8 bank

protagonist:


 ホテルのスイートで、僕はいつも通りなポロシャツにスラックスという格好でぼんやりと本を読んでいた。そしてMacBook Airに映し出された結果をあらためて眺める。

主人公「もう一度、地獄がつくられはじめている……」

 あくびをしながら、ふと視線をベッドにやる。そこでは未冷先生が幸せそうに惰眠を貪っていた。朝食ののち、再び眠ってしまったのだ。僕はふとつぶやいていた。

主人公「休校期間だっていうのに、先生もほんとに忙しいんだね……」

 そのとき、呼び鈴が鳴らされる。僕は本を閉じ、机に置いた。その本の表紙には、暴落、と書かれている。

 扉を開けると、そこにはコンシェルジュのお姉さんが紙袋を抱えていた。

明穂「オーダーされていたスーツが届きました」

 僕はどうも、と言いながら受け取る。その時、じっとコンシェルジュのお姉さんが僕を見上げている。僕は首を傾げた。

主人公「あの……僕けっこうここだと浮いているんです?明穂さん」

 明穂さんと呼ばれたお姉さんははっとしたように、

明穂「ごめんなさい、お話は未冷様からかねがね伺っていたので、どんな方なのか、ずっと気になってて……」

 僕は苦笑いする。

主人公「特筆することは何もなさそうですが」

 お姉さんは微笑む。

明穂「泣かれた子に一夜漬けで挑み直す男の子に特筆するところがないというのは、謙遜されすぎでは?」

 僕はため息をつく。

主人公「あれはその……あまりにも彼女が放っておけなくて、つい……」

明穂「そういうところに、未冷様は惹かれたのでしょうね」

 僕は驚いて顔を上げる。

主人公「惹かれたって、先生が……」

 その時、背後からがばり、と誰かが抱きついてきた。未冷先生だった。彼女は僕の背中に顔をうずめている。

未冷先生「その話は、おしまい」

 お姉さんはにこにこと笑っている。僕はどうすればいいかわからず、視線を未冷先生と明穂さんにやることしかできなかった。


 僕がスーツを着て出てきた時、未冷先生は頷いていた。

未冷先生「やっぱり、最高に似合うね」

 僕のスーツは、茶系のオーダーメイドのものだ。僕はその生地を触る。ひどく触りごごちがよく、何よりも。

主人公「先生、気持ち悪いぐらい、体にフィットするよ」

 未冷先生は笑う。

未冷先生「オーダーメイドでそうじゃなかったらだめでしょ?」

 僕は頷く。

主人公「わかる。けど、オーダーメイド自体がはじめてなんだ」

 それもそうか、と彼女は言いながら、僕の肩に手を置いて、姿見まで押していく。そしてたどり着いたその先で、未冷先生は微笑む。

未冷先生「ほら、みて。もうあなたの大好きなユニクロじゃないよ」

主人公「僕が好きなわけじゃないんだけど」

未冷先生「でも、いつも着てるじゃない?自分で買いにいくわけでもなく」

 僕は天を見上げる。

主人公「そういえば、そうだな」

 未冷先生は笑う。

未冷先生「君はこの格好も似合うけど、いろいろ混ぜて組み合わせたほうが君らしくなりそう」

 僕は姿見のなかの自分をみながら肩をすくめた。

主人公「まだまだ僕には難しそうだよ、先生」


 東京駅に程近い銀行のオフィスの中に入るのは、異常なまでに体にフィットするスーツを着るのと同様に、形式上インターンのはずの僕にとってははじめてのことだった。けれどこうして格式ばった会議室でぼんやりとホットコーヒーを飲んでいると、なんだか気が紛れてくるかのようでもある。そんな僕をじっと頬杖をついて見つめるがっちりとしたパンツスーツの衛理は言ってくる。

