世界の線引き

「そんなに怖がらなくていいから」

　空気が蒸しているかのように暑く、激しい雨が降る夕暮れ時だった。木々が丸い線を描くように生い茂る円形の公園で、黒いリュックと長めな髪を濡らしているその男性は傘も差さずに座り込んでいた。茂みの前で微動だにせず、ただ下を向き、一点だけをじっと見つめるように。

　その後ろ姿はあまりにも儚げで脆そうで、地面に染み行く雨水のように、消えてしまうかのように思えた。

　コンビニでのバイトを終えた大学生の泉里香（いずみりか）は、雨が降り注ぐ空を楽しむかのようにビニール傘を差し、その雨の音を心地よく感じながら、家までの近道になる公園の歩道を歩いていた矢先だった。その不思議な男性の後ろ姿を見つけると思わず立ち止まった。びしょ濡れのまま大粒の雨でさえ気に留めないかのように座り込んでいた男性に、体調でも急に崩してしまったのではないか、と思ったからだ。

「……あの、大丈夫ですか？」

　恐る恐る声を掛けると、男性はゆっくりとこちらへ振り向く。雫にまみれた鼻筋を伝う雨粒がまるで涙のようにも思えた。黒い前髪に隠れたその瞳は見えなかったが、濡れた白いＴシャツからうっすらと透けて見える広い背中がやけに寂しそうに見えた。「体調が悪いのですか」と尋ねると、その男性はゆっくりと首を横に振った。特に声を発することもなく、濡れたその前髪越しに、ただ視線を感じた。

「私、折り畳み傘、持ってるんです。これ、よかったら……」

　あまりにも雨に打ち続けられているその姿に、里香は肩にかけていた帆布のトートバッグから傘をがさごそと探し始めた。

「あ、あった！　はい、これ！　あれ……？」

　整理整頓が得意ではない里香がごちゃついたバッグの中から傘をやっとのこと探し当て、差し出したその時にはその男性はこつぜんと消えていた。

　座り込んでいたその場所は、この公園を丸く囲うように木々が立ち並ぶランニングコースとしても人気な歩道だった。するとその木の下辺りにうごめく小さな黒いものに里香は気が付いた。

「子猫……？」

　生後二、三か月ぐらいだろうか。茂みを雨宿り場所にするかのように、水滴にまみれた小さな愛くるしい黒い猫が一匹、弱々しく立っていた。茂みの下でこちらを警戒しつつ、転がっている小さなロールパンに夢中で食らいついている。

「さっきの人にもらったの……？」

　雨がボトボトと音を激しく立て、ビニール傘を打ち鳴らす。その茂みの前でかがみ、下を覗き込むかのように子猫を見つめた。その仕草は先程の男性と同じものに感じた。

「あの人ずぶ濡れだったね。いつからいたのかな……」

　片手に握り締めたままだった黒い折り畳み傘を再びバッグの中へ戻した。傘を渡せなかったという罪悪感を若干感じながら、里香はしばらくの間、その黒い子猫を優しく見つめていた。

＊＊＊

「いらっしゃいませ！」

　大学三年生の夏休み中の里香は、週三日程はコンビニのバイトに精を出していた。勤務を始めてから既に二年は経つ。福岡から東京の大学へ進学した里香は、一年生の頃から家の近くにあるこのコンビニに世話になっていた。

「里香ちゃん、おはよう！　今日も元気だね！」

　太陽の朝日が明るく入り込む入り口の自動ドア付近で商品の品出しをしていた里香は、しゃがれた声の男性に話掛けられ元気に振り向く。

「あ、吉沢さん！　おはようございます！　今日もこの栄養ドリンクですよね！　レジにお持ちしておきますね」

「いつも助かるよ」

　里香はいつものように華やぐ笑顔で出勤前の常連客と気さくに会話をしながらレジへ茶色の小瓶を持っていく。里香は常連客には馴染みのスタッフだった。ここで二年も働けばベテラン勢ともなり、忙しいオーナー夫婦の代わりに新人アルバイトの指導も行っていた。

