第4話 『違』世界
下船作戦といってもそれほど大層な内容でもなく、蓋を開けてみれば至って単純なものだった。
駆け足で船内に戻ったリギートは、幾許も無い内に再び俺の前に姿を現した。その腕には大きな浅茶色の布と、固定具のような帯と金具のセット、そして大きな赤い板状の何かが抱えられていた。何処となくサーフボードに見えなくもないが、所々に空いた穴をみるにどうやら別物の可能性が大きい。
「さ、時間もないからさっさとやっちゃおう!」
「えっと、これでどうするんだ?」
「そりゃもちろん荷物になってもらうんだよ」
「荷物って……」
戸惑う俺の言葉などどこ吹く風という感じに、リギートはてきぱきと『荷物』の準備を進めている。
甲板上に敷いた布の上に例の半楕円形の板を置き、俺に示した。
「さてと。じゃあタクム、この上に仰向けに寝転んでよ」
「……なるほど、そういうことね」
目の前のセットアップ、そしてリギートの先ほどの言葉から、彼の意図している作戦をおおよそ理解する。
「そのまま真っすぐな姿勢で大丈夫か?」
「うん、板の長さも丁度いいしそれで問題ないよ」
「わかった」
いわれた通りに板の上に仰向けに寝転ぶ。ほぼ真上から照り付ける陽光、そして雲のほとんど見当たらない爽やかな青空が視界を満たした。眩しさに目を顰める。
「えーっと、とりあえずこの向きで被せてから紐を潜らせてぇ……」
リギートの体よりも幾分か大きい布を展開しあれこれ調整しながら、彼は俺の横へと歩み寄ってきた。
「それじゃこれ被せるね。無事に着港したら少し離れたところで解くから」
「ああ、よろしく頼む」
そのままの姿勢で俺は頷いて返した。
まるで無警戒に身を委ねている俺だったが、冷静に考えるとなかなかにリスキーなことをしているよな。
出会って数分、名前程度の自己紹介を交わしただけの相手にここまでしてもらって。何か裏を疑わないほうがおかしいほどだ。
だが現状俺がこれ以外に縋れる突破口はほぼ皆無に等しく、ともすればどれだけの疑念が湧こうとそれらを振り切ってリギートを信頼する他ない。
いつ来るともわからない他の船員たちへの焦りもまたそれを助長しているのだろう。
徐々に布で覆われる視界とともに大きくなる心細さを押さえつけるように、拳を固く握った。
体の肩部、腹部、そして大腿部辺りを適度な固さで縛り付けられるのを感じる。
それから少しして、視界がさらに薄暗くなるのを感じた。何かが上から被せられたのだろうか。もしかすると、そのままでは≪≪人間の形≫≫が出すぎてしまうから、もう一枚覆うためのものが何かしら必要なのかもしれない。
「うん、こんなもんかな。タクム、痛くないかい?」
「ああ、これくらいなら全然大丈夫だ」
薄っすらと透ける光をどこともなく見つめながら、布越しに応答する。
「それならよかったよ。よーし、これで準備は完了だね。あとは荷物と一緒に運びだ——」
そんなリギートの声を、少し大きめのドアの開閉音が遮った。
「うぃーようやく着港だなー。っとあれ、リギートくんじゃないか。下船の準備してたのかい? お父さんは?」
「ああ、父はまだ部屋で荷物の最終チェックでもしてるんじゃないかな。僕は到着が楽しみで先に上に出ちゃった」
「あっはは、なるほどな~。ひとつ前のセアサンラ島じゃすぐに出港だったし、それを除いたらなかなかの長旅だったからな」
リギート以外の人間の声が耳に入ったことで、鼓動がわずかに早まるのを感じた。
できる限り呼吸を浅くし、自身の体から発せられる音を最小限に抑えるよう努める。少しばかりの息苦しさを耐えながら、俺はその声に耳を傾けた。
「しかしこれまたでかい荷物だねぇ。運ぶの大変そうだけど大丈夫かい? なんなら手伝ってあげるけど」
活気ある陽気な声の主は、おそらく俺が乗っている板を指し示してかそう言った。
多分、見られている。そう意識するだけで掌に微かに汗が滲む。
「ううん、大丈夫だよ。運搬用の浮遊板を下に敷いてあるしね。運ぶのはちょっと大変かもだけど、いい感じのベセレータの基板を見つけたから思わず買っちゃったんだよ」