衛理「あんた、もしかして寝不足?」

主人公「ばれたかな」

衛理「いや、普段より静かな気がして」

主人公「そうかな」

衛理「あと、コーヒー二杯目じゃん」

 僕は素直に認める。

主人公「なんだか、体に染みてね」

 そう言いながらふたたびコーヒーに口をつける。衛理は訊ねてくる。

衛理「いつも思うけどさ。それ、砂糖入れないままでほんとにおいしいの……」

 僕は頷く。その様子を見て彼女は疑わしげに、

衛理「やせがまんじゃなくて?」

 僕は苦笑いする。

主人公「確かに中学生の時、缶コーヒーの冷たいブラックを飲んだ時はこの世の終わりかと思ったけどね」

衛理「じゃあどうして飲めるの」

主人公「親父とおふくろがよく飲んでて。一緒に飲んでたら、慣れた」

 その時ふと、衛理が訊ねてくる。

衛理「あんた、お父さんとお母さんは」

主人公「死んだよ、交通事故で。よくある話だろ?」

 そう言って笑いかけた時、衛理は俯いていた。真依先輩も同じく。僕は座り直す。

主人公「ごめん」

衛理「じゃああんたはどうやって学校に……」

 高校でいつも使っていたフレーズを使う。

主人公「保険さ。僕は死人の金で生かされていた」

衛理「そのさ、寂しくとか、なかったの……」

主人公「どうだろう。確かに家はエアコンや加湿器をつけないと、とても静かになったけれど」

 その時、真依先輩がおもむろに告げる。

真依先輩「今ならあなたと一緒に暮らし始めた未冷の気持ちも、わかる気がする」

 僕は彼女たちをふと見た。彼女たちが、一様に俯いている。

 その時、奥から受付のお姉さんがやってくる。

受付「お客様がお越しです」

 そうしてひとりの男がふらりと入ってくる。その足取りはどこか営業マンのものとは異なるとすぐに感じた。場所に合わせて完璧にスーツを着ているが、革靴はベージュでネクタイの色も目立たない程度だが朱色のストライプ柄が採用されている。腕時計は大きいものを使っている。わかる人が見ればそれが高級な時計だと気づくのかもしれなかった。僕らをじっと観察をしている。が受付のお姉さんが立ち去っていくとやがてこう言った。

栗原「栗原です。よろしくどうぞ」

 真依先輩が告げた。

真依先輩「おかけになってください」

 ゆっくりと買収者バイヤーは腰がけるが、愛想笑いのひとつを浮かべることなく、おもむろにこう告げた。

栗原「それで?こんな弱小ファンドに相談ってのは?」

 僕は準備していた会議用のディスプレイに、黒沢から与えられたNFTアートの画像を表示する。そして告げた。

主人公「栗原さん。これの来歴と価格について知りたいんですが」

 栗原さんは表情を変えることなくこう言った。

栗原「これはどういう経緯で手に入れたんです」

 真依先輩が答える。

真依先輩「暗号通貨で破産したクライアントから差し押さえました。それでトラッキングをしてあなたに行き着いた」

 栗原さんはアートを見つめながら言った。

栗原「それは嘘だな」

 真依先輩は予想だにしない反応に体をわずかに反らす。ゆっくりと買収者バイヤーは前へとかがみ、告げる。

栗原「お前らのクライアントが価値に気づける代物じゃない」

 執行者エクゼキューターである衛理は座り直して告げる。

衛理「私たちの手元に鍵はあるけれど」

 買収者バイヤーは沈黙し、衛理を見つめる。そして、眉をよせ、ふとつぶやく。

栗原「あんた、どこかで会ったことがあるか?」

 衛理は何かに怯えたように、目を伏せる。そして、買収者バイヤーは何かに気づいたように、チャシャ猫のごとくゆっくりと笑った。

栗原「因果なこともあるもんだな」

 そして、買収者バイヤーは続けた。

栗原「まだ未熟なお前らインターンどもに教えてやる。お前らくらい若い行員がこの時期にいるのはこの会議室じゃなくて、銀行窓口だ。そして、若い行員の割には良すぎる服の素材だし、取引先の前とはいえ硬すぎるチョイスだ。行員を振る舞うのは初めてか?」