「ありがとうございます！　今日も仕事頑張ってくださいね！」

　慣れた手つきでレジを打ち終えた里香は、常連客に手を軽く振って見送ると、彼はにこっとしながら現場へ出発する。そんな日々を送るのはこの常連客だけではなかった。里香は持ち前の明るさもあり、誰とでもすぐに打ち解けることが多かった。それにおしゃべり好きなおかげもあって、コンビニへ来店する人たちをいつも笑顔にさせるのが好きだった。

「里香ちゃん。今日の十三時から、前言ってた新人さんが来るから。ほら、中国からの留学生って言ってた人。また指導よろしくね。ほんといつもごめんね」

「全然大丈夫です。私、この仕事好きだから気にしないでください！　あ、でも日本語通じますかね？」

「うん、大丈夫だよ。少し片言だったけど、面接でも意思疎通ちゃんと出来てたし。接客対応も問題ないと思うよ」

　ずれた眼鏡を直しながら、品出しをしているこの吉田オーナーはもうすぐ還暦を迎える。物腰も柔らかくスタッフを大切に扱ってくれる優しいオーナーでもあった。

　里香は新人指導には慣れたものだった。これまで男女問わず高校生から三十代の年上にまで、レジの扱い方や接客方法、検品作業、品出し、掃除方法などを指導してきた。だが外国人への指導は初めてのことだった。里香は昔から誰とでもすぐに仲良くなれたが、国境を越えてでもそれが可能なのか、若干不安もあった。だが、何よりも自分とは違う文化を持つ異国の人と話が出来るという好奇心のほうが勝っていた。

＊＊＊

　先程年配のオーナーから指示された部屋のドアをノックする。すぐに開けると、そこは休憩室を兼ねているのか、一人の女が目の前に立っていた。まだ食べ物が口に入っているのか、口をもごもごとさせている。同じ年齢ぐらいだろうか。目を丸くさせている女は少し驚いた表情を見せ、芳（ファン）を見上げていた。芳（ファン）はすぐに口を開いた。

「初めまして、今日からお世話なります、李（リ）　芳（ファン）言います」

　食べているものを飲み込んだのか、その女は慌てるように口を開いた。

「あ、オーナーから聞いてます！　私は泉里香（いずみりか）と言います。今日から宜しくお願いします！　あとで色々教えますね。そこのロッカーに荷物を入れたらレジまで来てください」

「はい、承知です。僕、日本アルバイト初めてで……。恐れ入ります」

　里香という女は、はにかむように芳（ファン）へ微笑み、ほのかに茶色に染めたボブの髪を揺らしながら、あたふたと店内へ戻っていく。芳（ファン）はその女の後ろ姿を見つめた。

「……昨日の女か」

＊＊＊

　里香は初めて話した中国人の彼になぜか少しだけ戸惑っていた。心臓の音がトクトクと響いている。外国人と話す、という緊張のせいなのか、突然目の前に現れたからなのか。

　眼鏡をかけていた彼は、里香を見下ろしながら、片言の日本語で柔らかく喋りかけてきてくれた。とても物腰が柔らかそうな印象だった。髪は染めておらず、長めの前髪のせいか、大人しそうな印象だったが、細いフレームの眼鏡のせいか生真面目そうな印象もあった。だがにっこりとしたあの表情から、人当たりが良さそうな男性だな、とも思った。

　里香がいつものようにレジで接客業務をしていると、青い制服に身を包んだ芳（ファン）が隣にやってきた。名札には『研修生』とばっちり書いてある。

「李（リ）さん、その制服の青、似合ってますね！　なんだかもうベテランって感じ！」

「そうですか、嬉しいです」

「今日はみっちり色々教えますからね！」

「みっちり？」

「あ、みっちりってですね、えーと、詳しくって事です！　……たぶん」

　そんな他愛のない会話をしていると、客がレジへやってきて缶コーヒーや菓子パンを無造作に置く。

「あ、李（リ）さん、とりあえず私の作業見ておいてくださいね」

　里香は慣れた手つきで笑顔と明るい声で対応し、次々に品をレジに通し、白のビニール袋へ入れていく。エコバッグを持っている客にはまた別の対応をしながら素早く仕事をこなしていく。そんな中、いつもの常連客が訪れると、また華さくように明るく会話をするのが日課だ。