えっへへ、とリギートが返す。顔こそ見えないが、なんとなく眉を八の字にして笑っている様が目に浮かぶ。
「はーなるほど、ベセレータの基板だったか。道理でデカいわけだ! ってことは、リギートくんももう乗れる年齢になったってとこかい?」
「少し前に迎えた誕生日でね。念願のベセレータだから今からもう楽しみで」
「ふっ、そういうことなら、むしろ自分で運んだほうが思い入れも一入ってもんだな。初ベセレータでいきなり自前の基板ってのも相当だが。っと、俺もそろそろ荷下ろしに行かねえと。浮遊板があるとはいえ、気を付けて運ぶようにな」
「うん、ありがとうお兄さん!」
「おーう、また顔合わせることがあったらよろしくなー」
その言葉を最後に、『お兄さん』と呼ばれた人物のものであろう足音が遠ざかっていく。
とりあえず俺の存在を悟られることなくやり過ごせたことに安堵する。
しかし、何度か聞こえた『ベセレータ』とは一体何なのだろうか。乗るとかどうとか言っていたあたり、やはり何かの乗り物の類なのだろうとは思う。先ほど感じたサーフボードのような印象は、意外とそこまで的外れなものでもないのかもしれない。
「ふぅー、何とかバレずに済んだね、あっはは。……よし、じゃあ今から運ぶから、そのまま動かないようにね」
「了解」
顔の近くにリギートの声を聞き、伝わるかわからぬも小さく頷きながらそう返す。それから少しの間を置いて、等間隔に響く足音とともに自身が運ばれていることを認識する。
……しかし、何か違和感があった。
先ほど船員であろう男性も言っていたように、これだけの大きさの、しかも俺という人間一人が乗っている物体を運ぶのは容易ではない。
何より、先ほどから一切の振動や衝撃を感じないのだ。にも拘わらず一定の間隔でなり続ける足音だけは変わらず横から聞こえてくるときた。
(さっき、浮遊板とかって言葉も聞こえたな……)
言葉通りそれを受け取るならば、俺は今荷物ごと『浮遊』しているということになる。あまりに現実離れしている話だが、実際に現状から考えられる結論がそれしかないのだから仕方ない。
でも、どうやって? 一体どういう仕組みでこの荷物は浮いているんだ?
俺が持ちうる知識で思いつくものなど高が知れている。
電磁浮遊とか、或いは風とか、だろうか。
それも正直かなり厳しいはずだ。
前者は磁力のあるもの同士の安定した反発が必要で、後者に関しては相応の『音』が聞こえなくてはおかしい。それにどちらもかなり大きなエネルギー源を必要とするはず。そんなものは先ほどの時点では見当たらなかった。
体が動かせない中で頭を必死に捻って考えてみるも、俺の中の常識では結局それっぽい原理さえ思いつかなかった。
そうしている間に徐々に喧騒に近づいていく雰囲気を感じた。おそらく荷下ろしをしている乗組員たちのもとに向かっているのだろう。
「皆さん長い間ありがとうございました! 毎日とっても楽しかったです!」
「おーリギート! こっちこそ楽しかったぞ。弟ができたみたいでよ。達者でやれよぉ!」
「結構な期間一緒にいたからなぁ……。なんか改めて別れを意識してさみしくなっちまうぜ」
「なんだかでかい荷物持ってるし、降りるときは気をつけてな。長旅お疲れさん!」
幾人もの人たちからの声とともにリギートが見送られているのを耳で感じる。彼がどんな時間を過ごしてきたかはわからないが、多くの乗組員たちに親しまれていたことはこれだけでも十分に伝わってきた。
なにより、たったあれだけの時間の間にこうして俺を運ぶほどにまで関係を築いているのだ。共に旅をした仲ともなれば推して知るべし。
そんな別れの声を背に、あちこちから忙しなく響く足音の間を抜けていく。
周囲の流れていく騒音、そしてリギートのものと思しき足音のみで自身の固定されている荷物の移動を確認していたが、ふとそれが止んだ。
「あ、父さん!」
(父さん……?)
