全部のボタンを押していく。さらにそのあと、複雑な手順で何回かボタンを押していた。
呆気にとられて見守ること数秒、エレベータの扉が閉まった。そして、浮遊感を感じる。
え、下に下がっている……? さっきの表示を見た限り、このビルに地下はなさそうだったけれど……
エレベータは、すぐにガコンと止まった。ゆっくりと扉が開く。
アリスの肩越しに見えたのは、薄暗くて広い部屋だった。学校の教室くらいある。しかも、部屋のこちらから見て前方の半分は床がなく、下のフロアへ吹き抜けになっていた。エレベータを降りて真っ直ぐ進んだ先には階段があり、そこから下のフロアに降りることが出来るようだ。そして、前面にある二階分の壁には、それを覆う大きなモニターが取り付けられていて、意味の分からないたくさんの図や文字が画面を埋め尽くしていた。天井の照明は淡く、大きなモニターの光と、あとは各所で足元を照らしているフットライトだけが、頼りになる灯りだった。
とても、あの狭っ苦しそうな雑居ビルの中とは思えない。地下であることを良いことに、周囲の空間を自由に使ってしまっているようだった。建築基準法とか大丈夫なのかな。
「シラユキ、ここが〈観測所〉だよ! トクベツなテジュンでボタンを押さないと、来られないんだ」
なるほど。
さっきの難解なボタンの操作が、この部屋の存在を隠しているということらしい。
アリスに付いて、エレベータを降りる。
降りてすぐ右のところに、机が一つあった。男の人が座っている。
私たちが来たことに気づいて、その男の人はすっと立ち上がった。近づいてくる。モニターの灯りに照らされているだけだから、表情まではよく見えないけれど、とにかく大柄な人だった。
「ようこそ。〈観測所〉へ」
男の人が手を差し出す。握手をしようということらしい。私はこわごわと手を出して握った。その人は、白衣を着ていた。銀縁のメガネをかけていて、髪はぼさぼさで無精髭を生やしている。
「俺は、この〈観測所〉のボスだ。気軽にボスと呼んでくれ」
この人が、アリスのいうボスという人みたいだ。
「……沙川白雪と言います」
ボスさんの自己紹介に、私も自己紹介を返す。
「君が白雪くんか。アリスから話は聞いているよ」
ボスさんはニコリともせずに、淡々と話を進める。大きな体格と相まって、近寄りがたさを感じてしまう。けれど、アリスはボスさんと仲が良いみたいで、気さくに話しかけた。
「ボス、大変なんだ! 実はシラユキがね……!」
「ふむ」
「ヘンシンできるみたいなんだ! しかも、すっごく強いんだよ」
両手をばっと広げる身振りを加えて、さっきのことを一生懸命伝えようとするアリス。
「なるほど。やはりか」
一方のボスさんは、無感情に言葉を返すだけだ。とても対照的だったけれど、二人の間にある馴染みの空気感が、それがいつもの調子であることを物語っていた。
ボスさんはアリスの話に数回うんうんと頷いていたけれど、彼女の話が一区切りついたところで、私のほうへと水を向けた。
「白雪くん、そういうことなら話が早いな。俺も、君がアノマリーを認識できると聞いたときから、実は君に変身する素質があるんじゃないかと期待していたんだ」
「話、ですか?」
「そうだ。この変身する能力は、とても限られた人間にしか備わっていない。少なくとも、我々〈観測所〉で現在存在を確認できているのは、アリスだけだ」
そんな能力が私に備わっていたということに、未だに現実感が湧いていない。
「そして、どうしてかは俺たちにも分からないが、その能力が君にも備わっている。君は、選ばれた存在なんだ。そんな君に頼みたい仕事があってね」
ごくり。私は生唾を飲み込んだ。
ボスさんは私の表情に、何かを見たのだろうか。
「……君は。人助けをしてみたいとは、思わないかな?」
そこまで話すと、ボスさんの顔に初めて薄らと笑みが浮かんだ。
他人の役に立つ。それは、私がもっともやりたいことだ。
「き、興味は、あります」
唇が震えた。
「そんなに身構えなくていい。実は、もう君は先刻、その仕事の一つをこなしているのだから」
もしかして、それは。
「そう、アノマリー退治さ。」
確かに、それなら今日もやったし、昨日も同行した。
「アノマリーに干渉することができるのは、変身能力を持つ人間だけだと考えられている。だから、君たちにしかできない仕事なんだ」
でも。
「……アノマリーを退治することが、どうして人助けになるのですか?」
今日はたまたまアノマリーの中でポレゼさんたちに会って、彼らを手伝うことができたけれど。昨日は別にアノマリーの中で誰かに会ったわけではなかった。アノマリー退治をすることが、人助けとどう繋がってくるのかは、正直見えてこない。
