第10話 ガラスのくつはもう履けない

 社会へ自分の願いを訴える数少ない伝手をひとつ奪われたことが切っ掛けだったのだろうか。それとも目を覆いたくなるような罵詈雑言を浴びて逃げ出したせいだろうか。

 「頭から大切なことが抜け落ちてゆく」現象は、それから頻繁に表れるようになってきた。

 そして……莉莉亞が恐れていたことが始まった。

 自分にとって大切な歌の世界にまで、とうとう「それ」が浸食してきたのだ。


「ご苦労様でした。もういいよ」


 歌詞を忘れ、オーディションの途中で曲が打ち切られた莉莉亞は真っ蒼になった。


「すいません。その……緊張して。もう一度最初からいいですか」


 審査していたプロデューサーらしい男が会場の出口を指さしたので、莉莉亞は慌てて食い下がった。


「悪いけど課題曲の歌詞ぐらいちゃんと覚えてないんじゃ、オーディションを受ける資格ないよ」

「覚えてきたんです。ちゃんと覚えてきたんです! こんなはずが……」

「じゃあ、歌詞をしっかり覚えて緊張せずに歌えるようになってからオーディションに応募して下さい」


 基本も出来ていない奴がと冷笑され、莉莉亞は誤解を解こうと更に必死になった。書類審査を通過してようやく受けられたオーディションなのだ。それが、こんな肝心なときに歌詞が頭の中に浮かんで来ないなんて、どうして……


「お願いします。もう一度歌わせて下さい。今度はちゃんとやりますから……」


 手を合わせて拝むように懇願する莉莉亞を冷たく見返したプロデューサーは、ため息をつくと首を横に振った。


「甘えたことを言うんじゃない。緊張してるのは誰だって同じだ。そんな中でみんな懸命に歌ってるんだ。最高の姿を見せて認めてもらう為に。君はそれが出来なかった」


 それは分かっています。だけどせっかく掴んだ希望の糸を切らしたくない……そんな気持ちを言葉に出来ず、唇を震わせた莉莉亞をプロデューサーは憐れむように見た。


「元ラ・クロワの姫咲莉莉亞さん。君の経歴書は読ませてもらったよ。歌唱力があるのは分かるけどこんな基本も出来ていないんじゃ、そもそも話にならないよ」

「……」

「それに……一年前自分が何をしたか、君分かってるよね」


 莉莉亞の身体がビクッと震えた。


「世間が君をどんな風に思ってるか知ってるだろ? どこのプロダクションも拾わないよ。それも歌詞もロクに覚えられないこんな体たらくじゃね。キミはもう、ガラスのくつは履けないよ」


 不快さに任せて言い捨てると、さっさと出て行けとばかりにプロデューサーは出口を指さす。莉莉亞だけにいつまでも時間を割いていられない。何人もの少女がオーディションを待っているのだ。

 もう、何も言えなかった。

 黙ってお辞儀をすると更衣室で身支度し、逃げるように会場を後にした。

 そうするしかなかった。


(キミはもう、ガラスのくつははけないよ)


 その言葉は、あまりにも残酷だった。

 それは何度も莉莉亞の心に思い浮かび、そのたびに彼女の心を切り刻んだ。

 ラ・クロワなんて贅沢はもう望めない、せめて別のどこかでも歌うことが出来れば……そう決意したのに、まさか、その「別のどこか」すら自分にはないなんて思っていなかったのだ。


 だからといって、歌う以外自分に何が出来るだろう。


(気持ちを切り替えよう。また別のオーディションを探して……)

(がんばろう。あの子にも約束したんだもの。きっとステージにまた立ってみせるって……)


 自動販売機でお茶を買い、ベンチに腰掛けた莉莉亞は、震える手で精神安定剤の錠剤を幾つも口に放り込み、自分を落ち着かせようとした。


(でも歌詞まで忘れてしまうのは歌手として致命的だ。何とかしなければ……)