「おぉ、来たかリギート。忘れ物はないか?」
低く落ち着きのある男性の声が返ってくる。リギートの父親、なのだろうか。
「うん、大丈夫! しっかり確認したからね。でもまさか父さんのほうが先に来てたなんて」
「まあ俺の荷物は量も大きさもあるからな。下の大きい搬出口から運び出してもらいながらついでに一緒に出てきたのさ」
「ああそっか。なんかいろいろと買い込んでたもんね」
「そういうお前のそれも、結構な荷物じゃないか。まとめて運んで貰っても良かったんじゃないか?」
その言葉に小さく心臓が跳ね、全身が緊張で強張った。
先ほどのやり取りでもそうだったが、静かに聞き耳を立てている中でのこの荷物の指摘は、やはりどうにも心臓に悪い。
「うーん、なんか自分の大事な荷物ってなると、やっぱり自分で運びたくなっちゃってさ。愛着、みたいな? それにほら——重さとかは問題なかったから」
「はは、なるほどな。俺も母さんも物を大事にする性格だからなぁ。しっかり受け継いでると見える」
おそらく半分は本心であろうリギートの言葉に、父さんと呼ばれた人物が小さく笑う。
「あー、そう言われると確かに……。ってそれはともかく、早く降りようよ! 確か父さんは友達に会うんじゃなかったっけ。あんま時間もないんでしょ?」
「おぉそうだったな。早速行くとしよう!」
どんな姿かさえ終始わからぬ声の主とともに、リギートが再び歩き出したのを感じた。
いよいよ、先ほど遠くに見たあの港に降り立つんだな。
こつこつと混ざり合う二人分の足音が、ある時点から硬い材質のものを踏むそれに変わった。
「いやぁ、なかなかの長旅だったけど、ついに着いたよ~。思い返すとなんだかあっという間な気もするけどね」
一層人の気配が増した喧噪の中でも、リギートの声は比較的よく通る。この感じだと、もう完全に陸の上なのだろうか。如何せんこの状態では実感もあったもんじゃないな。
行き交う雑多な言葉を拾おうにも、ほとんどが理解可能な状態で俺の耳に届かない。強いて言えば、声のバリエーションが性別年齢ともに広がっているのを認識できたくらいだ。
いずれにしても大した情報は得られなさそうだし、大人しく揺られ運ばれながらじっとこらえるほか無いな。
そして今はただ、親子と思しき二人の会話に耳を傾けていよう。あまり人の会話に聞き耳を立てるのはよくないのかも知れないけど、少しでも情報が欲しいため仕方ないということにしておく。ごめんなリギート。
「うむ、改めてお疲れリギート。父さんは荷物の輸送の手続きをして、そのまま友人に顔を見せに行くよ。リギートはどうする? 一緒に来てもいいんだぞ」
「うーん、せっかくだし僕は少し見て回るよ。あ、そんなに急がなくてもいいからね。さっき久しぶりにこの街に来るって言ってたし、懐かしいものとかあるんじゃない?」
「ふっ、そうだな。随分と長いこと来ていなかったが、こうしてリギートとここに立っているとなかなか感慨深いものがあるよ」
「それならそっちもしっかり見て回ったら?」
「あぁ……それも良いかもしれないな。なら、こちらの用事が済んだら連絡するから、リギートも何かあったら連絡するんだぞ。なんだったらあとで一緒に見て回るのもいいかもしれん」
「はーい。それじゃあまた後でね」
「ああ。あまり遠くや危なそうなところには行かないようにな」
「もちろん分かってますよ。決まり事、でしょ?」
「うむ、よろしい! ではな」
伴って響いていた二つの足音は会話の区切りとともに遠ざかっていき、やがて小さいほうだけが残った。
それからほどなくして、人の往来を遠くに聞く場所でリギートの足音が止む。
「うん、このあたりまで来たらもう問題ないかな」
独り言か、あるいは俺に遠回しに聞こえるように発したのかはわからないが、その言葉が終わると同時に背中にわずかに固い振動を感じた。
がさごそとあちこちを弄り回すような感覚を覚え、体を押さえつけていたロープの締め付けも緩み体がいくらか楽になった。
思ったよりも時間がたっていたのか、それとも緊張で無意識に体がずっと強張っていたのかはわからないが、体のそこかしこが軋んでいる。ほぐすように小さくゆっくりと動かしていると、布の向こうから声が掛けられる。
「お待たせタクム。体固まっちゃったかな? お疲れ様」
俺がもぞもぞと動いていたのを見てか、そんな言葉をかけてくれた。
「ようやく父さんと解散して人気のないところまで来たから、これでタクムを出してあげられるよ」
「そっちこそお疲れ様。ありがとな、わざわざ人気の少ないとこまで運んでもらっちゃて」
