第一章 春の断章 -Comedy-
春の断章①
強烈な
目を開けると、視界に広がっていたのは真っ白な天井だった。
どうやら俺は、仰向けになって寝そべっているらしい。
荒い息が、ひっきりなしに口から漏れ出る。
全身で汗をかいていたようで、服がべたべたと貼りつく感触が妙に気持ち悪く感じられた。
状況を理解しようと、頭をゆっくりと揺り動かして記憶を手繰り寄せる。
記憶の接合点が徐々に繋がり、次いで鮮明な死の感覚が突如として襲ってきた。
全てを凍てつかせるような吹雪に彩られた景色の中、俺はトラックに跳ね飛ばされたのだ。
言葉に表せないような
酸っぱいものが胃からこみ上げ、焼けるような感覚が喉元を刺した。
……あの時、間違いなく、自分は死んだと思った。
だが実際にはこうやって意識があって、鈍いが五体の感覚も残っている。
奇跡的に助かったと考えるのが妥当な判断だ。
となると、ここは病院の一室で、俺はずっと意識を失っていたということになる。
一生分の幸運が働いて奇跡を呼び寄せたのかどうかは知らないが、俺はトラックに
現実的な理由を考えてみれば、冬の吹雪の中でトラックがそれほどのスピードを出していなかったというのが実情なのだろう。
もっともそれは俺の場合、悪運の強さと同義でしかなかった。
のそのそと上体を起こしてみる。
全身の筋肉がきりきり痛んで、「くっ」と
起き上がると途端に目眩がして、再びベッドへと突っ伏して目を固く閉じた。
病院という言葉が呼び水となって、ふと彼女の記憶が脳内に
もしかしたら彼女は、俺が事故に遭ったことを自分の責任として感じているのかもしれない。
彼女が余命幾ばくもないことを知って、俺はもう全てを諦めてしまった。
冷静に考えてみれば、俺に残された選択肢は
最後の瞬間までつき添って、奇跡的な病状の回復を祈り続けることだってできたはずだ。
自らの生に手を下すのは、その後からだって遅くはなかった。
しかしこうやって生き残ってしまった以上、俺は考えられる限り最悪の結果を引き寄せたことになる。
彼女には一体、あとどれくらいの時間が残されているのだろう。
……それとも、彼女はもうこの世にはいないのだろうか?
それだけが気になって仕方がなかった。
「永輔、早く起きなさい」
その時、所帯じみた女性の声が部屋に響いた。
どこか聞き覚えのある声だった。
俺は「どういうことだ?」と自問自答した。
なぜならその声は俺の母、福島千裕の声に瓜二つだったのだから。
ベッドから降りて、部屋を見渡す。
どうして、今まで気づかなかったのだろうか?
そこは、実家にあるはずの俺の部屋と瓜二つだった。
久しぶりに目の前にする自室は、随分と散らかった様相を呈していて、生活臭さで溢れていた。
記憶では大学進学の際、この部屋を後にする時、かなり念入りに掃除を行ったはずだ。
もうこの部屋に立ち入ることは二度とないという、自戒を込めて。
なぜ交通事故に遭遇したはずの俺が自室、それも実家のベッドで眠っていたのだろう。
即座に
あの時の事故で命は助かったが、意識には障害が残った。
長らく眠り続けていた俺を両親は病院から移し、今日まで自宅で介護していた。
導き出したその仮説の残酷さに、思わず心臓が飛び出そうになる。
しかし、よくよく考えてみれば、その理屈はおかしい。
母の態度があまりに平静過ぎるし、何より部屋が散らかっていることの理由づけにはならない。
その時になって、今まで気づかなかった違和感たちが
なんと表現するのが適切だろうか。
言うなれば、全身の感覚が及ばないのだ。
衣服や空気に触れている感触の最大領域が狭まっている、とでも言おうか。
例えるならば、美容院で伸ばしきった髪を切った後の喪失感に似ている。
それを全身に拡張したような感覚だった。
まさかあまりにも長い時間、昏睡していたせいで痩せこけたというわけではないだろう。
違和感を噛み殺して、なんとか立ち上がった。
ひとまず母に会おう。
そうすればひとまず、あの日俺の身に起きた事件の顛末を把握することができるはずだ。
記憶に従い二階にある自室を出て、階段を降りて台所へと向かう。
途中の洗面所で物音が聞こえた。
足を向けると、慌ただしく洗濯機から衣服を籠に取り込んでいる母とばったり対面した。
「おはよ。新学期の初日から寝坊なんてしてるんじゃないわよ。ほら、朝ごはん早く食べちゃいなさい」
母は俺に顔を向けることなく、なんとも間の抜けた台詞を吐いた。
耳を疑った。
昏睡状態の身からようやく回復した息子に吐く台詞にしては、あまりに不相応ではないか。
推理を働かせる間もなく、その横顔を見て、俺はいよいよ愕然とする。
膵臓の病を患った、彼女の老いた姿をこの目で幾度も見ていたからこそ分かる。
事実、母は若返っていた。
深々と刻まれた額の皺やほうれい線はほとんど目立たず、全身の線もすっきりと伸びている。
その風体は、存在の脆弱さというものをほとんど感じさせなかった。
「……なあ母さん。今日は何月か、教えてくれないか」
「まだ寝ぼけているの? 今日から新学期じゃないの」
まるで訳が分からなかった。
母の言う「新学期」という言葉は、一体何を指しているのだろうか?
