第9話

 教室のドアを開けた。

「おはよう」

 いつもは無言で入る教室を、なんとなく挨拶して入った。

 クラスの空気が凍った音を聞いた気がする。

 そのまま、誰の視線も気にせずに、私は自分の席に向かった。

 いつも通り、私の席の近くには、隣の席のあいつしかいない。

「おはよう」

 神楽が言う。昨日のことを知ってか知らないでか。

「おはようございます」

「なんで敬語なんだよ」

 気にせず席に着いた。

 右手には包帯をぐるぐる巻いていた。ナイフが刺さっていたのはあの場にいたみんなにはっきり見えていただろうし、どうごまかしてみようもない。まさか手品でしたと言うわけにいかないし。

「お前、何やらかしたんだよ。ほかのやつに聞いてもいまいちわからんのだが」

 昼にあの場にいなかった神楽は問う。本当にきいていないのか、そうでないのか分からない。

「些細な喧嘩よ。穏便に解決したから大丈夫」

 そういって机に突っ伏す。いつも通り。

 嘘は言っていない。

「まぁいいけどさ。流石に気になるから、気が向いたときに教えてくれ」

「気が向いたらね」

 いまはそんなのどうでもいいくらいには眠い。

 私は眠る、今ならもっと深く眠れそうな気がする。

 だれかが私をじっと見つめていることにすら、私は気づかなかった。


 そのあと、目を覚ましたのは放課後の薄暗い教室だった。

「よう、嬢ちゃん。ぐっすりだったなぁ。周りの連中も呆れてたし、俺も呆れたよ」

「そう。その間、何もなかった?」

 軽く伸びをして言う。机の上、腕を枕にして寝ていたせいでちょっとしびれていた。

「触らぬ神に祟りなしって感じだったぜ。お前にゃ誰も、指一本触れてなかったよ」

 懐の中からナイフを取り出した。昨日百円ショップで買った布でグルグルに巻かれているナイフを、机の上に置いた。

 時計を見るともう六時を回っていた。教室には誰も残っていない。部室棟も近くないので、周りに人の気配が全くなかった。

「なあ嬢ちゃん、そろそろこの布を取っちゃくれねぇか。息苦しくて仕方ねぇ」

「鼻も口もないあなたが息苦しいってことはないでしょう」

「いやあ苦しかったぜ。嬢ちゃんの体、意外と着やせしてんだなぁ。結構肉付いてるもんだから……」

「それ以上言うと窓から放り投げるわよ」

「冗談だっての。ともかく、俺はこんな体だが、一応感覚はあるんだ。死にはしねえがもうちょっと労ってほしいね」

 ナイフを覆った布を外す。夕闇の中に、波打つ金属の刀身が露わになる。

「なんで、私はまだ、これを持っているのかしらね」

「そりゃあ、嬢ちゃんと俺が相性がいいからだよ。ついでに言えば、この町はまだあぶねぇのが結構いるからなぁ。持っといた方が身のためだぜ、嬢ちゃん」

 刃紋がゆらゆらと揺れている。こんな不気味なナイフを護身用というにはちょっと怪しすぎる。刃渡り的にも間違いなく銃刀法違反だ。

「ところで、一つ言っておかなきゃいけないと思うんだが」

「何よ。隠し事は無しって言ったでしょう。早く言いなさい」

「お前昨日の昼のことは覚えてるか?」

 昨日の昼。私が正気を失っていて実に痛々しい行動をとってしまったあの時の事。

「いやなことを思い出させるわね……」

「ああ、嫌なことだ。あの時、お前を刺しちまった女がいたよなぁ」

「……そうね」

「あいつが、俺を持って、お前を刺した。それがどういうことになるか、わかるか?」

「分かるはずないじゃない」

 嫌な予感がする。

「ありゃちょっとした事故だからな。効果はそんなに早く表れねぇだろう。昨日は多分、ちょっとだけいつもより腹が減るくらいにしか感じてねぇ。だけど、今はどうだろうな。あれから一日たった夕暮れだ」