「あっはは、もし中からタクムが出てくるところを見られたら、変に思われちゃうかもしれないからね。それに周囲にまだ船員がいたかもしれないから、あの場から少し離れたほうが安全なのは僕も同じなんだ」
そう話しながら荷解きをこなすリギート。上に重なっていた布が一層分退かされたのだろう、視界が一段階明るくなった。
「うん、全部解けたからあとはこれを退かして完了だね」
「そ、そっか」
いよいよあの船の上で見た島に、本当の意味で対面し足を着けるのか。
たった一枚の布に遮られているだけなのに、とても分厚い隔たりが取り払われる、そんな感覚だった。
「それじゃ、頼んだ」
「了解! 眩しいかもしれないから、目に気を付けてね。……よしっ——それっと!」
掛け声とともに、ばさりと勢いよく布が取り払われた。
一気に開けた世界を、薄く閉じた瞳を徐々に開けながら確かめる。
一応日陰まで運んで解いてくれたらしく、思っていたよりは光の刺激を心配する必要はなさそうだった。
まず目に飛び込んだのは、俺の様子を左側から覗き込むように伺うリギートの顔。そしてその後ろに広がる深い青空とそれを所々覆っている屋根の端だった。ぐるぐると両腕で巻く動作をしながら、どかした布を胸の前で抱え込むリギート。
「へへ、さっきぶりだね。気分はどう?」
横になったままの俺に笑顔で問いかけてくる。
「ああ……なんだか不思議な感じ、かな。船の上で揺られてて、横になったまま特に動きもなくて解放されたら全く別の場所にいるんだからさ。初めての体験だよ」
はは、と思わず乾いた笑いが零れた。
「体調とかそのへんは至って良好だけどな」
「そっか、それなら良かった。ということは、特に問題もなく無事成功、だね!」
そう言いながらリギートは、布の端から出ていた左手でなんとも不思議なジェスチャーをした。
薬指と小指以外を握りこんだ状態から、少し手を弾ませ沈むのに合わせて、今度は瞬時に人差し指と中指を、出ていた二本指たちと入れ替わりで伸ばした。親指もそれに合わせて、掌側にほぼ直角に開かれている。
……今のは何なのだろう。ハンドサイン的なものだろうか? まるで見たことも聞いたこともないものだったため少しばかり反応に困ったが、それを悟られぬよう適当に返事を返す。
「……おぉ、リギートの作戦のおかげだな! ホントになんてお礼をいえばいいやら」
「いいのいいの! 僕だってなんやかんや楽しかったしさ、あはは! ……まあタクムからしたらバレたらタダ事じゃなっかたかもわからないけどね」
「一体どうなってたやら、だな」
そんなやり取りに、俺たちはお互いに小さく苦笑しあった。
ひと呼吸置いてから、俺は改めて周囲を見渡す。
ここまでの『音』でなんとなく感じていた固さのある足音は、クリーム色のこの石畳を歩いていた時のものだったわけか。
俺の左手側に立っているリギートの後方には、少し広めの道が広がっており、ちらほらと左右に人が行き交っているのが見える。その往来が時折遮る海からの反射光が、ちらりちらりとこちらを照らしている。この方角に港があって、そこからここに運ばれたのかな。
それとは反対側に目をやると、打って変わってわずかに薄暗さのある上り坂がうねりながら続いている。左右には家屋と思しき建物が並んでおり、坂に倣って列を成している。所々別の道に抜けるための横道なのか、あるいは裏に回るためなのか、家々の間に小道も見える。
道の半ばで大きく右に曲がっているため、そこから先はどうなっているのかはわからない。ちょうどそこに差し掛かるあたりに陽光が差し込んでいるのを見るに、開けた場所に続いているのだろうか。
改めてリギートに向き直り、僅かに見上げるような形で顔を覗き込む。
船で初めて出会ったときには、あまりの焦りと緊張でまるで意識していなかった部分を、今なら落ち着いて見る多少の余裕がある。
どことなくセーラー服を思わせつつも、ゆったりと首回りを包むように立ち上がる鮮やかなインディゴの襟、七分の袖口に控えめにあしらわれたレースのような模様が目を引く上衣に意識が向いた。そのまま下に視線を下すと上衣と同じ薄クリーム色の、いくらか丈が短めのゆったりとしたズボンが目に入った。
全体的に涼しく動きやすい、なんとも快適そうな出立ちだ。
ふわりとと風に流れる丸みのある髪型も含め、小奇麗で中性的な雰囲気にまとまっている。
視線を今度はリギートの顔に向けると、どこか不思議そうな表情でこちらを覗き返してきた。