まるで理解が追いつかないのに、どことなくこの状況には覚えがある。
「新学期」や「寝坊」という言葉。
そして、
それらが繋がって、急速に思考の像がはっきりと繋がった。
「それと今年って、西暦何年だったっけ?」
「その話って今必要なの?」
母はこちらを睨んで、大儀そうにぼやいてから、「えっと、去年が六年だったから、二〇〇七年だったわね」とそっけなく答えて洗面所を出ていった。
ようやく俺は、自分が置かれた状況を理解した。
いや、理解こそしたが、納得など到底できなかった。
しかし、そう考えるより他になかった。
二〇〇七年、あるいは平成十九年。
それは紛れもなく過ぎ去った過去の時代だ。
これが仮に悪霊の見せた悪夢じゃないのなら、それはつまり、俺は二十五歳の精神のまま過去に遡ってしまったということになる。
タイムスリップやタイムトラベル。
タイムリープ、時間
使い古された言葉を用いれば、そうなってしまう。
交通事故に遭った拍子で、俺は十年前の世界に巻き戻ってしまった。
……なんて、馬鹿らしい話だ。
だが目の前に突きつけられた状況証拠は、それ以外の解釈を許してはくれなかった。
振り返ってみると、洗面台にかけられた鏡が俺の姿をはっきり映していた。
朧げな記憶に残っている、十四歳の福島永輔がそこにいた。
顔の造形に締まりがなく、身体は数センチ小さくなっていて、手や足の線も十年後より細くて頼りなく見えた。
何よりも精気の宿った凛々しい瞳が、十年間の埋めがたい
「ほら、ぐずぐずしてないで早く朝ごはん食べちゃいなさい。初日から遅刻するわよ」
「ああ、分かったよ」
思考能力が機能停止寸前に追いやられたまま、俺はおぼつかない足取りで見慣れたリビングへ向かった。
テーブルには白米と香ばしい匂いを漂わせるベーコンエッグ、そしてキャベツと玉ねぎの味噌汁が置かれていた。
自動的に用意されている朝食というものが懐かしく感じられ、本当に手をつけていいのか
部屋の隅には、カレンダーがかけられていた。
二〇〇七年の四月七日。
そこにはしっかりと十年前の日付が示されていた。
試しにテレビを点けてみれば、すでに過去の人となったはずの芸人が出演している新しいドリンクのCMが流れていた。
試しにニュース番組にチャンネルを変えてみると、やはり十年前に世間を騒がせた政治家の汚職事件や、人気タレントの不倫が大々的に報道されていた。
母がリビングに顔を出した。
右手にはハンガーにかけられた、グレーを基調とした無難なデザインの制服と純白のワイシャツ。
左手には、黒のスラックスとネイビーのネクタイが握られていた。
「制服、クリーニングに出しておいたわよ。今年で中学生も最後なんだから、気を引き締めなさいね」
言葉を返す気力も尽きていた。
俺はテレビの電源を消して、俯きながら朝食に手をつけ始めた。
数年ぶりに食べた母の味は、記憶よりもずっと塩辛く感じた。
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