「あ、小林さん！　今日は現場が近いんですか？」

「そうそう、けど、遠くても里香ちゃんの揚げた唐揚げがいつも食べたくてね！」

「出来立て揚がってますよ？」

　にこやかな里香はそのままの表情で、こちらを見つめていた芳（ファン）に「保温庫から唐揚げを取ってもらえますか」と明るく伝えた。

＊＊＊

　芳（ファン）は保温庫から唐揚げを取り出し、客に囲まれながら楽しく会話を繰り広げる女へ手渡した。その後も次々に訪れる常連客と、ひたすらにのどかな風景が繰り返される。指示された通りに芳（ファン）は女の仕事の様子を見つめながら、補助を続けた。

　見ているだけで分かった。

　この女は明らかに自分とは違う世界の人間だった。

　そしていつものように思う。

　

　――こいつは線がない奴だと。

「李（リ）さんはなんで日本に来たんですか？」

　外が茜色に染まる頃、客がいない店内で、女が好奇心に満ちた表情で話しかけてきた。

「日本語学びたくて……、でもあまりお金なくて、ここ働きたいです」

　つたない日本語で返すと、女はにっこりとした面を浮かべた。

「私に出来ることがあれば何でも言ってくださいね！」

　今日会ったばかりの男にそんなことを言うこの目の前の女に心底嫌気がさす。この女には警戒心や壁さえも感じられない。誰にでも分け隔てなく接しているのが接客からしても分かる。天性のものなのだろうか。世界には誰とでも仲良くなれる奴がいるらしいが、俺には到底考えられない。明らかに自分とはかけ離れた世界の住人だろう、そう芳（ファン）は思った。

「ありがとうございます」

　芳（ファン）はそんな女へ笑顔を返すように、眼鏡の奥で小さく作った笑みを見せた。悩みなんて何もなさそうにへらへらと笑い、誰からも好かれようとしている目の前の女に異様に腹が立つ。なぜそんなに笑う必要があるのか。なぜそんなにへつらう必要があるのか。接客業だと言えど、これが日本のオモテナシなどと言われても自分にはごめんだ。必要以上の接客も交友関係も築くつもりなど毛頭ない。

『この線から店内になるから、頭を一度下げるんだよ』

　休憩室から店内へ出ようとしたら、黒いビニールテープが床に貼られてあるドア部分で、通りかかったオーナーからにこやかに言われた。

　

　そうだ、線引きはどこでも必要なんだ。

　初日のバイトを終え、コンビニを出た芳（ファン）は、きらびやかなネオンに囲まれた歩道を速足で歩きながら帰宅していた。すると遠くから自分の名前を呼ばれた気がした。

「李（リ）さーーん！」

　振り向くとあの女だった。急ぎ足で何やら白いビニール袋を持ち、慌てて掛けてくる。

「よかった、間に合った……！」

「……どうしたですか？」

　肩で息をしている女は、地面に頭を下げたまま息を整えていた。

「これ……良かったら、食べてください……！」

　まだ息の整っていない顔を上げ、どうにか言葉を吐き出しながら、女はその白いビニール袋を芳（ファン）に突き出した。

「これは……食べ物？」

　様々な菓子パンがぐっちゃりと重なりあうようにビニールの中で敷き詰められていた。

「はい、コンビニの廃棄処分のパンで……今日中なら食べられるから……李（リ）さんに……。ほんとは捨てなきゃオーナーに怒られちゃうんですけど……、ほら学生って色々大変じゃないですか？」

　息を切らしながらでも必死に明るく喋るその言動は、学生同士共通の話題でも振ろうとしているのだろうか。その言動一言一言に虫唾が走る。

　