っと……あんまじろじろ観察するのは失礼だよな。視覚の情報がしばらく遮断されていたせいなのか、妙にあれやこれやと周囲のものに意識が向いてしまう。
「僕、なんか変かな?」
リギートが俺の様子に対して怪訝そうな声を上げる。
「あ、いや、ごめん。あんまじろじろ見られたらそう思うよな。周りはまったく知らない場所だし、よく考えたらリギートと会ってそんなに時間も経ってないから、なんか改めてしっかり見ようと無意識に観察してたのかも……」
「あぁそっか、そりゃそうだよね。簡単な自己紹介だけして、あとはそのままタクムを運んだんだし。ちゃんともっとしっかり色々お互いのこと話さないとだね」
そういってリギートは屈託なく笑った。
日陰になっているこの場所で、おまけに後ろから入り込む反射した陽光も相まってむしろ薄れそうなはずなのに、リギートの笑顔はやけに眩しかった。
そんな彼の顔を、いやこの周辺を、一瞬大きな影が横切った。
リギートに気を取られてよくわからなかったが、さすがに鳥ではなかった。あきらかにそれよりも大きいものだったと思う。
「ま、ちゃんと自己紹介とかその辺はしっかりするとしても、まずは軽くこれらを片さないとね。いつまでもここにいるわけにもいかないし」
「あ、あぁ、それもそうだな」
そういえば俺はリギートの荷物であろうものに寝そべって運ばれていたんだった。
そう意識した途端申し訳なさが一気に沸き上がり、俺は急いで起き上がってその場を退いた。
俺が載せられていた板状のものを振り返り、改めて見てみる。
どことなくサーフボードを思わせる印象はここでも変わらず、よく見れば縁に沿うように黒い一本の浅い掘り込みが、全体を一周している。
暗めの深紅を基調とし、中央付近が黒い楕円形に塗られている。いや、そこだけ別のパーツでもはめ込まれているのだろうか。肩幅くらいに足を開いて立てばちょうど収まりそうなところが、なんとなく足場を想起させる。全体が艶加工のようなものを施されているのか、黒い部分を除きとてもツルツルとしていて陽光の筋を映し出している。
先細っていく一端と、その反対の端はおそらくサーフボードのそれよりも広めのものになっている、と思う。
正直サーフボードがどんなものだったかはっきりとは覚えていないんだよな。乗ったことも無ければそもそも間近で見るような機会も無かったし。あくまで写真だったり映像だったりのイメージの記憶だけだ。
どちらにせよ、こぶし大の丸いくぼみや細長い穴が所々に空いている時点で違うものということだけはわかるが。何かのパーツでも取り付けるためのものだろうか。
そしておそらく後尾なのであろうその側の、さらに端のほうを注視すると、小さく文字が書かれていることに気付いた。
小さいとはいえ、認識できないほどではない。
だが、単純に言語的な意味で俺はそれを読むことができなかった。船の上でもほとんど文字という文字を見かけなかったため、これがおそらく目覚めてから初めて文字を見た瞬間な気がする。一応船上の荷物などになにかしら書かれているものだと思ったが、少なくともあそこに積まれていたものには見当たらなかったのだ。
俺が気づく余裕がなかったのか、もしかしたら高く積まれていたために上部に書かれていたかもしれない文字が見えなかった可能性もある。荷物である以上当然宛名なり識別用の情報なりが書かれているはずなのだし。
それにしても、まったく見たことのない文字だな。いくら俺が日本から出たことのない、海外に疎い中学生のガキでもさすがになんとなくでも見覚えのある言語じゃないほうが珍しいような。これだけ商品にしっかり刻印されるほどの言語なんだから猶更じゃないか?
それとも、ちょっと自信過剰だったかな。敢えてマイナーな言語の文字を用いている可能性だってゼロではないだろうし。
……。
あれ。
そう、だ。俺はこの文字が読めない。それは特におかしなことではない。
……。
「なあリギート」
「ん? どうしたの?」
俺のために解いて退かした布やバンドのようなものを、再度広げなおして例の板に合わせようと作業するリギートに尋ねる。
「ここの小さい文字って、なんて書いてあるんだ?」
「んー? えっと、ああ、そりゃ『ミマーゼ・ラークェット』でしょ? あ、もしかしてタクムって視力が低かったりする? この刻印結構小さいもんね」
冗談や皮肉ではなく、おそらくそのままの意味でリギートはそう言い切った。
読めて、当たり前。その反応がそう物語っている。
そう、それだけありふれた言語ということになる。
そもそも。
なぜ、俺はリギートと話が出来ているんだ?
