月亮への応援コメント
恐竜の時代にも……と考えれば、阿倍仲麻呂の歌よりも壮大なものを感じますね。
「恐龍」と書いて「おほいかつち」と読むのも何とも味わいがあります。
作者からの返信
ありがとうございます。
月は人類が出現する前の太古から空に輝いていたはずで、そのようなことに思いをはせました。
また、「おほいかつち」の「おほ」は「大」、「いか」は「嚴」で「厳(いか)めしい」や「怒(いか)る」の「いか」と同根とされます。「つ」は格助詞で「の」と同意味、「ち」は「霊」で「命(いのち)」「大蛇(をろち/おろち)」の「ち」と同じく自然の威力・霊力を表す言葉。
国語学者の大野晋によれば、「いかつち」は猛烈な威力のあるもの、猛々しく怖ろしいものを表し、特に雷を指すということです。
僕のここでの用法は、恐龍の巨大さや威力の類推からこの言葉を借りたものです。
柊の棘への応援コメント
ルールから外れた訪れ方をする稀人は、もはや神ではない、という内容の対談をどこかで読んだ記憶があります。
子孫を訪れるのは立春は避けて、お盆やお彼岸にしておいた方が良いのかも知れませんね。
作者からの返信
ありがとうございます。
冬と春の隙間をすり抜けてやってくる「もの」。
本来の暦では節分が新旧の年を分ける境で、新年に里を訪れる来訪神が年神(歲神)ですね。柳田國男などは、そこに「祖霊」の姿を髣髴しました。
すなわち、正月と盆の時期に、里の人々と血縁でつながる祖霊が戻って来るという認識。
一方、折口信夫の説く来訪神「まれびと」は、人々とは全く異なる存在が異界からやって来るという考え。
人々にとって、同質的な祖霊と異質のまれびと。身内とよそ者。内と外。
節分(追儺)は新年を前に厭なもの不吉なものを追払おうとする行事ですが、ここで追払われるものの姿󠄁と、来訪するものの姿は、そう言えばどこか似ているような気がします。
追儺の鬼と、ナマハゲやトシドン。
或いは、新年に訪れる神のみならず、盆の付近に訪れる来訪神、メンドン、ボゼ、パーントゥも同様の異形です。
怖れられつつも歓待され、礼遇されつつもどこか忌避される存在。
ところで、九相図にも描かれるとおり、人の死後のありさまは、何とも凄まじく怖ろしいものですね。祖霊は、よくよく考えればこれら九相を経た存在。
来訪神の怖ろし気な異形と歓待のさまは、死によって隔てられた身内に対する、懐かしさと死穢への怖れや忌避の感情がないまぜになったもののような気もします。
拜大山祇御陵への応援コメント
こちらも大山阿夫利神社の歌でしょうか。神々しいながら何とも和やかな雰囲気が感じられます。
作者からの返信
ありがとうございます。
これは宮崎県西都市の西都塚古墳群を訪れたときのことを詠んだものです。
同地には、大山祇の神の奥都城とされる大山祇塚があります。
神様のお墓が前方後円墳として目の前の実在し残っている(まあ、科学的な判断は留保しますが)ということに驚き、非常に感慨深く思いました。
近くには、大山祇の神の娘である木花之佐久夜毘賣(木花開耶姬命)を祭神とする立派な都萬神社もあり、同社の末社には大山祇の神も祀られています。
そうした太古からのゆかりが現在まで代々受け継がれ、大切にされていることを、何とも好もしくありがたく思い、その感動を詠んでみました。
蝕への応援コメント
古において、世界は、予期せぬものにあふれていたのでしょう。天気予報も天体の動きの予測も進んだ現代の私には想像しかできません。
理を理解できぬ事象に翻弄されて生きることは、不幸と言えるのですが、心の有り様として奥深かったのではないかとの指摘に、考え込むも、下手な考え休むに似たりで答えは出ません。
作者からの返信
コメントを頂戴しありがとうございます。
現代人の賢しらで、過去の人々の迷いを蔑むのは違うように思います。
現代に生きる我々は、昔の人に比べて開明的とは言え、それは自分自身の手柄ではなく、先人などの積み重ねの上に得た僥倖に過ぎないということを肝に銘じておくべきだと思います。
まあ、このような僕の観点も、すでにクロード・レヴィ=ストロースの『野生の思考』などで喝破された所ではあるのですが。
經繃󠄁 への応援コメント
「いと」という言葉の使い方が面白いですね。
作者からの返信
ありがとうございます。
「いと」をかしと思って戴ければ非常に嬉しいです。