「わざわざ持って走ってきたですか？」

　やっと息が整ったのか女は芳（ファン）へ向かって汗ばんだ顔をはっきりと見せた。その瞳は曇り一つない明るさを持っていた。

「だって、節約になるじゃないですか！」

　その無垢な笑顔をこちらに向けるな。

「ありがとうございます……」

「あ、ゴミ出しに行くって言ってたんだった！　速く戻らないと！　じゃ、私戻りますね！」

　軽快に走りながら店へ戻る背中を睨むように見つめる。

「なんなんだ、あいつ」

　菓子パンが大量に入ったレジ袋をぎゅっと握ったまま、そう呟いた。

＊＊＊

「例え世界が違ったとしても、今私達は一緒にいる」

　いつものように何気なく点けていたテレビから耳に触るような台詞が響く。だからなんだ。それがどうした。一緒にいたって何も変われないんだ。そのままの世界がただ広がっているだけだ。自分には世間的に立派な両親がいたが、ただ存在していただけだ。それだけで幸せになったとは到底思えない。いつも自分は一人だった。帰ってこない両親に、使用人だらけの家。どんなに金があっても、どんなに素晴らしい玩具を与えられようとも、いつもとてつもなく虚しい気分に襲われ、ただ流れゆくテレビの映像を暗い部屋でいつも眺めていた。音さえ流れていればチャンネルなんてどれでもよかった。

　

　この日本に来た後もそうだ。

　ずっと意味もなく点けているテレビがまた目の前にある。

　

　あの国から逃げたかった。いや、両親から、家から。あの環境を抜け出せば、この日本に来れば、自分の何かが変わると思っていた。コンビニのバイトも、親のすねをなるだけかじりたくないから始めた。だけど――。

　この国で生活するためにも狂ったかのように勉強に明け暮れ、日本語も流暢（りゅうちょう）に話せるようになった。だが喋れるようになっても、自分が中国人だからなのか、国境線を超えたとしても何も変わらなかった。だから今はもうあまり話せないふりをしている。

　こちらが必要以上に話さなければ相手も話そうなんてしない。こちらが興味を示さなければ、相手だって興味を示さない。誰だって己に興味がない者に対して興味を示すわけがない。己が一番のこの世界はこれで成り立っている。

　いつの間にかテレビの音が心地よく鳴り響いていた。

　そうだ、これだ。自分を安心させてくれる音は。

　だから誰とも深く関わらなくていい。

　その方が傷付かなくて済むのだから――。

＊＊＊

「あ、李（リ）さん、おはようございます！」

　里香は今日も同じシフトで入っていた芳（ファン）に明るく話しかけた。芳（ファン）がここへやってきて一か月は経つ。そんな芳（ファン）はいつものように優しく笑い、挨拶を返してきた。一見穏やかそうな男性だが、こちらがどんなに心を開こうとも、芳（ファン）が持つ目に見えないような線を誰にも越えさせようとしないことに次第に気が付き始めた。初日に廃棄の菓子パンを渡したことも、きっと大きなおせっかいだったのだろうと後日理解した。まるで彼は自分とは違う世界に住んでいるかのようだった。会話が続かないのも、必要以上に喋らないのも、自分が同じ中国人ではないからかも、とか、人見知りなのかな、とも思っていたが、いつもよそよそしく、里香だけではなく人間全員にまるで『近づくな』と言っているかのように思えた。そんな芳（ファン）の様子を気にしていた里香は、彼のことを考える時間が日に日に多くなっていった。

「もうだいぶ慣れましたか？」

「まだまだです。僕、覚え悪くて」

　芳（ファン）は気まずそうな笑顔でそう言った。

「そんなことないですよ！　言葉の壁もあるのにすごいと思います！　李（リ）さんってすごく頑張ってますよね。だってこんな異国に一人で来てたくさん勉強して、一人で暮らして。慣れないことだらけですよね？　ほんとすっごく頑張ってると思います！」

　その言葉に芳（ファン）は拍子抜けしたかのように里香へ冷ややかな視線を向けた。

「あ、エラソーにスミマセン……」

「いえ……」

　

　里香はまたいつもの失敗をしてしまったと思い、その場から逃げるようにレジから出ていき、品出しを始めた。里香は一線を越えるような踏み入れてはいけない他人の領域へいつもずけずけと入ってしまうのだ。そのおかげで打ち解ける人もたくさんいた。だが敬遠する人も少なからずいた。明らかに彼は後者だった。そのことをちゃんと理解していたはずなのに、彼の寂しそうな姿が目に入る度に手を差し伸べたい気持ちが抑えられずにいた。だけど『寂しそう』なんて、自分がただ勝手にそう感じているだけなのかもしれない。

