第16話
あらあら。
積極的に追いかけてこない男に心底残念そうに女は胸の内で呟いた。
自分が接触したことを知った聖女王が男との間に入り込んできたのを確認して、もう一度、あらあら、と呆れたように呟く。
ふいっと、加速して向かう先は聖女王の加護で守られた研究機関の支部。
女は膜のように囲まれたそれを難なくすり抜け、更に支部の建物さえも通り抜ける。
そうしてたどり着いたのは、以前、聖女王候補が祈りを捧げた広間だった。
円形に広がるその部屋の真ん中に限界までリクライニングされた椅子があり、レインニールが寝そべっていた。
柔らかく微笑むとレインニールの頭のあたりに腰かける。
女には実体がないので重みはない。
ふと、レインニールは閉じていた目を開けた。
ぼんやりとしているそれを何度も瞬かせ、焦点を合わせる。
「おかえり、パンドゥラ」
そっと手を伸ばすとパンドゥラと呼ばれた女性は愛おしそうにその指を絡める。
彼女には実体がないが、レインニールには熱を感じるようだった。
やがて、ふふと笑うと横たわったまま見上げる。
「ダメじゃない、勝手に喧嘩を吹っかけてきたの?」
触れ合うことでパンドゥラが経験したことがレインニールに伝わったらしい。
「違うわ、挨拶をしてきただけよ。私は喧嘩はしない。聖女王に任せるわ」
にこにこと微笑む。
相手の大将に会ってきたにもかかわらず、自分はこれ以上関わらないと宣言するパンドゥラに愉快そうに瞳を細める。
二人の容姿は双子のように色彩が似ていた。
ただ、レインニールは髪が直線的であり瞳が鋭く、パンドゥラは髪が波打ち魅惑的な瞳を持っている。
「そうね、非常時以外は力を使ってはいけないことになっているものね」
良く破るけれど、とレインニールの言葉にパンドゥラが付け加える。
「私たちの力は必要ないと言われたし」
「使わないとも言われたわ」
「恐ろしい化け物とも」
「得体の知れない、不気味なもの」
二人は歌うように声を重ねて顔を見合わせる。
耳にした数々の言葉を反芻する。
決して気分の良いものではない。深く傷ついたものばかりだ。
だからこそ、レインニールとパンドゥラは強く結びついた。
パンドゥラは優しくレインニールの頭を撫でた。
「ところで、これ、良い椅子ね」
あぁ、と言ってレインニールは身を起こす。
体が重いのか、上半身を浮かすのに両手を使う。
「リウよ。私が広間に籠っている間に色々と揃えてくれたの。変なところに気が回るわ」
お互いの意識を通わせたのでパンドゥラにもレインニールの事が流れ込んでいる。
襲撃から三日後、扉を開けたレインニールの目に飛び込んできたのはこの椅子とワゴンに乗せた食事だった。
レインニールのいる広間は床が大理石である。その上に織物が敷かれ両膝を付いて祈るのが通常であった。
リウは何を思ったのか、リクライニングチェアを用意していた。
疲労と空腹、他にも色々と抱えていたレインニールにとって、椅子の存在は意味が分からなかった。
一先ず、広間に運び込んで座り、リクライニングを倒してみた。
頭まで囲むように背もたれがあり、落ち着いた色の革張り、座面も回転するようで身動きもしやすい。ましてや足置きまであった。
試しであったはずなのに立つのが億劫になるほど快適だった。このまま沈み込んでしまいたい誘惑に囚われる。
支部長席の椅子でさえ、ここまでの座り心地はない。
両膝を付いたままだと痛みが生じる。
要はどんな体勢でも祈ればいいのである。
リクライニングを倒し、椅子に寝そべるという大変、怠惰な格好でレインニールは祈りを捧げることにしたのであった。
パンドゥラはくすくすと口元を隠しながら笑い転げる。
「寝たまま祈りを捧げるなんて見たことないわ」
「でも、パンドゥラは…」
「あれは寝たんじゃなくて、眠らされたの」
ほんの少し陰のある表情を見せたが、すぐに笑顔へ戻る。
「食事もクーラーボックスの他に保温機能付きボックス?何処まで揃えられるのかしら?」
パンドゥラは感心を通り越してあきれ返る。
「さすがに早くちゃんとした食事をしたいわ」
「そうね、聖女王には頑張ってもらわないと。新世界の聖女王もこっちを手助けするようね」
「礎様もだいぶ動けるようになったし、やりやすくなりそうよ」
「侵入者に対応している間、私たちが手薄になるこっちと新世界の両方を支えるわけね」
二人は額を合わせる。
「そんなところまで範囲を広げたことはないわ」
「大丈夫。やり方は簡単よ」
レインニールが吐いた弱音を一蹴する。
「ゆっくり水の波紋が広がるように、まずは平面で良いわ」
イメージを持たせレインニールの力を導く。
付き合いの長い二人はお互いの波長を合わせるのに手間もかからない様になっている。
二人は呼吸を整え、お互いの力を開放していった。
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