 滲んだ涙をハンカチで拭く。スマホを取り出したが、そこであることに気が付いた莉莉亞は、黙ってしまい込んだ。

 辛いときに自分の気持ちを吐露していたメックスもファンサイトも……もうないのだ。


「がんばろう……」


 俯いた自分に、それでも励ますように言い聞かせる。

 この苦しみが報われる日がきっと来るのだと。そう信じて。


「歌うんだ。もう一度ガラスのくつをはいて、ステージに……」


 声は震えていたが、それでも立ち上がって言葉にする。言葉は力になるのだ。

 今日のことは忘れよう。飛び切り甘いお菓子でも買って帰って元気をつけて、ボロボロになったこの気持ちを立て直そう。

 そう思って歩き出した時だった。


「あっ、莉莉亞さん! 莉莉亞さんじゃないですか!」


 どこかで聞いたような声に振り返ると、小柄な一人の少女が転がるようにこちらへ駆け寄ってくるのが目に入った。


「あの……ええと……」

「あぁー莉莉亞さん、私のこともう忘れたんですか? もぉ、ひどーい!」


 ぷぅ、と可愛らしく頬を膨らませるが無論本気で怒っている訳ではなく、少女は両手を握って「まどかですよ! 若松まどか! 前にオーディションで私のこと励ましてくれたじゃないですかぁ。一緒に頑張ろうって!」と名乗った。

 それで莉莉亞もようやく思い出した。あの時、ガチガチに緊張しながら「自分のファンだった」と告げたアイドル志望の少女だ。


「ごめんなさい」

「トクベツに許します! って偉そうにゴメンなさい、えへへ……」


 あの時の意趣返しのようにまどかは繋いだ両手をブンブン振って笑い、釣られて莉莉亞も笑った。


(そうだ。あの時一緒に頑張ろうって励ました自分が、こんなところで下なんて向いたらいけない)


 気を取り直した莉莉亞は「あれから頑張ってる?」と尋ねようとした。

 だが。


「莉莉亞さん、聞いて下さい。私とうとうデビューが決まったんですよ!」

「え……」


 思いがけぬ言葉に莉莉亞の笑顔が硬直した。

 知らせを受けたばかりなのだろう。興奮冷めやらぬ様子で話すまどかは、身振り手振りだった。


「一昨日受けた『ベイサイド・ステーション』イメージガールのオーディションで選ばれたんです!」

「……」

「頑張りました。莉莉亞さんに励まされて、莉莉亞さんになりきったつもりで一杯歌の練習して。そうしたら昨日連絡が来て、一昨日受けたオーディションで私の歌が一番凄かったって言われたんです! ああもう自分でも信じられない!」


