第4話 試験は本当の数学ではなく、技巧的なゲームに過ぎない2
マスは再び歩き始める。数渡はついて行く他なかった。さっきまでと全く同じ歩調で机列の間を進んでいく。周りの人々は二人に視線すら送らなかった。マスは大体前から十番目辺りの誰も使っていない机の前で止まった。机の上には例のフルフェースが置かれている。
「座って。」
とマスが言う。
「ここに?」
数渡は漆黒の大理石で出来た椅子の背もたれに手を当てて尋ねた。
ここ以外にどこがあるっていうの、というようなことをマスは沈黙をもって数渡に伝えた。数渡はマスの指示に従って、恐る恐る椅子を引く。想像以上の重みに思わずたじろぐ。早くしなさい、というようなことをマスに冷たい視線をもって伝えられ、数渡は席に着く。
その時、ふと隣の席に座る人が視界に入った。フルフェースのせいで顔は見えなかったが、胸のふくらみで女性だと分かった。マスよりも一回り豊かな胸だ。隣の机の衝立には、ピンク色のカチューシャが掛けられていた。この人のものだろうか。
数渡が正面を向くと、目の前の衝立にタブレットがはめ込まれていた。タブレットからはケーブルが伸び、フルフェースの側頭部とつながっている。それからタブレットには目につくところに小さなボタンが一つついていた。一方、さっきから気になっているフルフェースはというと、側頭部のケーブルを除けば、見た目はフルフェースそのものでそれ以外変わったところはない。だが実際に触れてみるとそれは頭を衝撃から守るものというよりは、何かの精密機械であるという印象を数渡に与えた。
「この一式を私たちは〔オーダー〕と呼んでいるわ。」
マスは言った。
「オーダー。それは〔命令する〕とか〔注文する〕とかのオーダー?」
「いいえ。私たちは〔命令〕や〔注文〕といった意味でこの一式の事を〔オーダー〕と呼んでいるわけではないわ。」
そこでマスは一拍置いて言った。
「〔秩序〕という意味よ。」
数渡はマスの口から出た「秩序」という言葉にある種の深みを感じた。マスの言葉は意味深長なものが多い。今回のこの「秩序」という言葉も字面だけでは読み取れない奥深さがあるのだろう。海に巨大な林を築く藻類の海面に浮き出た先端部を地上から見るがごとくマスの言う事を聞いていたら、彼女の考えの全貌を知ることはできないのだろう、と数渡は思った。
「あなたがここでやることは、問題を解くことよ。」
マスは淡々と言った。
「問題?」
数渡は聞き返す。
「そう、数学の問題。」
数渡は訳が分からなくなった。数学?こんな訳の分からないところで、こんな訳の分からない人達に囲まれて、数学?
「あなたは問題を解くだけでいい。そのあとは、ボタンを押して、解答を口に出して言う。それだけ。」
「それが終わったら帰れるのか?」
「それはあなた次第。」
「僕次第・・・」
「帰るか帰らないかあなたが決めればいい。」
数渡が頭を整理しようと黙りこくっていると、再びマスは抑揚のない声で言った。
「オーダーをセットして。」
「何だって?」
数渡は聞き返す。
「それを被るの。」
マスはフルフェースを指さして言った。
数渡は正直こんなものは被りたくなかったが、従うしかないことは分かっていた。戸惑いつつ持ち上げてみると、その下から一枚のルーズリーフと、オレンジのゴムグリップがついたシャープペンシル、それからカバーのかかっていないプラスチック消しゴムが出てきた。数渡の心には、日常的なものを目にできた安堵感と、本当に数学をやらなければならないのだというあきらめの気持ちが同時に沸き起こった。そもそもどうして数学なのだろうか。マスに出会ってから多少はできるようになったとは言っても嫌いなものは嫌いなのだ。自分にとっての不幸の象徴に変わりはないのだ。世界史の問題を解くのではダメなのだろうか。
数渡は大層気乗りしない気分でフルフェースを被った。数渡は本物のフルフェースを被った経験はなかったが、意外にもそれはゆで卵を包む殻のように数渡の頭部にフィットし、被り心地は思ったほど悪くなかった。それに眼鏡をはめたままでも、問題なく被れたので数渡にはありがたかった。タブレットの電源が触れるともなく入り、画面が光る。
そしてその画面に、問題文のようなものが浮かび上がった。数渡は緊張して唾を飲み込んだ。加納の言葉が頭に蘇ってくる。
くれぐれもせっかく来てくれた新人を死なせるような事はしないでくれよ、マス。
間違えたら命を失ってしまうのだろうか。数渡の心拍が体に感じられるようになる。数渡は恐る恐るタブレットの問題文に目を通した。そして安堵する。簡単だ。数字は一見複雑なもののように見えるが、中学生でも解けるだろう。
問題
二つの一次関数 y=7x – 30 と y=1/2x – 21/2 の接点の値を求めよ。
数渡は力を入れてシャープペンを握り、とりあえずルーズリーフに二つの1次関数のグラフを書いた。二つの矢印で十字を作り、その先端にそれぞれ「ⅹ」「y」と書く。大体の感覚で区切って、1、2、3、4、・・・と目盛りを振っていく。そして式に従って線を引く。
ここまで書き終わってから、別に図なんて書かなくても解ける問題であることに数渡は気付いた。普段なら自分の愚かさを嘲笑するだけだが、マスの目の前であるという事で余計に羞恥心が沸いた。数渡はなぜだか妙に悔しい気持ちになり、躍起になって式を羅列した。問題を解き終わるのに三分とかからなかった。問題を解き終えてからも、数渡は何度も解答を見直した。間違えたらどうなってしまうかわからない。気づいたら、額に汗が浮かんでいた。数渡は一旦落ち着こうと、背筋を伸ばして呼吸を整えた。
「出来た。」
マスを見て言う。
数渡は最初に出した答えを変えなかった。何度見直しても間違いは見つからない。
X=3 y= −9
それが数渡の出した答えだった。
「ボタンを押して、答えを口に出して言うの。」
マスは言った。
「もうこれを外してもいいかな?」
数渡はフルフェースを指さして尋ねる。
「だめ、それを取ると〔オーダー〕の電源が落ちてしまうわ。」
数渡はまだ「オーダー」という言葉にしっくり来ていなかったが、フルフェースを外すとタブレットの電源が落ちてしまうのだと理解した。だから言われた通り、画面横に取り付けられたボタンを押そうと手を伸ばす。数渡の人差し指がボタンに触れ、軽く力を入れる。カチッ。ボタンが押される乾いた音がする。そこで数渡の意識は途切れた。
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