「それを説明するには、まずはアノマリーについて詳しく話したほうが良いだろうね」
ボスさんは、一度自分の机に戻ると、白紙のコピー用紙を何枚か持ってきた。そして、同じフロアの奥にあった背の低いテーブルのほうへと、私たちを案内する。テーブルの両側には、二人掛けのソファが一つずつ並んでいた。ここだけ、応接室とかにありそうな家具の配置だ。
ボスさんはソファに座ると、テーブルにあった卓上ライトを点け、そこに紙を並べた。向かい側のソファへ座るように、私を手で促す。
腰を据えて、しっかりと説明しようということなのか。
私は、塾の授業を受けるときみたいに気持ちを集中させながら、ソファに座った。
ふとアリスはどうするのかと思って、アリスのほうを見上げると、彼女はニコニコしながら私の隣に入り込む。なんでか彼女が肩にもたれかかってくるのを、体重をかけて押し戻しながら、私はボスさんへと視線を送り、話の続きを求めた。
ボスさんはアリスのことは気にせず、口を開く。
ここでは、こういうアリスの自由な振る舞いは日常茶飯事なのかな……
「白雪くん、まずはこの世界の仕組みについて、話しておこう」
『世界の仕組み』とは。ずいぶんと大きく出た話だ。
「君が認識しているその世界は、何を拠り所にして存在していると思うかね?」
それは、何がこの世界を作っているのか、という問題だろうか。
塾の授業では、身の周りのものは原子という小さいつぶつぶから出来ているっていう風に習った。さらに言えば、この前のテレビで、その原子がもっと細かいものに分解できるという話も見た気がする。確か……
「素粒子、ですか?」
ボスさんが目を見開く。
「ほう、君は若いのによく勉強しているみたいだね」
他人から褒められるのはやっぱり気分が良い。頬が緩む。
ボスさんも嬉しそうに続けた。
「実は、俺の専門は正にその辺りなんだよ。本当なら事細かに語りたいところなんだが、今はそこが本題じゃないからね。我慢しよう」
そこで一旦言葉を切って、何と言おうか迷っているような間が少し空いた。
「確かに、この世界のソフト面での仕様は、素粒子だったり様々な物理法則によって記述されるんだが…… 俺がここで話題にしたいのは、もっとハード寄りの話なんだ」
言葉の意味がだんだん取れなくなってきていた。
「君が認識している世界で起きている現象や運動は、何によって演算され意味づけられていると思う?」
私は、お手上げであることを示すために、首を傾げた。
ちなみに、アリスは初めからあまり聞いていなかったようで、テーブルに並んだ白紙の一枚を手にとって、紙飛行機を折っている。
「それは、君自身の主観だ」
メガネ越しに見えるボスさんの目が、私の瞳を貫く。
ボスさんの説明はなおも続く。
「我々観測者は、主観でもって、目の前で起きる現象を演算して、そしてそこに意味を与えている。むしろ、それこそが観測者の意識だと言っても良い」
そう言いながら、ボスさんは白紙の上に何人かの棒人間を描いた。そのうちの一つに「シラユキ」と書いて、隣の棒人間には「アリス」と書く。そして、それぞれの棒人間を大きく囲うに、少し歪んだ円を描き足していった。
「そして、観測者それぞれが認識する世界は、通常多かれ少なかれ、周りの観測者が認識する世界と重なり合っている。ちょうどこの絵みたいに」
円で囲った領域は、私やアリスが認識している世界を表しているのだろうか。私を中心とする円にはアリスが含まれていて、アリスを中心にした円にも私が含まれている。両方の円に共通して含まれる領域を、ボスは指さしていた。
「こうして観測者たちの認識する世界が貼り合わされていった結果、全体としての世界が矛盾なく演算されていくんだ!」
他の棒人間の周りにも円を描いていき、気づけば紙の中のほとんどの領域は、どれかしらの円に囲まれていた。
「しかし、我々の主観は、必ずしも一致するとは限らない。この重なりあっている領域において、主観たちがそれぞれ別の意味づけを与えてしまうことだってあるだろう。さて、そういうときにどうなるか!?」
……
説明が佳境に入っているのか、ボスさんのテンションは右肩上がりだ。でもちょっともう、私は説明についていけていない。
「全体として無矛盾であるためには、その歪みを引き受ける何かが必要だ」
それが何か分かるよね?と言いたげなボスさん。
文脈から考えれば、一つしかないかな。
「……それが、アノマリー?」
「そう! 正にその通りだ!! お互いの認識の齟齬の辻褄を合わせるためには、観測者たちが認識する世界の貼り合わせ方を歪めるしかない。そうしてお互いの認識する世界の外側に生まれた歪みこそが、時空的な異常、アノマリーだ」
