第8話

「きたぞ。言った通りやんな」

「本当に大丈夫なんでしょうね?」

「ダメだったらちょっと齧られるだけさ」

 昨日のことを思い出す。どうあっても失敗できない。

 男がふらふらと公園に入ってくる。 

 しきりに辺りの匂いをかいでいる。よだれをだらだらと流し目が血走っているその姿は、昨日見た男の姿よりも醜悪だった。

 男は公園の中、遊具の一つに向かっている。ドーム型の遊具で、いくつか穴が開いている。入口になっているその穴を男は覗き込んだ。

 中には私の血の付いたハンカチ。その血にすら男は飛びついた。

 その瞬間、猫たちがとびかかり男を中に引きずり込んだ。猫はどの子も容赦なくかみつき、爪を立てている。

 十二匹もの猫に一斉に襲われた男は振りほどこうと手足を振り回す。流石に猫と成人男性では力の差があるはずだが、猫たちは男の肉に嚙みついて離れない。まるで大好物の餌にありついたかのように。

「いくらなんでも、あれは異常じゃない? たかが猫なのに」

「たかが猫でも少し枷を外してやればあの程度の凶暴さと力はあるさ。ましてあの男の中にはお前が飲んだ量の比じゃねえくらいの霊薬がぶち込まれてるからな。猫だって必死に食いつくさ」

 カタカタとナイフが嗤う。猫は男の肉に喰らいついている。顔や手に群がられ、服を破りその下の肉をむさぼろうとしていた。おとこはもう、立っていられないのか、暴れるのをやめ膝をついた。

「さあ、あのままだと男は猫に骨まで食われちまうぜ。さっさと言った通りやりな」

「本当に大丈夫なんでしょうね」

「信用しろ。あのままじゃ男が死ぬぜ? おれはそれでもいいし、お前だってもう狙われなくていい。あいつはこのまま、じわじわ食われながら死んでいくだろうけどな」

 震えるほどにナイフが笑った。

「……わかったわよ」

 隠れていた茂みから出て、ドーム近づくと男は苦悶の声を上げ、猫に齧られていた。

 ドームの中、そんな凄惨な光景も、声も、辺りには小さく漏れているだけだった。

 私が近づくと、男がこちらを見る。

「お前、の、匂い。いい、匂い、なんだ。食わせて、くれ。気が、狂う」

 仰向けに倒れ、猫に喉を噛まれながら男が言った。なおも目を血走らせ、噛まれた腕をこちらに伸ばしてくる。顔も手も、猫に半ば食われかけ中の肉も、骨すらも見えてしまっている。

「ごめんなさい」

 何に謝っているのか。

 猫まみれでほとんど動けない男の胸、中心の少し左。心臓に、正確に、ナイフを刺した。

 昨日わたしが味わった、人の肉をかき分ける感覚が、ナイフを通じて伝わってきた。

 ゾクリとした感触が私の背を這った。それは、嫌悪だったのか、それとも……。

 刺してる間、私はナイフから手を離さなかった。このおしゃべりなナイフがそうしていろと言ったからだ。

 そうして、突き刺したまま時間が過ぎた。数十秒か、数分か、妙に長く感じる時間ナイフを突き立てていると、口元を血だ赤くした猫は次第に興味を無くしたように離れていった。あちこち噛まれ傷だらけの男が残った。