 衛理と真依先輩はわずかに体を遠ざけた。ふと足元をみると、両足首を組んでいる。そして買収者バイヤーは僕を見た。

栗原「特にお前。服装じゃ誤魔化しきれねえよ、技術者エンジニア

主人公「なぜそう思ったんです」

栗原「一番体が動いていないからだ。足を動かしていないだろ?」

 そう言って、彼は衛理と真依先輩を見比べながら言った。

栗原「一説によれば、大脳辺縁系のシグナルは体の反応として直接出てしてしまって、ごまかしが効かないんだそうだ。それが一番簡単に出るのは、さほど嘘をつくために訓練されていない足や姿勢まわりだ」

 衛理と真依先輩は戸惑うように僕と自分自身を見比べている。彼は微笑んで僕へと続ける。

栗原「兵士でも、調査官でもない。技術的な背景が完璧に頭の中に叩き込まれている技術者エンジニアであるお前だけが、俺が素性を早々に見破るとわきまえていた」

 衛理と真依先輩は僕へとみつめる。僕は大きく息を吐いた。そしてゆっくりと告げる。

主人公「それだけの観察眼を持つ買収者バイヤーであるあなたが辞めた公安は、変わりました。暴力団の指揮する学生のテロリスト集団による学校への襲撃を見過ごした。だから僕らインターンが、その火消しをしはじめている」

 その言葉に、衛理も、そして真依先輩も目を見開く。買収者バイヤーも笑みを消し、口を固く結ぶ。だがやがて口を開く。

栗原「俺がお前らみたいな連中をつくっちまったんだ」

 買収者バイヤーはモニタに映ったNFTを親指で差し、

栗原「そのやりかた、陽子がうまくやってのけていた。俺はそれを止めるために、この星の規範ルールを教えてきた。そうしたら、あいつはそれをくぐり抜けるようになっちまった。証拠がそのNFTだ。あいつはいまだにそれを続け、俺たち公安が葬ってきたものより、ずっと大きな闇を引きずり出し始めた。いつしか、拮抗者アンタゴニストと呼ばれるに至った」

 気を取り直した真依先輩は訊ねる。

真依先輩「つまり……陽子は完璧な脚本が書ける?」

栗原「手慣れていれば、そう難しいことじゃないらしい。クソコインを手に入れた後でその値段が釣り上がっていくとき。人間の認識につけいることは?」

 真依先輩は告げる。

真依先輩「できる。下手な詐欺よりも、ずっと簡単に」

 栗原さんはうなずいて腕を組み、

栗原「集団的ポンジスキーム。それをあいつはクソコインを売りつけるための脚本(S-Crypto)、つまり暗号通貨売却(Selling-Cryptocurrency)と呼んでいた」

 衛理は皮肉げに笑う。

衛理「とんだ詐欺じゃん。そこまで女の子に教えてもらいながら、あんたはなんでここまで見逃してきたの」

栗原「法の整備を待ってしまってな。被害者は暴力団やら犯罪組織に限定されていたせいで、執行は大幅に遅れた」

衛理「それで犠牲になった一般人もいるのに?」

 買収者バイヤーはゆっくりと首を振る。

栗原「だれも教えてくれなかったのか?法を破って動いたとき、それ以上の犠牲を自分と社会が支払うことになるってことを」

 そう言われて、衛理は笑みを消し、視線を落とす。その中で栗原さんは続けた。

栗原「気が付きゃ奴の分身の山が高校生ときた。おまけに暗号通貨の価格はまた高騰してやがる。仕方がない。供給マイニングが間に合わないくらい暗号通貨は買い漁られている。自分の会社の財務諸表すらまともに読めない売買人トレーダーどもが生まれ、夢と現実の境を見失っている」