とりあえず、アノマリーが良くないものであることは何となく伝わってきた。
そして、さっきアリスが言っていた「一般人はアノマリーを認識できない」という話を、ふと思い出す。アノマリーとは、それぞれの観測者という存在が認識する世界の外側に生まれるものらしい。
でも、話が抽象的すぎて、よく分からないので、もっと具体的な説明を聞きたい。
「そ、そうであるなら、アノマリーを退治せずに放置しておくと、何か良くないことが起こるのですか?」
「良い質問だね。実を言ってしまえば、アノマリーを放置しておいても大惨事になるわけではないよ。ただね、アノマリーは歪みだ。そして、歪みはエネルギーを蓄えている。このエネルギーは、歪みを解消するという形で、最終的には消費されなくてはならない」
「消費されると、どうなるのですか?」
「この歪みは、主観同士の認識の齟齬だからね。誰かの主観がねじ曲げられるという形で、歪みは解消される。だから、アノマリーを放置しておくと、アノマリーの形成に関わった観測者の誰かが悪夢を見るとか、憂鬱を感じるとか、そんな感じの効果がいずれ生じることになる」
「わ、私たちがアノマリーを退治できれば、それを防ぐことができるってことですか?」
「うんうん。君は本当に話が早いね。そうだよ。アノマリー退治では、アノマリーが持つ歪みエネルギーを、君たちが持っているコンパクトに吸収して、安全に歪みを解消してしまう。そうすれば、誰も主観のねじ曲げを受けずに済む。これが、人助けの正体だ」
口で説明されただけではにわかに信じがたい。一方で、昨日今日と信じがたい現象に実際に巻き込まれ続けているのも事実だ。このボスという人の言葉も、真実なのだろうという気がしてくる。
私の力で誰かが苦しまなくていいのなら、そんな嬉しいことは他にない。
「しかもね、君たちにもメリットがあるんだ」
ボスさんは、ここがアピールポイントだとばかりに身を乗り出してくる。
「コンパクトに蓄えたエネルギーは、別の形で利用することができる。認識の齟齬からエネルギーを取り出せたように、このエネルギーを利用して認識に介入することもできるんだ」
けれど、私としては、自分にとってのメリットはこの際どうでも良かったりする。他人の役に立てるなら、それで。
とはいえ、適度に合いの手を入れるのはマナーだろう。
「つまり……?」
「エネルギーがコンパクトに貯まれば、そのエネルギーに応じて、君たちのしたいこと、願いを叶えることもできるんだ!」
自分の願いか。人助けの話から、急に欲にまみれた話になった気がする。
「そうは言っても、コンパクトに貯まったエネルギーの一部は、俺たちの研究にも利用させてもらうけれどね。だが、余った分は君たちの好きにして良い」
もう一度、ボスさんの視線が、私の瞳を刺した。けれど、彼は。私の目を見ているようでいて、もっとその奥、私の心を覗き込もうとしているようだった。
「白雪くん、君には叶えたい夢があるんじゃないかな?」
「……ゆ、ゆめ?」
私には、別に大した欲はない。そう思ったけれど。
そういえば。
「わ、私は、たくさんの人を助けられるような人になりたい」
「うん。良い夢だ。そのために必要な能力も、コンパクトにエネルギーを貯めれば、手に入れることができると思うよ」
――!!!
私は、たくさんの人を助けられるような人でありたくて。そのために能力をつけて立派な仕事に就きたくて。だから今、真面目に勉強を頑張っているんだ。
それが、人助けをしながら、最終的にはさらに他人を助けるための能力まで得ることができるなんて。願ってもない話だ。
私は、目に力を込めて、ボスさんの瞳を見返す。
「分かりました。アノマリー退治、私にもやらせてください」
今後のことについてしばらく話した後、彼女は帰っていった。途中まで送っていくというので、アリスも彼女に付いて行っている。
しかし、時間の流れというものは早いものだ。
淹れたばかりのコーヒーを飲みながら、俺はついつい目を在りし日へと向けてしまう。
「『どうしてかは俺たちにも分からない』だなんて、ずいぶんと白々しいことを言うんですね。沙川さんは」
階下から階段を上ってきた山根が、からかうように言う。
「コラ。ここではボスと呼ぶように言ってあるはずだが?」
あれは、すぐこの前の出来事だった気がしていたが。しかし、思い返してみればもうかなりの時間が経っているようだ。彼女がもう中学生になっているというのも、確かに頷けた。
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