　それから芳（ファン）は里香に対して増々よそよそしくなってしまった。無理に彼の心を覗こうだなんて思ってはいなかった。だけど、結果的にそうなってしまった。里香は小さな溜息をつき、己の不甲斐なさに心を沈ませていた。

＊＊＊

　その夜、芳（ファン）はまたいつものように見たくもないテレビ画面をただ眺めていた。だが、何かいつもと少し感覚が違う。いつも心地よいはずの目の前のテレビの音がやけに耳に触る。

「なんなんだよ、あの女……」

　勝手にずけずけと土足で自分の線の中へ入り込んでくる。拒否しようとしてもお構いなしだ。とても目障りだ。自分は勉強もバイトも、ただ自分の為にやっているだけだ。日本語や日本の文化を学んだのも、ただ自分がそうしたかったからだ。そう、ここで何かを変えようと思って――。

「あーー畜生！！」

　倒れるように狭いベッドへ身体を投げ出した。薄暗い天井にテレビの光が漏れ、雑音に似た音がこの狭い部屋中で響いている。

「くっそ、うるさいんだよ……」

　目隠しをするかのように、顔を腕で隠した。だけどまだ耳にまとわりつく。テレビの音も、あの女の声も。あの時の言葉も。

　気が付くと、芳（ファン）は両手で耳を塞いでいた。もうこれ以上何も聞きたくない、聞きたくないんだ。

　

　いつもの心地よいテレビの音が、今はとてつもなく不快に感じる。

　

　期待したところでまた深い暗闇に落とされるんだ。

　もう傷つきたくないんだ、二度と――。

＊＊＊

　里香はあれから芳（ファン）とはシフトが一緒になることはなかった。あの時、彼の領域を踏みにじったことを謝りたかった。でも彼のことだ。謝られたとしても困るのだろう。もうそっとしておいたほうがいいのかもしれない。それが彼にとっては居心地のいいことなのかもしれない。でもそれで、そのままでいいのだろうか。それは楽しいことなのだろうか。幸せなことなのだろうか。誰にも心開かないまま、孤独に居続けることが。

　芳（ファン）と性格が真反対の里香にはそれが理解出来ずにいた。だが世の中にはそのような人もいるということをもちろん知ってはいた。そうだ、自分の価値観を彼に押し付けてはいけない。それがきっと私の悪いとこだ。

「里香ちゃん？　なんだか今日はボーっとしてるね」

「あ、すみません！」

　雑誌コーナーで本を整えていた里香は、いつの間にか空に浮かぶ曇り夜空をぼーっと見つめていた。

「大丈夫？　今日はお客さんも少ないし、もう上がってもいいよ。時間はちゃんと二十時まで付けておくから」

　今日もオーナーの吉田さんは優しく、里香はその言葉に甘えることにした。連日働き尽くしの日々で、実際体が疲れ切っていたのもあった。こんな憂鬱な日ははやく帰宅してはやくお風呂に入ってはやく寝るに限る。そしてまたさっぱりして明日を迎えたい、そう思った。

　帰り際に明日の朝食のパンを買い、店を出た時、暗い夜空から小雨がぱらぱらと降り始めていた。いつも持ち歩いていた黒い折り畳み傘をがさごそとバッグの中から探す。だが今日に限ってそれがないことに気が付いた。

「バッグ変えちゃったんだった」

　里香は仕方なく走って帰宅することにした。まだ小雨だし、自宅までいつもの公園を抜け道として使えばそこまで濡れることもなく帰れるはず。

　

　そして駆け出した。あの丸い公園へ――。

＊＊＊

　芳（ファン）は傘に打ち付ける雨の音が酷く耳に障りながらも、近くの店まで夕食を買いに出かけていた。その店まではあの公園を抜けるのが早い。この公園はこの街の中心近くに建てられていた。普段のその場所は、様々な人々が行き交い、土地柄なのか色んな人種が利用している賑やかな場所だった。ベンチで腰掛けるスーツ姿の日本人、どこかのWi-Fiを拾っているのかタブレットを持ち集まるフィリピン人、ジョギングの休憩中なのか小影で休むアメリカ人。そこはまるで国境なんてない小さな小さな地球のように芳（ファン）は感じていた。芳（ファン）は公園の周囲に整備されている歩道はよく利用していたが、公園自体には今まで一度も足を踏み入れたことはなかった。いや、踏み入れたくなかった。中に入れば、あいつらと同じじゃないか。あいつらには線なんてない。だからここにいるんだ。俺は違う。誰とも関わらなくていい。