 もうほとんど、夕日は沈んでいる。

「お前は気づいてなかっただろうが、お前が寝ている間、昨日お前を刺した女はお前の事見ていたぜ。さあ、どれだけあいつが理性を保っていられるか、賭けでもしねえか?」

 もう夕日は見えない。暗い教室の中、私はナイフを持って立っている。

 教室の外から、足音が聞こえた 扉が開かれる。前に立っていたのはあの、えーと、やっぱり名前の思い出せないあの女だった。

「あら、起きちゃってたんだぁ。まだ寝てるんなら、楽勝だったのに」

 彼女の右手には包丁が握られていた。そんな、痴情のもつれでもあるまいに。

「あんた、今日一日眠りっぱなしだったじゃない。さすが眠り姫ねぇ。あたし、そういうあんたのこと、すごく嫌ぁい」

 目に赤い光が宿っている。どう見ても、狂い始めている。

「でも、いまは多分あんたのこと嫌いじゃないわ。だって、昨日あんたの手を貫いたときの感触、忘れられないんだもん。すっごく、いい感触だったの」

 アホっぽいしゃべり方で、ずいぶん色気のあることを言う。

 一歩ずつ、彼女が近づいてくる。

「だから、もう一回、ううん、また、なんども、刺させて?」

 彼女の足が床を蹴った。あたりの机を押しのけて包丁を突き出してくる。

「嬢ちゃん、避けな」

「わかってるわよ!」

 猪突猛進に突っ込んできた彼女の横に、回り込むように避けた。突き飛ばして、彼女を転倒させる。

「なんで避けるのよぉ。昨日みたいにおとなしく刺されてよぉ!」

 這いつくばった彼女が恨みがましい目を向けてくる。右手の包丁は固く握りしめていた。

「言っとくが、ありゃただの出刃包丁だ。俺と違って刺されたら普通に死ぬからな」

「何を当たり前のことを……」

「ああ、当たり前だ。だが、俺をあいつに刺してもあいつは絶対に死なねぇ。あの支配を解くにゃ、あの女に俺の一部を飲ませるか、昨日みてぇに俺を刺し続けてあいつの魂を俺がちょっぴりいただくか、どっちかしかねぇ」

「ちょっと、今気になる発言があったんだけど」

「後にしな。来るぞ」

 立ち上がった彼女が、再び包丁を突き出した。手近にあった誰のものかわからない国語辞典を盾にする。包丁が私の目の前で寸止めされた。そのまま辞典を手放して、また彼女を突き飛ばした。よろめくが、今度は転倒させるまでには至らなかった。

「つまり、彼女を大人しくさせろってことなの?」

 ふらつく彼女だが、すぐに態勢を立て直した。煩わしそうに辞典に刺さった包丁を抜いている。

 あんな状態の彼女を、どうやって大人しくさせたらいいのか。こちらのナイフは相手を傷つけられないが、相手の包丁は十分な殺傷力がある。

 そんな状態で、相手の体にナイフを刺し続けなくてはいけない。

「そうだなぁ。だが、昨日みてぇに事前に準備してるわけでもねぇし、少し強引な手を使うしかねえな」

「どうしたらいいのか早く教えなさい!」

 彼女を元に戻さなくては。ある意味彼女の自業自得とはいえ、一割くらいは私にも責任があると思うし。なにより私の命が危ない。

「頭を狙え。脳みそに直接ぶっ刺しな」

「なっ、それ、彼女は大丈夫なんでしょうね!」

「俺が誰も傷つけられねぇのは知ってんだろうが。頭蓋骨を貫く腕力は嬢ちゃんにゃないだろうから眼球を狙え。その奥までぶっ刺したら脳に届く」

 彼女はもう辞典を破り捨て、包丁を再び構えている。

 あと一回、彼女の突きを躱さなければ。

「さっきから誰とはなしてるのぉ? やっぱりあんた、なんかクスリでもやってんじゃない?」

「今のあなたに言われたくはないわね」

 じりじりと、今度は慎重に彼女が迫ってくる。

 私は窓際の角に追いやられていた。

「そろそろ、あんたの体、刺させてくれるわよね」

 目を赤く血走らせ、爛々と光らせている。口元には涎を垂らす。ただのグール。

「残念だけど、私にそういう趣味はないわ」

「そう、じゃあ、無理やりにでも、あなたを……」

 もう、覚悟を決めた。

「刺してあげる!」

 彼女が突き出した包丁を、手のひらで受ける。

 昨日の昼のように、私の手を彼女の包丁が貫いていた。

 悲鳴すら出ない。痛みで視界が赤い。気を失いそうになるほどに。

 だが、彼女も。

「ああ、やっと刺せたやっと刺せたぁ! この感触が、欲くてしょうがなかったの! やっと、」

 彼女が感極まっている隙を突いて、彼女の眼球にまっすぐ、ナイフを押し出す。

 お互いが、お互いの体に刃物を突き刺しあっていた。

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