「もういいぜ。こいつの中に霊薬は残ってねぇ」

 ナイフを引き抜いた。私の手に刺さった時と同じように、引き抜いても血の一滴すらついていない。

 そのかわり、もともと大振りだったナイフが一回り大きくなった気がした。

 ナイフを引き抜かれた男の方は暗がりの中、荒く息をしている。私を食べたくて荒くした狂気ではなく、単純に苦しそうな息だった。

「大丈夫なの……?」

「俺が刺さった部分なら気にしなくていいぜ。俺は絶対に人を殺せねぇからな。猫の方の傷はどうだろうな。ひょっとしたら手遅れかもなぁ」

「そんな!」

 結局間に合わないなら、なんでこんなことをさせたのか。

「まぁ、死なない程度に回復させてやることはできるぜ。ナイフの切っ先をそいつの口元に持っていきな」

 いわれたとおりにすると、ナイフの先から一滴、男の口に金属質の液体が落ちた。

 男がそれを飲み込むと、荒かった息が落ち着きを取り戻していった。

「どういうこと……?」

「この霊薬は毒にも薬にもなるってことだよ、嬢ちゃん。くすりは用法用量を守ってっていうだろ?」

 男の体から、傷が消えていった。

 消えた、というよりは傷の下から新しい皮膚が浮き上がったというべきか。湧き出る肉から押し出され、傷の部分だけ剥がれ落ちた。

 猫に生皮をはがされた顔にも、元の輪郭が戻っている。

 地面に落ちた肉がグロい。

「お見事お見事」

 唐突に知らない声がドームに響いた。

 ドームの天井に空いた穴が遮られそこから顔をのぞかせている人物を見る。だが、顔は影になってよく見えなかった。やたらハスキーな声で、年齢は判然としなかった。

「誰?」

「昨日までのそのナイフの持ち主でーす。いや、本当に君はそのナイフと相性がいいんだねぇ」

 女はそういって顔をひっこめた。わたしも慌ててそのドームから出ると、女の方はドームから飛び降りたところだった。

 女のブーツの音が地面に響く。胸の一部を除いて華奢な体のわりに、やたら重そうな音だった。

 明るい場所でその女を見る。顔を見てもその国籍が判然としない。中東風でもあるような、北欧風でもあるような、見る角度によって印象が全く違う不思議な感覚を味わった。赤い長髪を後ろにまとめている美女……と言っていいのだろうか。ぱっと見二十代くらいに見えるが、年齢すらいまいち推測できなかった。

 わたしは警戒して少しにらみつける、が、多分迫力は全くないだろう。だが、向こうは一応こちらが警戒しているというのを察してくれたらしい。

「いやいや、だいじょーぶだいじょーぶ。今更返せなんて言わないから。それは君の手にあった方が面白いし」

 面白いって。

「嬢ちゃん、あいつがあの男に術をかけてた奴だぜ。まぁ、今は敵意はねぇだろうが。俺をあいつにわたすなよ」

 正直、渡してしまってこんな超常現象とは縁を切ってしまいたい。平穏な日常のために。

「渡したら?」

「そん時はまたこの町であの男みたいなグールが出るだけさ。そのうち、もっと酷いことになるかもしれんがなぁ」

 それを聞いているのか、女はクツクツと笑っている。

「んふふふ、それはどうでしょうね。にしても本当に君はそのナイフと相性がいいんだねぇ。そのナイフとそんなにはっきり会話できるなんて。私だって集中しないと聞き取れないのにすごいすごい」

 女は拍手しながら言った。

「それに、今あの男を治したのだって本当ならありえないくらいの奇跡なんだからね。自慢していいよ」

「そんなの自慢したって教祖くらいにしかなれないじゃない」

「なったらいいよ。君ならそのナイフでいくらでも稼げるでしょうね」

 そんな面倒で胡散臭いことは当然する気はない。

「ま、ともかくその男の処理も終わって、ナイフの新しい持ち主も見つかったことだし、私はまた別のことをしなくちゃね。あ、これ名刺だから」

 財布の中からカードを一枚、こちらに投げてきた。黒い下地に金の文字という悪趣味な名刺を見ると、よくわからない文字の下に、ご丁寧にカタカナで読みが書いてあった。ラト・ニールテフ……と書いてある。

「あの、このナイフは」

 名刺から彼女の方に視線を動かすと、もう彼女は消えていた。

「結局、何しに来たのよ、あの人は」

「さあな。ま、ろくでもない存在なのは確かだろうよ」

 ドームの中の男はまだ目を覚まさない。目を覚ますまで待っている気もないので、公園を出て、わたしは家路についた。

 疲れが一気に来たのか、いつもの数倍瞼が重い。帰るなり、ベッドにもぐりこんで、死んだように寝た。

 結局、そこそこにあっけなく、この通り魔事件は終わりを迎えた。

 世間的には、何一つ解決しないままだったが。

 そして、私の手には一振りのナイフが残った。

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