ヨーコ・アフター

佐渡 寛臣

第1話

 愛の重たさを知るにはどうしたらいいのだろうと、花菱一人、目的地に向かってゆったりと歩いていた。

 まだ早朝であった。腰まである長い髪がその歩みに合わせてゆらゆらと揺れ、日が上がりきらぬその時間は少し肌寒く感じられた。

 愛に重さはない。それは物質的なものではなく、魂に沸き立つようなものである。しかし確かに花菱の中に満たされ、溢れんばかりの愛の重みは、身体を重くするようであった。

 通りすがりの男子高校生がちらりとこちらを見遣る。目立つことを嫌う花菱は隠れるように背を丸める。消えてしまえるならば、と考えて視線を落とす。

 公園の前まで来て、花菱はひょいと目的の物を拾い上げる。目覚ましのバイブレーションが響いていた。なるほど、いつもこの時間に目覚めていたのね、と花菱はマスクに隠れた口角を上げた。

 飾り気のない、シンプルなスマートフォン。予め、調べておいた操作方法で機内モードに切り替え、GPSもオフにする。そうしてポケットに放り込み、花菱は踵を返した。


 長い手足をしていた。成人男性よりも背の高い花菱は本来ならばすらりとしたその体系を、隠すように猫背のまま、ゆらゆらと肩を揺らして歩く。人通りの少ない道を選び、それでもすれ違う人にちらりと見られながら、足早にその場を立ち去る。

 歩きながら、ごちょごちょと耳に障る話声が聞こえる。さっきすれ違った自転車に乗った女性が、耳元まで唇を伸ばしてきて、囁く。意味が分からない言葉、だけどそれが罵声だとわかる。

 目立ちたくないのに、と思うと、ますます声は大きくなり、叫ぶような悲鳴が響く。

 ぞわぞわと胸が気持ち悪くなり、花菱は慌てて自分のスマートフォンを取り出して、アプリを立ち上げた。

 ――運命のアプリ。自分を救ってくれるアプリ。

 メッセージログを開く。アプリ内チャットには目元を隠した男性のアイコンと、花菱に対して送られた励ましの言葉。


 一文、一文を読みながら、花菱は落ち着きを取り戻す。耳元にあった口だけの化け物はいなくなり、彼の言葉が甘く囁かれる。

 身体の中の愛が溢れる。花菱の身体を守るような温かいものが花菱を穢そうと、花菱を傷つけようとする世界の全てから守ってくれるようであった。

 声が漏れる。大丈夫、大丈夫だよ、と花菱は呟きながら帰路についた。




 半裸の男性が一人いた。手を拘束され、足は椅子に頑丈に締め上げられ、口には猿轡が噛まされていた。自身の排泄物の匂いが立ち込める室内。男は気力をなくしたような目で呆然と虚空を眺めていた。

 部屋の扉が開かれると、女性――花菱が入ってきた。マスクを外し、満面の笑みを浮かべ、拘束された男性の傍に駆け寄った。


「あらあら……あらあらあらららあららら」


 高い声。天井に頭が届きそうなほどに高い背からは想像できない、少女のような声だった。男はくぐもった声を漏らした。気にもかけず、花菱は男の前に跪き、露出した下半身を眺める。


「――ごめめんな ささい。大切ななわ忘れ物を探しに いってたたのの    。粗相うをしてて しまったのね」


 可哀そうに、と花菱はバケツに溜まった糞尿を持って、それをトイレに処理しに行く。そうしてゴム手袋と雑巾を持って周囲に散らばった尿をふき取り男の身体を拭いた。

 そして花瓶を持ってきて笑う。


「――もう出なない? が我慢ししししなくて  いいからね?」


 震える声、しかし優しい声色で花菱は言う。男は身体を弄られ、尻を拭かれながら、首を横に振って嫌がる。それでも構わず花菱は刺激を続け、男は身体を震わせて脱力し、花瓶に黄色い液体がじょろじょろと排泄された。


「じょ上手ず ね       。いい子いい子」


 ゴム手袋を外して、細くて長い指に髪を絡ませるように優しく撫でる。抜けた毛を一つ摘まんで、じっと目を細めるとそれを口に放り込み舐める。


「美味しししししししししし」


 くつくつと含んだ笑みが口元から溢れる。花瓶を持って部屋を出ていった。取り残された男は呆然と天井を見上げて虚ろな目を窓へと向ける。閉ざされたカーテンに、鳥が羽ばたく影だけが見えた。


 花菱が部屋に戻り、嬉しそうにポケットの中からスマートフォンを取り出す。男が目を瞠った。

 男が泣き叫ぶように声を漏らす、猿轡に血が滲み花菱は慌てて男に駆け寄りその枯れ木のような手で頬を撫でた。


「安心ししして? ややっと見つ   けたの。あななたと、わたしの愛の証」


 ふふふと花菱は笑みを零して、男のスマートフォンに口づけをする。男の顔は絶望に染まる。唯一、残した男と女の繋がりを示す端末。誰かが見つけてくれれば、と一縷の希望がそこにあった。

 花菱はそっと男の太ももの上に跨り、身体を抱きしめる。


「好き」


 ぞっとするほどの甘い声が男の耳を擽る。頭を掴まれ、身動きが取れない男はその抱擁を受け入れるしかない。女の、細い身体と女性特有の柔らかさ、恐怖の中、壊れそうな心を保とうとする精神が脳を守ろうと身体が反応を始める。熱くなる身体に、花菱は気付いて喜ぶ。


「やっぱり」


 頬を舐める。汗の味を確かめるように何度も何度も、胸元、首筋、頬、こめかみ。花菱は堪能するように男を舐めた。


「みみんなが、私を怖がるるのの、指をさしてくるるる。怖いの怖いの怖いの怖いの怖いの怖いの」


 ねぇ、と花菱は男の鼻を舐めて言う。


「――あなただけだけだけだけだけががががが私を知ってくれるの。好き好き好き好き好き好き」


 女は服を脱いで裸体で男の身体に、その骨ばった身体を押し付ける。男の汗ばんだ身体が吸い付くように密着する。


「名前で呼んで」


 花菱の、甘い吐息が耳にかかる。べちょべちょと音を鳴らしながら舐られて、男は鼻息を荒く、吐息を漏らし、猿轡された口から必死に声を出した。


「――おぉこ」

「もっと! もっと! もっと呼んで! 愛をあ愛いいをを込めててて」


 重みを知りたい。彼の愛の重みを知りたい。身体を重ねて全身で感じ取りたい。花菱は身体を揺すって男の身体の前で踊るように動く。肌が、舌が、目が男を感じる。

 男は繰り返し、声にならない声で花菱の名を呼び続ける。花菱の耳には男の声が明瞭に、そしてありもしない優しい声色で再生される。


 ヨーコ。

 ヨーコ。


 ヨーコ。




 圧し掛かるような、愛にあふれた言葉が、部屋全体に満たされる。肌がぶつかる音を立てながら、男は花菱ヨーコと共に狂った。ポケットから滑り落ちたスマートフォンがその役割を終えて、ごつりと床に音を立てた。

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ヨーコ・アフター 佐渡 寛臣 @wanco168

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