七
何かが崩れてしまった。その時の姉の表情に対して友幸が抱いた感想はそのようなものだった。第一志望の高校に落ちた時の青ざめた顔からは、自分の目の前にある現実が信じられないとでもいうような感情が浮き彫りになっていた。
元々、足の速さを評価されたうえでの私学のスポーツ推薦という話もあったが、両親は何かと安定しない道だと心配し、姉もまたそれに同意したのもあり、県内の最高学力の公立高校を受けることになった。模試での判定も上々であり、両親も、教師も、そして姉自身も受かることを疑っていなかったように見えていたし、友幸もどうせ受かるのだろうと思い込んでいた。
その結果、姉は第一志望の高校に落ちた。これには友幸も驚きを隠せなかった。というよりも、姉が決定的な失敗をするということ自体が信じられなかった。
これまで周りに期待され、それに悠々と応えていた姉である。失敗がない人生がきっと目の前で続いていくのだろう、という友幸が持ち合わせていた無条件の信仰。それが受験という不確定事項により打ち破られた。
呆然と立ち尽くす姉を両親は必死に慰めようとする。幸い第二志望の公立は受かっていたため、行き先には困らない。
「うん、そうだよね」
しばらくしてから、正気に返ったらしい姉は薄く笑ってそう応えた。しかし、その間も目は泳いでおり、下ろされた拳は硬く握りしめられている。状況からも振る舞いからも不本意であるのは明らかだったが、両親も友幸も触れないままでいた。
姉の中学卒業後の春休み、両親とその祖父母を呼んだうえでの高校入学祝いが近所の料亭にて行なわれた。
細かい事情を知らされていないのか、あるいは触れないように気を遣っているのか、四人の老人たちは心底嬉しそうに、おめでとう、の言葉を姉へと投げていった。この態度は出来のいい姉を褒める時の祖父母にありがちなものだったため、現在の友幸はおそらく前者だと踏んでいる。
「友君も、二年後は頑張んないとな」
父方の祖父は日本酒を片手に、悪気がなさそうに言ってきた。この反応もまた、姉への誉め言葉のおまけみたいなものだと友幸も心得ていたため、そうだね、と軽く流しつつ、手元にある鯛の刺身を口の中に放りこんだ。この少し前までは、小中と年齢で自動的に上の高校に入っていたのもあり、受験というものに対する想像力はほとんど働いておらず、それこそ小説の中で主人公が体験することとか、ニュースで合格祈願に神社を訪れている少年少女たちの姿がぼんやりと浮かぶくらいだった。しかし、こうして祝いの席が開かれる少し前に、必死に挑んで跳ね返された姉の姿を目にしたことで、現実感とか切実さが増した。
不意に視線を感じ、そちらに顔を向ければ姉が上目で睨みつけてきていた。そこにこめられた濃い怒りを読みとりつつも、不思議といつものように避けたいという気持ちにはならない。こころなしか、目の奥底に怯えの欠片のようなものがあるように思える。
一回つまずいたくらいでああなるものなのか。一回か二回どころか、むしろ諸々の物事でつまずいている友幸にはよくわからない感覚だった。
鯛をゆっくりと噛みながら静かに姉を見つめ返す。特に思うところがあったわけではなく、なんとなく物珍しいものを見ているような感じだった。いつも、姉に睨まれている際の嫌な感じも不思議となかったため、大胆になっていたのもある。
突然、姉が立ち上がり、
「ごめん。ちょっとお手洗いに行ってくるね」
両親や祖父母に断わった上で歩きだす。そうして貸切の和室から出る間際、友幸に目線で合図を送ってきた。何かと疎い弟であっても意図は察せられる。
さて、どうしたものか。なにを求められているのかはおそらく理解していたものの、そもそも従うべきなのか、という迷いがある。これまでの付き合いからもろくなことにならないのは目に見えていた。
