第八章 ②
紫煙が低い天井へと届いた。ゼルは今日だけで何本目か忘れた煙草の味に、重い胸焼けを覚えていた。それでも、吸わずにはいられない。
機操剣の整備室で、ゼルは煙草を吸っていた。
当然、ここには機操剣の整備をするために訪れた。だというのに、一向に進まない。もう一時間以上が経過していた。
作業台に置かれた機操剣は虚しく沈黙するだけ。
原因は、分かっている。
分かりきっていることだ。
「――クローゼル。今の俺を見たら、お前はなんて言うかな?」
かつての恋人の姿が脳裏に浮かぶ。強く、優しく、そして美しい女だった。この身の全てで愛し、護ろうと決めた相手の〝はず〟だった。
『私は、そこまで今の人生に悲観していないわよ。だって、ゼルに出会えたんだもの。好きだって信じられる。それだけできっと目の前が明るくなるんだもの』
馬鹿言うな。俺にとって、お前こそが光だった。この醜く残酷な世界で唯一、クローゼルだけが眩しかった。だから、前に進むことが出来た。
『いつか、全てが終わるときが来ても、絶対に諦めちゃ駄目よ。ゼル、あなたは強いんだから。きっと乗り越えられるわ』
卑怯じゃないか。あの日、あの時、あの一瞬、俺だって諦めたかった。なのに、お前の言葉が呪いとなった。
『好きよ。凄く、愛している。この世の誰よりも』
――あの日から、俺はどれくらい〝変わった〟のだろうか。
ゼルは音もなく立ち上がる。右手で機操剣の柄を掴んだ。左手で蒸気機関と高位解析機関の間から伸びるワイヤースターターを掴む。そして、一息の気合で引っ張った。
内部でホイール式の着火装置が回転し、散った火花が固形燃料を燃やす。濃い橙色の熱は火室まで伝わり、コークスが燃えていく。
空気弁を調整し、火を安定させる。静かに燃える炎の芯は橙色から緋色、白く染まっていく。
貯水室を満たす水が温められ、お湯へと変わり、蒸気と化す。十二本のシリンダーが絶え間なく上下運動を繰り返し、円運動へと変換され、蒸気機関が駆動する。段々と勢いは加速していく。
ギュリオールの遠雷から、MアポートンM一八五〇へと動力が浸透していく。歯車の群れが活性化し、出番を待つ。
ゼルは柄を両手で握り直す。
大きく踏み込んで横薙ぎに一閃。火竜小唄の濡れたような霞仕上げの刃が必殺の円弧を描いた。
勢いを殺さず中段突き、下段薙ぎ払い、上段打ち上げ、一直線に振り下ろす。刃の切っ先は床を抉る小指一本分手前でピタリと停止した。ゼルは息一つ乱さず煙草を吸ったままだ。鍛え上げた膂力と達人の技量、剛と柔が合わさった剣術だった。
習い性とは不便なものだ。あまりにも、今の気分に似つかわしくない。ただ叫んだ方が、まだマシだったか。
「クローゼル……俺は」
俺はいったい、どうしたら。
『ゼルは、難しく考えすぎなんだって。男なんだから、馬鹿みたいに一直線でもいいじゃないの。大丈夫。大きな失敗をしても、私が慰めてあげるから』
君がいない今を、俺は生きている。
なんて未練がましいのか。優しい言葉だけを想い出してしまう。沢山、喧嘩もしたのに、罵倒されたこともあったのに。
楽しい時間ばかりを、想い出してしまう。
ゼルは機操剣の柄を逆手に持ち直し、片膝を折った。切っ先は床に触れるも、沈まない。機錬種ではないからだ。だから、その仕草にこそ意味があった。
昔は、割と頻繁に神へ祈っていたような気がする。無論、頻繁に裏切られたからこそ過去の話なのだが。
あのときも祈った。この身の全て、魂の一滴まで全てを捧げても構わないから、どうか彼女を救ってくれと。
当然、叶わなかった。
「……けど、今は違う。あのときと違う」
まだ、間に合うのだろうか。
いや、間に合うかどうかじゃない。
ゼルは足裏を弾かれたように立ち上がり、機操剣の空気弁を最低値まで下げる。背中に吊るした鞘へと刃を収めた。
「絶対に、間に合わせてみせる」
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