 顔を強張らせた莉莉亞に気づかず、まどかは有頂天で滔々と捲くし立てる。


「今から事務所で契約して、これからの予定を打ち合わせしに行くところだったんです」

「そ、そう」

「でもその前に私、莉莉亞さんに会ってお礼を言わなきゃって思ってて……そしたらこんなところで会えるなんて!」

「……」

「だから……あれ、莉莉亞さん?」


 ああ、この少女は自分が夢焦がれてなおも行けない場所へ、もう飛び立ってゆくのだ。

 そう悟った莉莉亞の表情は、強張ったそれから次第に穏やかな、さびしそうなものへと変わっていった。


「そう、貴女はとうとうガラスのくつを履けるのね……」


 心の中に突き刺すような痛みが走る。

 ガラスのくつ。

 光差すステージへ立つ者にだけ履ける、ガラスのくつ。

 まどかは一瞬戸惑った表情を浮かべたが笑顔でもう一度、莉莉亞の手を取った。


「大丈夫です。私なんかでも履けたんですもの。莉莉亞さんだってガラスのくつを履いてステージに立つ日がすぐ来ますって!」


 彼女は自分の言葉ががどんなに莉莉亞を傷つけているのか、まるで気がついていなかった。


「うん……そうね」


 言葉に詰まり、俯くと莉莉亞は唇を噛んだ。

 そして、顔を上げて笑顔を見せた。

 精一杯の微笑みで、莉莉亞は「よかったわね、おめでとう」と祝福した。


「私、先にステージの上に立てたけど、待ってますからね。一緒に歌うんですから!」

「約束だったものね」


 そうやってしばらく話し込んだ莉莉亞は「じゃあ私、そろそろ待ち合わせの時間があるから……」と、手を振った。

 待ち合わせの約束なんて何もない。

 だけどもう、崩れてしまいそうだったから。


「じゃあまた」

「ええ……」


 振り返ると、自分へ大きく手を振ったまどかがまるでスキップのような足取りで去ってゆくのが見えた。


「……」


 夢遊病者のような足取りで莉莉亞はその場を離れた。

 泣いてはいけないと懸命に堪える。決壊したら、衆目の中でもきっと止まらない。

 だけど自分の安アパートにも帰りたくなかった。一人でいることが辛くて耐えきれそうになかったのだ。

 莉莉亞は街の雑踏の中にふらふらと紛れ込んだ。

 行き交う人々は足早に通り過ぎてゆく。誰も、莉莉亞に目を留めてくれない。昔だったらたちまち気づかれて大騒ぎになっただろうに。

 今の自分は、この街を徘徊する名もないモブキャラにすぎない。

 それが、たまらく辛かった。


(私も……私もガラスのくつが履きたい!)

(あの娘みたいに……)

(誰か……私をもう一度あそこに立たせて……お願い!)


 狂おしさに思わず叫びそうになったとき。


「〇月○日、オラトリオ・アソシエイツより新生アイドルグループ『スプラッシュウェイブ・エンジェルズ』鮮烈デビュー!」


 ぎょっとして顔を上げると高層ビルの壁面に掲げられた巨大な街頭モニターが目に入る。そこに煌びやかな少女達が映っていった。

 キレのあるダンスシーンをスポットライトが輝かせている。莉莉亞は思わず見入った。皆、アクアブルーの美しいドレスを纏っている。

 彼女達には見覚えがあった。自分がラ・クロワの歌姫だった頃、オラトリオ・アソシエイツのスタジオで懸命にダンスのレッスンに取り組んでいた練習生達。

 ひたむきな彼女達を見つめ、莉莉亞は「私たちも負けないように頑張ろう」と檄を飛ばし、メンバーみんながうなずいたのだった。

 あのとき「自分達は彼女達より上だけど負けられない」と思った彼女達が、今では自分が見上げるような高い場所にいる。自分が立ち入れない世界に。

 莉莉亞は彼女達に比べ、今の自分がゴミ粒みたいな卑小な存在になってしまったと感じた。

 そして、さっき出会った少女もモニター画面の彼女達のように、これから更に高みを目指して駆け上がってゆくだろう。


(……!)


 周囲の人々はモニター一杯に躍動し歌うアイドル達に「おお……!」と、どよめいた。莉莉亞だけが顔を引き攣らせている。


(私だけが……)

(私だけがあの場所へ行けない。このまま誰にも顧みられずに置き去りにされて、流されて……!)


 寂しさと悔しさと……そして身を焦がすような焦燥感で身体が震えだした。


(このまま私、消えてしまうの……?)

(イヤだ! 消えたくない! 私もあの世界にもう一度……)


 半泣きになった莉莉亞は目についた近くの雑居ビルに飛び込んだ。非常階段へ入り込み、スマホを取り出す。

 成河マネージャーへメールを送った。チクサと同じように通話こそ拒否していたが、メールは拒否されていなかったのだ。返信が来たことは一度もなかったが。


『成河マネージャー、私もう一度歌いたい。助けて下さい』


 短い文面だが、それが莉莉亞の気持ちすべてだった。

 だが、送信したメールはすぐに「MAILER-DAEMON」で戻ってきた。莉莉亞は首を傾げる。多数の仕事の打ち合わせで使っているメールアドレスなのだ、安易に変えられないはずなのに。

 オラトリオ・アソシエイツとの関わりを絶たれ内情など知らない今の莉莉亞は、彼女がプロデューサーの逆鱗に触れてクビを切られたなどと知るはずもなかった。


(じゃあ……)


 もう、縋れる人は一人しかいない。

 莉莉亞は、必死に次のメールを書き始めた。震える手で何度も入力を間違えては打ち直す。


『チクサ、助けて。私、このまま置き去りされて消えるのが怖い。なんでもするからお願い。私、ラ・クロワに戻りたい!』

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