2-2
一限目の授業をどうにかこうにか終えると、教室にはいつもとは違う、囁きあいによるざわめきが充満した。
視線はほとんど、一点集中。そんな中でも圭は姿勢を崩すことなく黒板を見ている。――どうやら板書を書き写しているらしい。
清良はそっと席を立つと、よし、と一度心臓あたりを叩いた。
その拳の中には、まだあまり使用感のない消しゴムがひとつ。
一方的な気まずさはあるにはあったが、困っているのに放っておくほうが気が引けたのだから仕方ない。
「これ、よかったら使って」
自然に、力まず、慌てず。その3つの単語を心の中で詠唱しながら、彼の机にその消しゴムを置く。
すると圭はぱっと顔を上げて、じっと清良の両の目を見つめた。
「その……すごく助かるけど、いいの?」
「うん。俺2つあるから」
「……ありがとう。ええっと、……ごめん、もう一度名前を聞いても?」
その表情は、喜び半分、申し訳なさ半分といったところだろう。紹介された名前を覚えていなかった気まずさを加味すれば申し訳さの割合はもう少し増えるかもしれない。
まああの流れじゃね、と清良は複雑な笑みを浮かべて改めて自分の名前を口にした。
「藤井、藤井清良です」
一音一音、丁寧に。
自分の名前を名乗るのにここまで緊張をしたのは始めてだったかもしれない。
「キ、ヨ、ラ……?」
素直に復唱しながら、うん? と首を傾げるその様は大層可愛らしく、清良は思わず一瞬目を逸らした。
今このタイミングで余計なことを口走るわけにはいかないからだ。思ったことを口にしたら最後、今後まともに声をかけられる気がしない。
「どんな字? 書いてみてもらってもいいかな」
「え」
清良の内部でそんな戦いが起きていることなど知る由もない圭は、机にかけていたリュックサックの中から掌サイズの手帳を取り出した。
色はターコイズブルー。しっかりとした表紙に挟まれた分厚い紙の束は、それが長い時間をかけて使い込まれていることを如実に物語っている。
圭はパラパラとそれを捲ると、「ここがいいか」と一番最後のページを清良に差し出した。
思いがけない展開にちょっとだけ慌てつつも、清良も素直にそれを受け取る。
字を書くならと自席に座ると、圭がくるりと体の向きを変えた。
(……おお……人がいる……)
長らく空席だったその場所に人が居る。その実感にちょっとだけ感動したのは秘密だ。
ペンケースから取り出したのは、お気に入りの青のボールペン。
そして名乗った時と同じように、一文字一文字、丁寧に『清良』と書き込む。
「……はい、書いた」
「ありがとう」
白紙だったページの、一番上、左側。そこに遠慮がちに書かれた文字を見て、圭は嬉しそうに笑った。
「成程、これで『キヨラ』……。結構珍しい感じ?」
「あーどうだろ? 少なくともクラスメイトとかぶったことはないかな。女の子みたいってからかわれることが多かったから、俺はあんまり好きじゃないんだけど」
自分の名前について、清良はあまりいい感情を持っていない。特に小学校低学年の頃はよくからかわれたし、いじめまがいないじり方をされたこともあるからだ。
一番強烈な思い出は、たまたま遅刻した日に「4時間目は体育館で授業」と書かれたメモを見て飛び込んだ先で女子だけの性教育が行われていた、という今思い出しても赤面モノの出来事である。日頃の行いと、女子から煙たがられるタイプではなかったことで一命を取り留めたが、それでも小学生男子にはつらい。
「んー……いい名前だと思うけどなあ」
圭は不満そうにと眉を寄せると、自分の席のペンケースから赤いペンを取り出した。
「清らかで、良い……いや、意味はどれだろ、豊か…穏やか……?」
清良が精一杯丁寧に書いた少しいびつな『清良』の下に、流れるような筆致で『kiyora』と読み仮名が綴られる。
「何より響きがいい。綺麗だ」
そして清良ほど余程自然に、さらりと口説くような言葉を述べた。
「だから俺はそう呼びたいんだけど――OK?」
それも清良を覗き込むように、少しだけ顔を傾けて。
挑むような、おねだりをするような、悪戯な笑みを添えて。だ。
「……はい……」
それはイエス以外の言葉を完全に封殺する、完璧な一撃だった。
おそらく圭は、自分の顔面の使い道をよく知っている。むしろそうじゃないとやばい。
「美少年こっわ……」
隣で次の授業の準備をしていた旭の呟きに全力で頷いて、清良は机にべしゃりと落ちた。
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