そんな友幸を、祖父母は次なる興味の対象にしたらしく、最近中学でなにがあったのかをしきりに聞きだそうとしてくる。その際、両親が、友幸の読書感想文コンクールでの入賞や、国語全般と社会の成績が良いこと、それに反して英語があまりよくないこと、友人たちと小説本の交換をしあって楽しんでいることなどをべらべらと話した。それを聞いていると段々とこそばゆくなってきたため、たまらず席を立ち、僕もお手洗いに、と短く告げた。
そうして襖を開け閉めしたあと、木の札に書かれたトイレのマークにしたがって歩いていくと、女性トイレから少し離れた壁に、姉が物憂げに寄りかかっているのが見えた。
「遅い」
すぐさまこちらに気付いた姉は、忌々しげに叱責を送ってくる。
「ごめん」
色々と言い訳をしたくもあったが、なにを理由に爆発するかわからないため、ただただその一言を口にする。姉は視線で着いて来いと示したあと、非常口の看板がある方へと歩きだす。大人しくついていき、看板の下にある扉をくぐれば、螺旋状の非常階段があった。
「なに、さっきの目」
茶色に塗装された鉄柵に寄りかかり、不満げに言葉を叩きつけてくる姉。頭の中には、先に見てたのはそっちだったじゃない、という言葉が浮かび、口から出かかったものの、
「別に。ただ目があっただけだよ」
余計なことは言わないのが吉だと察し胸の中にしまいこむ。しかし姉はぐいぐいと距離を詰めてきた友幸の左肩を思い切り押して、後方の鉄柵へと叩きつける。軽くそれでいて鈍い痛みが肩に走った。
「噓だね」
口の端こそ弛んでいたが、目は一ミリも笑っていない姉の表情。いつも通りであれば竦みあがってしまいそうだったが、この日の友幸の中には不思議とそういった感情は存在しなかった。
「絶対に見てた。こっちを馬鹿にするみたいに見てさ」
詰め寄ってくる姉の剣幕に、勘違いだよ、と応じる。とはいえ、ここまで姉が自分を疑っていない様を目にしていると、ひょっとすれば僕が間違っているのかもしれない、などと友幸も危うく錯覚しかけそうではあったが。
「ねぇ、あたしが入りたかった高校に入れなかったのがそんなにおかしかったわけ。そりゃそうだよね。なんにもできない、ぐずなあんたの楽しみなんて、人の失敗を笑うくらいしかないんだからっ」
目を血走らせながら弟を落下防止柵に押し付けつつ、叫ぶ姉。友幸はその様子をぼんやりと見返しつつ、いったいなにを言っているんだろうこの人は、とただただ首を捻るほかない。口にされる罵詈雑言の数々や邪推は、どれもこれも友幸からすれば的外れであり、いったい僕のなにを見てこんなことを思っているんだろう、とただただ謎ばかりが膨らんでいく。せいぜい、わかることといえば、姉がいつになく神経質になっているということくらいだった。その点に関しては、事前にあったことを踏まえればさもありなんといったところではあったが。
どうしようか。友幸は顔を歪ませ叫ぶ年上の少女を見上げつつ、身の振り方を考える。このままこうしているのは、正直あまりいい気分ではなかったものの、この癇癪がおさまる最短の道であるのならばいたしかたないと覚悟できた。しかし、溜まりに溜まったとおぼしき苛立ちの放出はこの場でおさまりそうになく、まだまだ長く時間がかかりそうだった。そうなれば、さすがに両親も祖父母も心配するだろうし、それは友幸にとっても本意ではない。
「僕に気にいらないところがあったんならあやまるよ。ごめん」
さっさとこの場をおさめてしまおう。そんな短絡的な判断から素早く頭を下げる友幸。直後、友幸の肩を掴む姉の手により強い力が込められる。
「舐めてんの、あんた。全然、誠意が感じられないんだけど」
気の入っていない弟の謝罪はより姉の機嫌を害してしまったらしく、握りこまれた掌によって、友幸の両肩はぎりぎりと締めあげられる。しかし、たしかに痛みはあったものの、思っていたほどのものではない。