　雨のせいか今夜は人通りも少なく、公園内もやけに静かだった。そんな丸い外周をしばらく歩くと、傘も差さず木の茂みの側で座り込んでいる人が目に入った。そこは以前からよく知っていた場所だった。

「おいで」

　聞き覚えのある女の声が耳へ届く。この雨音に包まれているせいなのか近くで歩く自分の存在に気が付いていないようだった。

　芳（ファン）はそのまま後ろを通り過ぎるつもりだった。

　次の声が届く前までは。

「そんなに怖がらなくていいから」

　その優しく細い声がこの暗闇に響いた時、芳（ファン）は思わず立ち止まっていた。そして雨に濡れている女の小さな背中を見つめると、差していた黒い傘を女の背後からそっと突き出していた。

「……何やってるんですか」

　目を丸くした里香の表情が、芳（ファン）の中へ飛び込んできた。

「李（リ）、さん…！？」

「すごく濡れてますよ」

「あ、ありがとうございます、今日に限って傘忘れちゃって……」

　いつものように眼鏡をかけていないからか、里香は芳（ファン）を不思議そうに見つめながらパンの袋を持って立ち上がった。すると雨脚を強くした激しい雨音が傘の下で響いた。その時、茂みの下から小さな鳴き声が届いた。

「猫に餌、やってたんですか」

「はい、この間同じ場所でパンあげてた男の人がいて……、でも怖がってるのか、なかなか出て来なくって……。あっ、今度、廃棄になるパンあげたら喜ぶかも！　李（リ）さんも今度一緒にパンを……」

　途中で急に会話をやめてしまった里香は、思い詰めたような表情を浮かべていた。

「スミマセン……。この間、あんなこと言って困らせたのに、こんなことまた言って……。私、帰りますね。家も近いんで、走ったら大丈夫ですから。ほんとこの間はスミマセンでした」

「……はい」

　里香は軽くぺこっと頭を下げ、傘の下からまた雨の広がる世界へ飛び出そうとした。その時、咄嗟（とっさ）に彼女の右腕をぐっと力強く引っ張り、再び傘の中へ強引に戻した。突然の出来事に戸惑いを隠せない里香の顔がすぐ間近にあった。

　

「え……？」

「違います。……今の返事はパン、のことです」

　彼女の細い右腕から手を離すと、芳（ファン）は里香にその場へかがむように催促した。

「ほら、おいで。パンあげるから」

　芳（ファン）の声と共に黒い傘の下で二人一緒に茂みの下を覗き込むと、それに驚いたのか、子猫は雨音を響かせる公園内へ向かって飛び出してしまった。それに続くかのように里香はすぐに立ち上がり、彼女は子猫を追いかけ始めた。

　

　――茂みの線を越えて。

　芳（ファン）は、酷く濡れながら子猫を追いかける里香の後ろ姿を一時の間見つめていた。

　そして雨音に包まれた公園内へゆっくりと片足を踏み入れた。

　

　里香が公園の中心で子猫を抱き上げた時、芳（ファン）は再び黒い傘を差し出した。芳（ファン）は里香にパンを催促すると彼女は差し出してくれた。受け取ったロールパンを小さくちぎって里香の胸の中にいる子猫へ与える。雨粒にまみれたその小さな動物はパンを勢いよく食べ終わると、彼女の腕に抱えられたまま、なつっこく芳（ファン）の手へすりよってきた。

　「……怯えてただけなのか」

　すると里香は、眼鏡をかけていない芳（ファン）を見ながら「あっ」と声を漏らした。

「もしかして、あの時の」

　芳（ファン）は戸惑いを隠せていない彼女の顔を見つめた。その時、黒い傘にぽつぽつと打ち付ける雨音がなぜか心地よく響いていた。