 僕は静かに訊ねる。

主人公「だから諦めて……公安をやめて、高校生すら見殺しにするんですか」

 僕をじっと見据え指を組みながら、買収者バイヤーは言った。

栗原「お前のような本星でなくとも、暗号通貨をトレーディングカードみたいに買い漁っている。この救えない世界を、どうしろと?」

 僕は、かつての同級生たちの会話を思い出し、俯く。

 そこに栗原さんはおもむろに告げた。

栗原「行政の犬でしかなかった俺は、この星には不要だ。そしてスマホしか触れねえ電池バッテリーどもも、この星に必要はない」

 僕は訊ねる。

主人公「ならなんで、事実を、世間に公表しないんです。今や暗号通貨は詐欺に使われる。被害はさらに深刻化する」

 栗原さんは沈黙する。そして告げた。

栗原「わかってる。わかってるさ。どうにかするべきはお前らやあいつらだってな」

 彼は背もたれにうなだれる。

栗原「だがな、陽子は壊れかけの大企業にも、暗号通貨で食い込んだ。まともに仕事もできない、馬鹿どもにだ。そのおかげで、他のまともな企業は馬鹿どもを原資に世界を発展させられる。陽子の肩にはすでに、暗号通貨とも関係のない数十億の人間がかかっている。あれはいまや、馬鹿どもから金を搾り取り、正しく還元をもたらす母胎マトリックスなんだよ。そうこの星が、認めてしまったみたいでな」

 そして栗原さんは前屈みになり、僕をじっと見つめ、

栗原「そこまで言うなら教えてくれよ、技術者エンジニア。もしいますぐシステムを止めたら……電池どもは、どうやって暮らせばいいんだ?」

 僕は唇を固く結ぶ。栗原さんは続ける。

栗原「連中は、お前みたいに何かつくって生きていけるわけじゃない。あのふざけたバブルの再興だの、なんとかドリームだのに現を抜かす、永遠の素人ヌーブなんだぜ?」

 僕は答えることもできず、目をそらし、沈黙する。栗原さんはその様子を見て椅子に深く腰がけ、笑った。

栗原「悪い、つい昔を思い出してな」

 そういって栗原さんは席を立つ。

栗原「現実を公表してこの世界にヒビでも入れてやれよ、そのほうがタメになるんだろ、高校生……」

 立ち去ろうとする彼に、僕は告げる。

主人公「陽子の取引先が、なぜか揃って暗号通貨を買いはじめている。これからテロが起きる」

 栗原さんは、驚いて僕へと振り向いてくる。それは衛理や真依も同じだった。

 栗原さんは訊ねる。

栗原「どうやって調べた」

主人公「僕は銀行の手先だから」

栗原「お前、まさか口座を追跡したのか……」

 衛理が呆然と見つめてくる。

衛理「あんた、寝ていなかったっていうのは」

 僕は頷いた。

主人公「組織犯罪処罰法によって金融諜報機関FIUがつくられ、疑わしい取引の一元的な管理が実現されている。こうして銀行が必要に応じて開示できる情報があるということは、銀行員で調べられるってことだ。

 最近のテロ事件の前後で特定の口座が常に有利な立場ポジション取引トレードが続いていたようだけど、今度は軒並み買いに走っていることに気がついた」

 その時、にやりと栗原さんは笑った。

栗原「かなり強固なセキュリティのもとにあるはずだ。罪に問われるんじゃないのか?」

 僕は微笑む。

主人公「犯罪対策のために行員が情報を調べるのは、業務の範囲内でしょう。この銀行の規定でも、問題はなかったです」

栗原「ITシステムとしてはガバガバ統制ガバナンスだと思うがな」

 僕は続ける。

主人公「陽子と僕らを更生してくれませんか?今度こそ」

 その言葉が意味することを栗原さんは理解したのか訊ねる。

栗原「俺はすでに一度しくじった。買い被りすぎじゃないのか」

主人公「はじめてよりも、やり直す方が簡単です」

 栗原さんは視線を落とすが、おもむろに頷いた。

栗原「高校生に発破をかけられるなんて、思いもしてなかったな」

 ところで、と栗原さんは訊ねてくる。

栗原「もしかして、お前も何かをやり直しているところなのか?」

 僕は沈黙を貫いた。

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