眠れない夜に

かなぶん

眠れない夜に

 草木も眠る丑三つ時。

 常では意識しないそんな言葉を男が思い出したのは、まさにその時刻の只中で起きてしまったためだ。不慣れな出張で身も心もヘトヘトになり、ホテルの部屋に着いた途端、意識を飛ばしていたはずなのに、中途覚醒した頭は妙に冴えきっている。

 もしここが風流な老舗の旅館であれば、思考がそちらの話に転びそうなところ。

 だが、ここは都会のど真ん中。

 何より、いつの間にか帰ってきたのか、両隣からは深夜を嘲笑うような、賑々しい笑い声や手拍子が響いていた。

 恐らく、この騒々しさに起こされてしまったのだろう。

 神経質な方ではないはずだが、さすがにこの騒音の中で眠れる図太い神経も持ち合わせてはいない。

 フロント経由で注意して貰おうと思ったものの、この部屋の鍵を受け取った時の手際の悪さが頭を過った。

(……仕方がない。どうせ仕事が残ってるんだ。これだけ頭が冴えているなら、朝早く起きるより今やってしまった方がいいだろう)

 両隣への罵詈雑言を口の中に押し込み、仕事に取りかかる。

 その時だった。

 何の脈絡もなく、死角からバンッという音が鳴った。

 続き、

「わ、やべっ」

 突然の音に反応できなかった男の耳に、若い男のそんな声が届く。

 両隣のどちらかの壁から響いてきた音なら男も気にしなかったが、聞こえてきた方向は今まで静かだったホテルの廊下側。しかも届いた声は、このうるささの中にあってやけに鮮明だった。

 いくら周りがうるさかろうが、一人だけのはずの部屋には場違いだろう。

 幽霊、とまで飛躍しなくとも、泥棒その類を想像するのは容易だった。

 男に緊張が走る。

 明日のニュースに自分がどうこうなっているなど、冗談ではない。

 最悪を想像しながら意を決してそちらを見る。

 扉が五センチほど開いていた。

 薄く覗く先にあるのは暗闇だけ。

 途端、両隣の騒がしさも遠くに感じるほどの恐怖に襲われる。

 突きつけられる何者かの存在感に喉が大きく鳴ったなら、扉の隙間から何かが勢いよく飛び出してきた。

 ビクッと身体を震わせた男は、ソレを認識して絶句する。

 腕だった。

 男とも女ともつかない太さの、腕。

 ルームライトの明かりは弱々しいが、温かみのある色合いは男の肌を染めている。にも関わらず、扉から伸びるその腕は血の気のない青白さを保ったまま。まるで腕自体が発光しているかのようだ。

 凶器を持った暴漢が出てくると思っていた男は、しばし茫然と腕を見つめる。

 と、腕が急に奇怪な動きを始めた。

 くねくねと、上下左右、必死に動いている。

 どうやらこちらへ手の先を向けたいらしい。

 しかし、肘近くまで伸ばした腕を、五センチの隙間からこちらへ向けるのは、なかなか厳しいだろう。いっそ、もっと扉を開くか、長さを調節して手首だけ出せば良いものを、腕には腕の意地があるらしく、しばらくは進展もなくもがいていた。

 最終的に無理だと悟ったのだろう。

 腕は大人しく扉の横へと手の先を向けた。

 そして、今度は激しく上下に振り出す。

 正直、意味が分からない。

 いや、もちろん最初から今に至るまで、腕の存在は男にとって訳が分からないものであったが、激しいヘッドバンギング然で振られる腕は、先ほどのもがきよりも目的が不明だった。

 腕の行動を予測できない男の耳に、また若い男の声が聞こえた。

 囁くような小ささで。

「来い! ほら、来いよ、早く!」

 扉の向こうから確実に聞こえてくるその声の意味に、男はもしかしてこれは手招いているのでは? と思い至った。

 が、腕のあまりの必死さに、そして手招いているという自身の発想に、男はただ首を捻るばかりである。

 それからどのくらい経った頃だろうか。

 不意に力なく萎れた腕が、扉の奥へと消えていった。

 諦めた、という言葉がしっくりくる引き様である。

 次いで、静かにパタンと男の目の前で閉められる扉。

「……なんだったんだ、今のは?」

 さらに首を捻り考えるが、やはり分からない。

 もしかしたら、自分はまだ夢の中にいるのかも知れない。

 そんな結論が男に生まれようとした時。

プルルルルル――……

 電話が控えめに鳴り出した。

 今見たことが現実だったのかどうか、判別できぬまま、男は電話に出る。

「はい、もしもし」

「なんで、来てくんねえんだよお!」

ガチャンッ

ツーツーツー――……

 親しい友人に約束をすっぽかされたような、悲壮に満ちた、十中八九、先ほど聞いた若い男の声と同じ声であった。

 非難がましい叫びと電話を叩きつける音に、男はしばし耳を押さえる。

 そして、ふと思う。

 扉から腕が消えてから数秒で、フロント経由でしか利用できない電話を使えるものだろうか。

 それに、あの扉の先は確か……。

 腕が必死になって手招いていた扉の前に立ち、照明を点けてからそっと開ける。

 迎えたのは、オレンジの光に照らされた、洋式トイレと浴槽。

 他には何もない。

 振り返れば、両隣がこれだけ騒々しい中で、囁き声など聞こえないはずだ。

(ああ、そうか)

 ここにきて男はようやく理解した。

 これがいわゆる、怪奇現象なのだと。

 しかし、

「……どうしろっていうんだ?」

 生まれて始めてのそちら関係の経験を終えた男は、少々途方に暮れてしまった。

 だが、悩んだって仕方がない。

 全ては終わってしまったのだから。

 首を一振り、仕事を片付けた男は、半ば自棄になりながら眠りについた。


 翌日、フロント係に泊まっていた部屋で以前何があったのかを聞くこともせず、男はホテルを後にした。

 妻子の待つ家へ、土産でも買って、のんびり帰るつもりだ。

 男はこの一夜のことを、生涯、誰にも話さないだろう。

 土産話にもなりはしまい。

 きっと、多分、いや絶対に、誰一人信用も、怖がりもしないことは、体験した自分がよく分かっていたのだから。

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眠れない夜に かなぶん @kana_bunbun

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