譚ノ間
すっかり、遅くなった……。
そうは思ったが紫月は特に急ぐ様子もなくいつもの調子で邸へと戻った。
「ただいま。……煉?」
珍しいことに誰もいない。
そういえば煉にも頼み事をしていたのだった、と紫月は思い直して台所へ向かう。
春はまだ夜が冷える。
寒いのは苦手だが、庭で月を見ながらの花見酒も最高だろう。
今の時期はまだ日ノ本ノ酒は熱燗にするし肴も用意をする。
「んーっと……方埜ノ櫻が良いかな。昔ながらのやり方で作っている所が良いし、ボク達のように長く生きる“人ならざるモノ”の口にはピッタリだしね」
冷やにすれば鋭い辛みでありながら後味はさっぱり。
常温にすればほんのり甘くまろやかながら甘みと辛みが良い塩梅だ。
熱燗にすればふっくらまろやか、さながら桜が花開く如く。
種類はいくつかあるが紫月はその内の一種の瓶を手にして徳利に入れ、お湯に浸けて温める。
電子レンジの方が早いが香りが飛んでしまう上に風味が変わってしまう為、熱燗やぬる燗など日ノ本ノ酒を温める際は湯に浸けて温めるようにしている。
「それにしても……何か、忘れているような……」
そうだ。
酒の肴がない。
いつものように台所を漁ると、生ハムやチーズを発見し、意外と日ノ本ノ国の酒にも合う肴を皿に乗せて酒と共に紫月は敷地内にある足湯へと向かった。
温かい酒、美味い肴、贅沢な足湯。
「いつか、大河にも言われたけれど自分の屋敷ながら高級旅館並だよねぇ……」
月に、桜に、注いだ酒を盃に―――
「いただきます……。んっ、良いね。それに、生ハムにチーズ。こうやって、ずっとのんびりと煉と二人で酒を傾けて、美味しい物を食べて、“鬼”を喰べて、のらりくらりとしたいなぁ……」
思えば今までが働き過ぎだ。
確かに時代としては仕方がなかった。
闇が色濃く“人”の生き死になど今の世の中以上に世知辛く当たり前で。
「当たり前のことだけど……。時代と共に“人”も“鬼”も“人ならざるモノ”も変わっていくんだよね……」
今夜は、煉は戻らないのだろうか。
一人の月見に花見酒も良いが、長らく一緒にいた所為か誰もいないというのも不思議な感覚がする。
自分も、煉も、普通の“人”だったら……いや、それだったら出逢うことなどなかったな……なんて、自分らしくないことをつい感傷的に考えてしまう。
「ん? 可笑しいな……ボクらしくもない。“人”だった頃のことはとっくに忘れていて、“人”だったら、なんて思う事なんてなかったはずなのに……」
もう一度、紫月は手酌で酒を盃に注ぎ、月に、桜に向けて妖艶な笑みを浮かべ盃を持ち上げる。
「―――”鬼”は誰の心にもいる……。”ユメ”の中にだって棲まう。だから、面白いんだよね」
そして一息に、酒を飲み干したのだった。
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