「ああ、あんたの顔を見てるだけで気分が悪くなる。そのなんにも考えてなさそうな目、昔から気色悪くて仕方がなかったんだけど」
かつてと違い、姉から発せられる言葉の意味もほぼほぼ理解できるようになっているため、声の刺々しさだけではなく、言葉の刃としてもしっかりと機能しており、素直に、気色悪い、という部分に傷つきもする。一方で、そんな風に見られていたのか、という言葉にされたからこその発見もある。
幼いときから今にいたるまで僕がいじられているのは、気持ちわるい目をしてたからなのかな。姉だけでなく、他の子供からも似たような振る舞いで接せられたのもあり、そんなことを考える。だとすれば、今いるクラスの友だちはそんな気持ちわるい目をしている僕とつきあってくれている本当にいい人たちなんだな。友幸の中で延々と思考が連なっている最中、頬を張られて我に帰る。
「人の話を聞け」
さっきは見るなと言ってたのにな。いまだに顔全体を憤怒に浸したままでいる姉を見つめ返しながら、そんな愚痴を心の中で漏らしつつ、
「姉ちゃんはさ、僕にどうして欲しいの」
諸々のことを投げ捨て、直接尋ねた。
「だから、その薄気味悪い目をあたしに向けるなって言ってるの」
「わかったよ。今後はできるだけ目を合わせないようにする。これで、話は終わりでいいかな」
そう応えると、姉は少しの間、目を見開いたままでいたが、すぐにキッと友幸を睨みつける。
「今回の受験が終わってからずっとあたしを馬鹿にしてたでしょ。そのことをちゃんとあやまってよ」
心当たりはなかったものの、姉の中では友幸が姉を馬鹿にしていたというのはもはや確定的な事実らしい。そんなことないんだけどなぁ、と思いながらも、
「わかったよ。馬鹿にしててすみませんでした」
先程よりも思いを込めたつもりで頭を下げる。これで丸くおさまってくれればいいな、と顔を伏せながら願う友幸に対して、
「さっきと同じ。ちっとも誠意が感じられない」
姉はいまだに不満気な様子だった。すごすごと顔をあげたあと、慌てて目線を逸らす。
「なんで、目を逸らしたわけ」
「だって、僕の目を見たくないんでしょ」
途端に黙りこんだ姉に、友幸は、
「よくわかんないから聞くんだけど、誠意ってどうやって示したらいいのかな」
まっすぐに教えを請うた。
言葉や人間関係の流れ的なものであれば理解はしている。この場で求められるのは貢物ではなく、それこそ相手に気持ちが伝わったことそのものであるのだと。しかし、そのうえで今の姉を納得させる手段が見えてこない。今、なにを言っても神経を逆撫でしそうな気がした。
「やっぱり、あんたなめてんの」
案の定、弟が馬鹿にしにきていると判断したらしい姉は、より不愉快そうに顔を歪める。友幸は首を横に振ったあと、
「本当にわからないんだよ。誠意って目に見えないものだし、あるなしなんてどうやったらわかるのかなって」
慣習上の理屈は呑みこんでいても、誠意とやらの実質が友幸にはいまだによくわからないままだった。姉は心底、呆れたというような顔をしてから、
「そんなの見ればわかるでしょ。そんなこともわからないくらい馬鹿だったんだ、あんた」
そんな風に答える。姉の言をそのままで受けとれば、誠意とやらは見ればわかるものらしい。
「そうなんだ」
「感心するところじゃないでしょ、それ。そんなこともわからずに生きてるとか、信じられないんだけど」
「うん、恥ずかしながら、そんなこともわからずに生きてるみたいだ。だから姉ちゃんはどうやって誠意があるかないかを判断しているか教えて欲しいんだけど」
あらためて問いかけると、姉は胡乱な顔をしたあと、腕を組み、眉に皺を寄せる。どうしたんだろうと友幸が不思議に思っているところで、姉はぱっと目を輝かせた。
「とりあえずは申し訳なさそうな顔をしているかどうかかな」
「それって、どういう顔」