俺は日本語しか話せないから、当然日本語で話している。
そして今、気が付いた。
相手は俺が全く知らない言語で話し返してくる。俺はそれを何故か理解し、また日本語で返す。
相手も俺も、なんの違和感も疑問も抱かずに、だ。
意識して初めて、その異常さに気付ける。
むしろ何故今この瞬間まで気づかなかったのか。その違和感のない違和感があまりに恐ろしく、気味悪かった。
(どういう状態なんだ、これは……?)
お互いの言語が違くて、(たぶん)両者とも理解できないはずで、でも違和感を覚えることなく意思疎通が出来る。
——いや、訳わかんないって。
文字はしっかり読めないのに。……まあ、しっかりってのも変な言い方だけど。
これはリギートの言葉にのみではなく、船上での船員との会話、そして先ほどまで、簀巻きになりながら静かに傾聴していたリギートの父との会話から察するに、他の人間が発する言葉にも当てはまっているものだ。
……理解が、追い付かない。原因など当然見当がつくはずもない。ただでさえ現状が日常から逸脱しているところに、これだ。
動くことはおろか呼吸さえ浅くなり、ただ何もない一点を見つめることしかできなかった。何とか整理しようにも、まともに頭が働かない。
そうしてしばし固まっていた俺を案じてか、リギートが心配そうにこちらを見つめてくる。
「どしたの? なんか体調悪くなった?」
「あ、いや、あー……なんでもないんだ。全然平気。ありがと」
「……まあタクムがそういうなら。何かあったら気兼ねなく言ってね」
渋々そのまま荷造りに戻ったリギートだったが、すでに作業はほとんど終わっている様子だった。
いつの間に……。かなりの手際の良さだ。
いや、俺の思考がショートしかけていたが故に気づいていなかっただけか。現に例の板を見つめながら思考を巡らせていたつもりが、目の前で包まれていくそれにさえ意識が向かないほどだったのだから。
「よぉっし。これで元通りになったし、街でも見に行こっか! ついでに歩きながらいろいろ話もできるし!」
話しながらリギートは包まれた荷物の前に屈みこみ、裏をまさぐり始めた。
何をしているのだろうか? あの裏に何かが付いているとすれば、転がすためのタイヤなんかか。いやでも、俺が荷物ごと運ばれる時にはそんなもの見当たらなかったよな。
しかし荷物か……。そういえば。
荷物を運ぶ、その光景に一つ思い出したことがあった。落ち着いたら聞こうと思っていたことだ。
「なあリギート。そういや俺を運んでるとき、まったく振動もなかったし、リギートが一人で運んでる様子だったんだけど、どうやって運んでたんだ?」
「え? ああ、そりゃ——」
そう言いかけたリギートを、再び大きな影が覆った。というか、リギートどころか俺も含めた一帯がさらに薄暗くなったというべきか。
これほどの範囲を覆うほどのものって、一体何が……。
意識の導くまま、リギートの言葉の続きに耳を傾けつつ俺は何気なく空を仰いだ。
「……ぁ」
吐息にも近いような微かな声が、思わず喉から漏れ出た。
それには見覚えがあった。
船の上で見たいくつかのコンテナ風の貨物。
——それが、飛んでいた。眼前を横切り、港側へと消えていく。
そしてまた一つ、いくらか港寄りの空を、滑るように通過していった。
「ほら、こうして運んだんだよ」
あまりの衝撃にどこか朦朧としかけていた意識が、リギートの声で引き戻された。
しかし、またすぐに眩暈に似た感覚に襲われることになる。
リギートの横の荷物もまた、浮いていた。その場に、ふわりと漂うにして。
ありえないと思いつつもどこかで想像していた可能性が、目の前で実際に起こっている。
……。
なぜか船の上で目覚めて、時間もなんだかおかしくて。
見聞きする言葉は触れたこともなくて、どうやら知ってて当然なものらしく。解らないもののはずなのに通じるし。
物は当たり前に浮いてる。
薄々は気づいていたんだと思う。それでも、さすがに非現実的すぎるということもありどこか無意識に否定していたのかもしれない。それが普通のはずなんだ。でも——。
でも、これはもう、無理だろう。
「は、はは……」
認めるしかない。
ここはもう。
——俺の知らない世界なんだ。
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