友幸の新たな問いかけに、出鼻を挫かれたようにびくっとする姉は、それもわからないわけ、と頭を抱えたあと、
「よくドラマとかで、叱られた側が謝ってるでしょ。そういう時に浮かべている顔だよ」
「ああ」
なるほど、とようやく腑に落ちる。友幸の身の回りで説教が行なわれている際も、ドラマほどあからさまではないにしろ似たような顔をしている人がいるのを思い出した。逆を言えば、今の自分はそういう顔をしているわけではないらしい。
「ああいう顔ができるようになれば、誠意があると言えるのかな。けど、小説とかでは表情で謝っておいて、裏で色々と考えているとかもあるみたいだし」
「ああ、もう。面倒くさいっ」
再び癇癪を起こした姉は、両肩を掴んだまま友幸の体を揺すった。しかし、こころなしか両手にこもっている力が弱まっているように感じられた。
「そういう時に、申し訳なさそうな空気を出しているかどうかとかっ」
「空気。でも、それこそ」
「はいはい、見えないから、わかんないんじゃないか、でしょ。けど、見えなくてもわかるものはあるんだよ。っていうか、あんた、生まれてからずっと馬鹿にされたりしている時に、嫌な空気とか感じなかったわけ」
そう言われると、幼少期から今の今まで、他の人間といてなんとなく嫌だなと感じたことが何度かあったのを思い出す。ああいうのが空気かとなんとはなしに呑みこもうとする。
「ぐずなあんたにも心当たりはあるみたいだね。そういうのが空気で、なんとなく人の思っていることを感じとれる。さっき謝ってる時のあんたからはそういう雰囲気が出てなかった」
小説の地の文でも空気に関する表現があったな、と友幸は思い返す。とはいえ、どのようになればいいのかはわかっても、そのどのように、を導きだすための方法はわからないままだった。
「けど、僕としては、その誠意を込めて謝ってるつもりなんだけど」
途端に姉は溜め息を吐いたあと、両肩から手を離し友幸の顔の真ん中を指差す。
「そりゃそうでしょ。あんたはあたしに申し訳ないなんて思ってないんだから、感じとれそうな誠意なんてついてきたりしないよ」
その声は、ことの本質を穿ちぬいたように友幸には感じられた。たしかに、謝った際に頭の中にあったのはさっさと済ませてしまおうという気持ちだけだったのだから。
「正直なところ、なにを申し訳なく思えばいいのかわからないんだよ」
率直に答えた友幸に対して、姉はもう一度溜め息を吐いたあと、踵を返した。
「もういいや」
そう言い捨てて、頭の後ろで手を組んでみせる。
「どういうこと」
「正直、ただの八つ当たりだったから。たしかにあんたの目は気持ち悪いままだけど、今回は別に悪いことしたわけじゃないし」
非常口を潜り、店内に戻りながら口にする姉の言葉に、友幸は、そうなのか、と思いつつも、やっぱりな、という感じもあった。
「あんたの話聞いてたら、馬鹿らしくなった」
「なんかおかしなことを言ったっけ」
その問いかけに、なぜだか姉は噴きだす。
「おかしなとこしかなかったんだけど。思ってた以上に、あんたがぐずな上に馬鹿だってことがわかったし」
その物言いに、友幸は少しだけ腹をたてる。
「僕だって、昔よりはましになってると思うんだけどな」
「そんなの当たり前でしょ。年とって、子供のままだったら笑えないって。まあ、あんたはずっと子供みたいな心しか持ってないみたいだけど」
言ってからなぜだか、大笑いしはじめる。友幸にとっては不本意そのものだったものの、否定しきる材料が見つからず、言い返すこともできない。
それから後、姉の機嫌はずっと上向きのままで、どことなくしっくり来ない友幸の心模様を除いて、祝いの席は和やかかつ楽しい雰囲気に包まれたまだった。
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